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“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

『わからない』ほうが、幸せなこともある。

2007-01-26 22:23:48 | Essay
東京で、兄による妹の絞殺、遺体の解剖事件が起きてからしばらくたつ。
他にも、親族殺人事件などがマスコミを賑わせている。

その報道を見ていて感じるのは、コメンテーターの人たちが、
「いやぁ、理解できませんね」
「なんでこんな事が起こったのか。社会が病んでるんじゃないですかね」
・・・などと、思いっきり憶測でコメントを発していることへの不快感です。

出演してお金を貰っていて、「わかりません」だの「~じゃない?」ということ自体が、私には「理解できない」。
少しは下調べをして、先例や理論を引きながら、実のあるコメントをするべきではないのでしょうか。

さて、私には、正直これらの事件について、理解できなくてもよいと思っている面がある。
というのも、たしかに事件を調べて、なぜ起きたか、なぜこんな経過をたどったか、犯人の心理は、などを理解することは、以後に同種の事件を起させないために必要ではあろう。
ですが、理解したところで、予防措置をいったい取ることは実際にできるのか?
社会が病んでいるのはもう十年も前から分かっていることで、社会、家庭、学校教育などのあらゆる面で、なんらかの措置が取られていたにもかかわらず、事件は起き続けるのです。

また、実妹をバラバラにして、内臓などを生ゴミ処理機で処理していたような犯罪者の心理など、私は「理解」したくもない。
理解して、なんになるのか。自分もそうならないように、気をつけるのか。
犯罪者の心情に、同情でもするのか。
・・・あるいは、その心情に同調して、自身も肉親を殺すのか。

わからないほうが、人間の精神衛生的によいこともあるのでは。
理解してしまえば、「仕方がない」、「自分もやってしまいたい」と思ってしまわないだろうか。
心で思っても、行動するかしないか、それは理性による。
理性の無い人間は、もはやケダモノでしかない。

犯罪者達は、刑務所で無期懲役になるのだろうか。
しかし、ケダモノを刑務所で飼い殺しにするのに使われるのは、国民の血税である。
犯人であることが明らかなケダモノたち。それを処分するのに、「死刑」ほど理性的なものはない。
どう検討しても有害でしかないものは、処分してしまうほかないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

このようなコメント、あるいは論議を、ニューズ番組で耳に出来れば、私はその人たちに喝采を贈ります。
  
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