教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

「いじめ」を無くしたい!(私から、大切な者へ)16

2014年05月01日 | 日記

攪乱は経験の情報を語り言語化しているのではなく、現在では、言語が攪乱を経験し言語を攪乱としての情報としている。しかし、言語自体に情報伝達能力は持ち合わせていない。それは都合のいい応答システムによる幻術による。言語自体その幻術による仕組みがあり、指示的な意味を含むため反応を期待することになる。あいさつや、ボケとツッコミ、言い争いや説明・・・・合意された知識であるからこそ情報伝達と勘違いされている。例えばあいさつにしても、無視という反応が返ってくれば、頭にくるまたは、落ち込むというような指示的な意味の上での反応への期待となる。ボケにより愉快になれという指示的な意味を計画的に表現し、ツッコミにより更なる指示的計画を表現する。言い争いも自身の指示に従うように負けず劣らずと言語を重ねが、場面が変われば「お客様は神様です」などという言語により中身も知らないものに対して満足する行為を強制されそれに従う。そのことに対して言っておくが、「それは決して生きるための手段や行為ではない!!!!!」。説明とは、まさしく計画的な指示的言語である。

現在、攪乱を起こしているのは人の「心」ではなく、言語による攪乱であり、合意されたものによる知識の攪乱である。合意されたものから生じる観察者としての期待と反応が、自ら突貫工事により作り上げた領域、または自己領域で信じている文化的が平衡状態ではいられなくなっている。そしてそれを、自らが生み出していることを知らないままでいる。

言語による幻術はすぐ目の前にあるのに、合意された知識と倫理のもと・・・・つづく。



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