On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■地元紙が伝えるクイーンズ・ジュビリー in ヨコハマ(その3)

2022-07-23 | ある日、ブラフで

1887年6月21日に横浜で行われたヴィクトリア女王即位50年(クイーンズ・ジュビリー)祝賀行事の模様を伝える『ジャパン・ウィークリー・メイル』紙の記事の最終回である。

クライストチャーチでの礼拝から始まり、クリケット場での運動会と昼花火をはじめとする数々の余興そしてパブリックホールでのシェークスピア劇上演と華やかな行事が繰り広げられてきた喜びの日もついに日が暮れ、祝祭はいよいよクライマックスを迎える。

和訳及びカッコ書きの注は筆者による。

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観客たちは劇場を出ると海軍補給所へと向かった。

このころには、西の端からブラフの一番高いところまで横浜全体がイルミネーションの輝きに包まれ、港の上空は軍艦から放たれた電光によって青白い輝きに満たされていた。

午後9時ごろには、海軍補給所が開放されることになっていたが、その時刻にはまだ人影まばらだった。

しかし、しばらくすると続々と人が集まってきた。

製氷所の向かいの橋から続く提灯の列が海軍補給所へと導かれていく。

その入り口は敷物で覆われていた。

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建物の中の2つの広間が舞踏室になっている。

午後9時半頃からここでダンスが始まると、人々は何時間にもわたって嬉々として踊り続けた。

海に面した広々としたスペースはキャンバスで覆われていて、その上に旗がずらりと並び、豪華絢爛きわまる巨大なテントといった様相を呈していた。

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日が落ちて間もなく、港に停泊している英国船、ヒロイン号、オーデイシャス号、リアンダー号、コンスタンス号は青い光で飾り立てられた。

リアンダー号が放つ強い光線が港いっぱいに流れて近隣の船のマストや帆桁や煙突を鮮やかに浮かびあがらせたかと思うと、またブラフのあたりをさまよい、クリーク(現在の堀川)にしつらえられた夕食用のパビリオンの内部まで照らし出す。

これは、この夜見られた装飾の中でも目を見張るほど見事に効果的なものであった。

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ボートクラブの桟橋には、有名な花火師である平山氏が作業するためのスペースが確保されている。

さまざまな種類の花火が打ち上げられたが、主に人々の目に触れたのは、臼砲を竹の小枝にしっかり結びつけたものであった。

色とりどりの弾が空高く打ち上げられては炸裂するという光景が10時頃まで繰り広げられ、実に壮観であった。

弾が炸裂するたびに、リアンダー号から青白い光線が上に向かって放たれ、それが爆煙と、降り注ぐ火花を受けて、見事なそしてはかない美しさを見物客の目に焼き付けた。

時には電気光線が補給所の上の丘陵を照らしてブラフ特有の樹木や低木に超自然的な美をもたらし、幾重にも生い茂った木々の葉を青白い炎の集まりのように映し出したかと思うと、枝やまばらに生えた葉を、繊細で柔らかな透かし細工のように美しく浮き上がらせて見せた。

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補給所から見ると、またとないほどの印象的な光景が広がっていた。

キャンプヒルは「英領インド皇帝」と書かれたランタン一色で飾られ、その光のきらめきは暗い高台の奥深い背景を照らし出している。

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キャンプヒルの道路を縁取る光の線が、あまり優雅とはいえない大通りのあちらこちらさえも優美なものにかえてみせた。

その下には、製氷所の近くに架けられた小さな橋があり、その付近を大勢の群衆が押し合いへしあいしながら横切り、そこからバンドをめぐる美しい遊歩道の曲がり角に沿って長いランタンの列が続く。

P.&O.のオフィスなどあちこちにランプで飾られた丈の高い旗竿が建てられ、ランタンを掲げた家がほぼ途絶えることなく、切れ目なく続くイルミネーションの輝きにあたりの視界が遮られるほどであった。

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様々な色や形の千を超える数のランプが飾られ、晩にはキョドダンズとテュレンヌの楽団が素晴らしい音楽を提供することになっていた海軍補給所に多くの観客が引き付けられたことは言うまでもない。

パブリックホールに集まった観客のうち少なからぬ人々が、古い作りのトルコ風呂のような熱気を嫌い、海辺にしつらえられた大きなパビリオン近辺の涼し気なところへと逃げだした。

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ダンスは相変わらず続いていたが、劇場に行っていた観客が到着した12時ごろになるとほとんどの人々が夜食をとるためにパビリオンに集まった。

この夕食がまさに見ものであった。

テントが巨大であったため、委員会はそこに500人分の席を用意することができた。

12時を少し過ぎたころには、その人数が完全に席を確保したが、ほぼ同数の人々は立ったまま食事をした。

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プランケット英国公使は、著名人と外交団のために特別に設けられたテーブルの席についていたが、今宵の乾杯の盃を「女王の健康」のために掲げようとを呼びかけつつ次のように語った。

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ご列席の皆様、英国人が重要な公式行事に集い、君主のために祝杯を挙げるときのことばは、通常、"The Queen "という2つの単語に集約されます。

この二つの短い単語だけで、長きにわたり大英帝国を統治してきた偉大にして気宇壮大なる君主に対するすべての感情を鮮明に思い起こし、女王陛下に対する忠誠心と愛情が胸にこみあげてくるのです。

とはいいつつも女王陛下のジュビリーという偉大なイベントを祝うために特別に集まったこの機会に、二言三言、述べてさせていただいてもよいでしょう。

もちろん、そんなことをしなくても乾杯の栄誉に浴するにあたって私たちの胸はすでに熱い思いにあふれていますが。

§

王室のジュビリーが歴史上いかにまれであるか、また今回のような幸福な状況で祝賀をおこなうことがいかにまれであるか、改めてご説明する必要はないでしょう。

陛下が最初に即位されて以来、このような大きな変化を目の当たりにすることができた君主はいたでしょうか。

また、英国の歴史においてヴィクトリア女王陛下のように、臣民の愛と尊敬と愛情を保ちながら、これほど長い治世を生き抜いてきた君主がおられたでしょうか。

§

この50年間、多くの喜び、多くの不安、そしていくつかの悲しみがありました。

しかし、天気が曇りであれ晴れであれ、幸運に恵まれてようが不運に見舞われようが、政党間にいかなる論争が起こっても、いくつかの問題に関する議論がいかに険悪なまでに至っても、英国は、本国においても植民地おいても、一つの偉大な理想、一つの揺るぎない結束、すなわち私たち全員が尊敬する偉大なる女王陛下への忠誠と信頼を保ってきたのです。

私たちはその方をすべての英国的美徳の模範として、また英国の結束そのものとして尊んでいるのです。大喝采

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また、陛下は英国民に限らず、民衆の心をつかんでいいます。

偉大な国家たるアメリカは、君主を戴くことを禁じていますが、女王の資質を賞賛することにおいて他に後れを取ってはいません。

そして、わが英国のいとこともいえる広大な共和国のどのような家庭にも、ヴィクトリア女王ほど高貴な女性のあるべき姿の模範となる者はいないのです。

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さて、この食卓においても、また観劇の場においても、この思いやりにあふれた国の皇族の方々がご同席くださいました。

この地は、私たちを、そして諸外国の代表者たちや勇猛果敢なる提督、外国の戦艦の司令官らをその岸に喜んで迎え入れてくれました。

そしてそれらの軍艦は今日、わが英国艦隊とともに、わが女王に賛辞を贈るべく祝砲を響き渡らせてくれたのです。

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また、ほとんどすべての国の友人たちも来てくださいました。

彼らが私たちの祝典に賛同してくださったことは、その趣旨に彼らが心から共感してくださっていることを明白に物語っています。

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わが同胞の名において、友人の皆様に感謝し、ご協力をありがたく思い、心から満足していると申し上げます。

私たちは、いわば故郷を離れ遠い異国の地に住むほんの一握りの英国人でしかありませんが、私たちの君主の功績と、半世紀にわたり、陛下が素晴らしい態度をもって高貴な地位に伴う責務を遂行されてきたということを、誇りと感謝をもって証言します。

§

そして、女王陛下の繁栄と幸福、そしてその慈愛に満ちた治世が長く続くよう、心を一つにして深く祈ろうではありませんか。

この祈りは乾杯の言葉、私が光栄にも発声させていただくこの言葉、すべての大英帝国臣民の心を揺さぶってやまないこの言葉で表現されることでしょう。

すなわち、"The Queen”。大喝采鳴りやまず

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公使の演説が終わると、楽団の演奏に合わせてテント内の大勢の人々と、外で行進していた数百人の船員たちが声を合わせて英国国歌を歌い、その歌声は何マイルにもわたって響き渡った。

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1時に松明行列が居留地を行進することになっていた。

1時を数分すぎたころ、楽団が海軍補給所の構内から現れ、行列を先導した。

そして、少なくとも300人は下らない英国人群衆の一人一人に長い松明が手渡された。

とはいえ、海軍軍人の忠誠心にとってはこの数では不足していたようで、船員の何名かは2本、もしくは3本を手に取ろうとしていた。

§

行列は多くの歓声に包まれながら本村(現在の元町)を通り、前田橋を渡ってバンド(海岸通り)へと進んでいった。

クラブ広場には多くの紳士が集まっており、その頭上のベランダにはまた多くの淑女が集っていた。

彼らは楽団の演奏に合わせて松明行列の人々と心ひとつに国歌を歌いあげた。

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英国領事館の向かい側では、行列が近づくと青色などの明かりが灯され、同様のセレモニーが行われた。

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松明行列の人々はその後、楽団の演奏に導かれて、郵便局の向かいの旧県庁の敷地を1周してから南側の門から中に入った。

そこで全員が松明を放り投げると、あっという間に大きなかがり火となって燃え上がった。

一同は楽団の演奏に合わせて、「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」の一節を驚くほど威勢よく歌い上げた。

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その後、船員たちは波止場へと行進し、3時頃には船に戻った。

コンスタンス号のガビンズ中尉とその部下たちが、この大軍を一人の脱落者もなく、完璧に秩序に則って引き上げたことは、祝賀会の特筆すべき点であったといえよう。

日本の警察は、泥酔や騒動が一件もなかったと証言している。

これは横浜住民のほとんどが認める事実であろう。

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行列がかがり火の近くを離れた後、万一に備えて用意されていた消火器が作動し、朝のしんとした空気に向かって二筋の水流が放たれ、炎の上に降り注いだ。

それが横浜におけるクイーンズ・ジュビリーの最後の光景となった。

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祝祭委員会、とりわけ不屈の精神の持ち主である委員長、J・F・ラウダー氏に心からの感謝の言葉を述べずにこの記事を終わらせては、当紙は皆の気持ちを代弁しなかったことになってしまう。

委員会諸氏は様々な情報にふりまわされることなく、着実に取り組み、困難や労苦、そしてあからさまな忘恩に見舞われてさえも、決して尊い責務を遮られるまいと決意していた。

その結果、このような見事な成果を得ることができたのである。

英国人コミュニティ全員から委員会に対して、またそのメンバー一人一人に対して、そして繰り返しになるがとりわけラウダー氏に対して、心からの謝意を表する。

このようなたゆまぬ、無私の、有能な管理者なくして、私たちの君主に対する尊敬と愛にふさわしいセレモニーに参加する幸運に恵まれることも、この居留地の栄えある出来事としてこれを記憶に残すともできなかったであろう。

 

図版:ヴィクトリア女王肖像画(ハインリヒ・フォン・アンゲリ、1885)
   この油彩画をグラビア印刷により複製したものが英国王室よりヴィクトリア・パブリックスクール(クイーンズ・ジュビリーを記念してブラフに設立された外国人居留民子弟のための学校)に下賜された。


参考文献:The Japan Weekly Mail, June 25, 1887.


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