私たちは根拠という基盤から自己や執着を見出し守ろうとする。
自己の領域の領有権をわけもわからず信じる人たちは、否定的で排除的なやり方でしか他者を認め得ない。自己の系統、トラウマを盾とし領域内の思想と同等の他者のみを取込み、あとの者は関係のない者か無視か排除する対象となるわけだ。そこに否定や喪失として無根拠性をとらえれば、絶望や落胆、そして既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度に襲われるのは必至である。そしてそれを解決しようとする治療法は、新しい根拠を見つけること、昔の根拠に帰ること、一からやり直すことである。根拠を基点とした治療法は角度を変えただけの一瞬の麻酔であり、執着からは逃れられない方向転換のみの課題を与える。さらに影響を与えるのが医療法を説明する言葉や定着した言語についての概念だ。それは、「六つの感覚」の体験よりずっと多く、たやすく把握され、根拠とみなされ、執着の成分として組み込まれる。経験よりも言葉や言語により押さえつけられるような場面を誰もが知っているはずだ。
ある専門分野の成功者は、固定された見解や概念を真実ととらえられないように戒めているようだ。自分の世界は自分が建設するという執着と思索の、おごりたかぶりさと取引したくないからであろう。無根拠にただナチュラルに結びついている関係と付き合い、他者との存在意義を認めているのだろう。この心構えの背後にあるのは、自らの執着性に対峙することが自分自身に対する親密な行為であるという考え方であるはずだ。この親密さが醸成されるにつれ、周囲の人々に対する関心も同じように拡大する。この拡大とは、知れば知るほど開かれた「心」により自己中心的ではない「慈悲の心」を宿すことだ。それにより、自我心に固定されない「心」はあらゆる人たちを集め、また集まるようになり、全く無関係ない人々とも声をかけ、素朴に話し合える場や空間が備わり、人々を引き寄せる暖か味のある「力」を持つのであろう。
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