教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

静寂のカオス  実践中・・・・・(新たな光 ガイア)

2013年11月09日 | 日記

自分自身の主張または強調するあたかも真なる自己が在るかのように執着することが「苦」を招いているとするなら、「苦」を取り除くことは至って単純なことだ。執着をしなくなればいいということだ。

 

しかし、実は悩ましく忍耐を越えた大変な作業となる。「五蘊」を思い出してほしい。私たちには、身体が受ける感覚(こころよい、ふゆかい、そのどちらでのない)と、何が起きていると認識・識別する反応と、それに伴う自信、欲心、怠慢、不安と、それらを全部含めた接触という経験をする。単に切り捨てることはできないものが備わっているのである。心理カウンセラーにせよ、セラピーにせよ、その部分に触れることはない。ただ、個人の馴染みある環境を頑固にし、導くための城壁を作っているだけなのである。一度それに触れると後戻りできなくなる人にとっては、ある意味、依存症(麻薬)なのだ。

身体を成り立たせている、邪魔する「五蘊」に気付かなくてはならない。その習慣と執着に観察と反省と否定をもって立ち向かわなくてはいけないのだから、悩ましく忍耐を越えた大変な作業なのだ。

 

例えば、ふっと見かけた優しそうな老人に、あなたは手を振ってあいさつが出来るだろうか?きっと習慣的には老人に気付く程度か、するとしても何か動機や動かすものが必要となるだろう。しかし、手を振ることを覚えたての子供の様子を見ていると、その行動は実にユーモアだ。じっと相手を見つめ観察し、無表情で手を振る孑、表情を変えて手を振る孑、様々なアクションで手を振って見せる。この時の思考状態はどんなだったか?私たちはもう忘れてしまっている。と、言うか、習慣に封じられているのである。自分自身の主張の排他的な心の中で、馴染みある環境を整えようと利己的/利他的をかえして選択しているだけなのである。つまり、観察と反省のない方法をもって習慣的に利己的にあろうとしているだけなのである。



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