紀元前1000年ごろから、「はさみ」は存在していたと聞く。ニュートンの生まれるずっと前だ。そこに方程式が存在しなくとも、還元的説明はなくとも、「はさみ」というものは存在し、人の関係ネットワークによって世界に広がっていった。そして、関係ネットワークに交わった者たちは「はさみ」に切れ味を追求し、美を追求しあるいは、用途により形を変えて使いやすさを追求し、「はさみ」に関係ネットワークの心を吹き込んでいった。つまり、関係ネットワークは「共通するものの意味」を中心として編成されてゆく。個人が共通の考えや問題に反応し、共通の仲間とネットワークに参加し、その考えを現実のものとしようとする。表向きは行き当りばったりの行為だが、ネットワークを保つ一貫性のあるエネルギーとして蓄え、「情報」は「情熱」に変わり変化を追及する。もはや「管理」はいらない。とうてい「ボス」もいらない。ただ中心に「共通するものの意味」があれば調和がとれた変化ができる。
これを色強くあらわしているのが、「テロリスト集団」だ。地球上の人々をわずか数千人でハイテク技術もなく、もちろん予算などのなく、支援者(わからないが)は限られる中やってのける「関係ネットワーク」の「情報」を「情熱」に変える集団だ。この者たちに学ぼうとは思いたくはないが、「関係ネットワーク」と「行動」と「情報の熱交換」には驚かされる。我々はいまだ、ヒエラルキー社会とニュートン力学の中で暮らしているため「○○○が悪い」などと原因と結果を一点に絞りがちだ。「敵の親玉の首を取れば勝てる」「予測し分析すれば原因と結果がわかる」と信じるフィルターを通して観るために感知器官を鈍らせている。むしろ感知器官を正しく使いきれていないのだ。しかし、彼らは違う。指導者というものを失っても今だに存在し、何の制約もなく自由に行動し自分たちの誇れるシステムを構築し続けている。そこには、指示も見返りのボスもいらない。つまり、その指導者も同じ思想や目的を共有している一成員だったということだろう。だとしたら、彼らのつながりは水平構造による自由な「関係ネットワーク」であることになる。我々の思考で幹部と思われる者たちを膨大な資源を使い攻撃したとしても、その集団のほとんどが無傷のままであり、さらなる「情熱のネットワーク」を育て「変化」する。その役目をヒエラルキー社会とニュートン力学に頼る我々が引き受けることとなる。その対応策として予算を組む政府は皮肉なものだ。
「伝言ゲーム」のように答えが変わらなくては面白くない。変化がなくては、人の考える「力」を「意味」を「関係ネットワーク」を殺してしまう。もはや「安定」という情報は危険だ。上層部へ行くほど、この「安定」や自己を脅かす重大な「情報」は必要不可欠の課題であり、外部の自由を奪うことでしか保たれない。つまり、ローカルな者の期待が「平衡状態」になるのを恐れているのだ。一方、ローカルな側の行動はどうだろう。「安定」を夢見て「誰かが変えてくれる」なんていう外注思考だ。この中には、評価への恐れが含まれている。「言われたくないから、言わない」「「聞いたけど、聞かなかったふりをする」といった自己の「安定」のための「情報」の遮断を意図的に行っている。双方とも、「変化を恐れていることになる!」。
人が歩く時、一歩前に行くために片方の足を動かし、次にもう片方の足を動かす、この間に実は常にバランスを崩している。つまり、動的なバランスを保ちながら歩いているのだが、ほとんどの人がこの行動を意識はしていない。脳からの情報を受けているわけではないからだ。初期の脳生理学では、情報は神経細胞から神経細胞へとヒエラルキー組織が目指したように整然と伝達されるものと考えられていた。しかし、新しい脳の理論では、「情報」とその「意味」は体のそこら中に分散しており、特定の部位にある神経細胞に限定されないと考えられている。また、記憶は「神経ネットワーク全体の内部にある関係として生じているに違いない」と考えられている。そうすると、歩くという行動も神経細胞同士の関係ネットワークで成り立っており、意識をしなくても動的バランスを保てるということだ。人の神経細胞の中には、複雑な情報があちらこちらを旅し、整然とした道筋に決して統合されることはなく、それでいて記憶や機能としてまとまる能力がある。つまり、我々には昔からそんな能力が備わっているということだ。
我々の感知器官を鈍らせているフィルターをはずし、新しいレンズで観て感じる時代が訪れている。
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