人は執着のループにはまり抜け出せないでいるようだ。
そのループから抜け出すきっかけは用意されているが
どうやら、そのループの中での自己の存在のほうが
馴染みあり、過ごしやすいようだ。
しかしその代償に、争い、絶望、失望を
受け入れなくてはならないことを知らない。
恋することに賭け引きが生じるのも
自己心への執着と根拠があるためで
ただ、代償のある「賭け」をしているだけなんだ。
ある意味、「予測と賭け」は同じ意味を成す。
今お前が何かを欲しそれを取り入れようとするとしよう。
そこには自己指向性と他者指向性がある。
そのためにある仮設が生まれ、
それを予測(自己指向)し賭け(他者指向)をする。
そのために代償を背負うこととなり
(取り入れたとすれば、欲したものの過程を背負うこととなり、
取り入れられなかったら絶望を味わうこととなる)
いつしか賭け引きが自己の中で成立し
執着を深め「根拠」を生みだす。
でも、その根拠は自己を保つためだけであり
決してお前を賭けに勝つためのに備わるのではない。
予測の中に根拠を見いだせるものは何もない。
欲す何か自体は環境が一致しない限り
選択権をもたない、関心すらない
無根拠なものだ。
成功しても、失敗しても、
それを運命の言葉に意味を持たせがるのは
執着心を優しく守るための
美化か逃げ道でしかない。
だから自己や根拠を探すのではなく
無根拠にあらゆる環境と出会いなさい。
お前が無根拠に出会う環境により
お前の環境は変わっていきます。
お前の環境が変わるということは、
お前の身近にいる者の環境も変わる。
無根拠に優しくありなさい。
そこに快、不快は現れるかもしれません
でもそれはお前の歩んできた
生得的特権であり自由を奪うものではありません。
快も不快も
精一杯、愛しなさい。
でも愛するとは、
好きになること、恋することとは
違うんだよ。
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