On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■ドイツ帝国海軍病院創立25周年記念祝賀会

2017-08-23 | ある日、ブラフで

元街小学校は山手町の静かな住宅街の一角を占める横浜市の公立小学校である。

その敷地には、1911年末(明治44年)まで33年にわたりドイツ帝国海軍病院があった。

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設計・監督は当時横浜で設計事務所を開いていたフランス人のレスカス。

1876年12月暮れに起工式が行われ、1878年(明治11年)6月1日に開設された。

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当時の絵葉書を見ると、小学校校門と同じ場所に正門が構えられており、その左右の扉にはマルタ十字の形が認められる。

現在、校舎の建っている場所は松林で、それに囲まれるように煉瓦造りの2階建ての病棟が2棟あった。

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その日、1903年(明治36年)7月5日(日曜日)、午前11時。

降り続く雨の中、ブラフ(山手町)40・41番地のドイツ帝国海軍病院にはドイツ人をはじめその他の国籍の地域住民ら大勢の招待客が病院設立25周年を祝うために集っていた。

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東京から訪れたドイツ公使アルコ=ファーレイ伯爵、公使館職員、ガイスラー中将とその部下、更には周布神奈川県知事をはじめとする日本の名士達、そして退役軍人であるヤンセン将軍、W. ヘーゲン・ドイツ総領事代理、M. クッチェラ・オーストリア領事、L. カザッティ・イタリア副領事ほか主立った横浜在住の外国人が顔をそろえていた。

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招待客は病院へと案内され、防火訓練実演を見学した。

訓練は好評を博し、続いて保険会社エヴァーズ商会のM. カウフマン氏が、病院に古くから勤務する日本人職員たちに向けてプレゼンテーションを行った。

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主催者と来賓の挨拶が行われた別館は、旗を用いて趣深く飾り付けられていた。

壇上には「25」という数字が赤と白で掲げられ、その両側に赤十字のエンブレムと共にドイツの旗があしらわれている。

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病院の理事であるH. マティオリオス医師が病院の歴史について詳しく説明したのち、病院の運営を常に支援してくれた日本の当局に対し感謝を表明し、オース医師がこれを日本語に通訳した。

続いてガイスラー中将が立ち上がり、天皇陛下を嘉する言葉を心のこもったようすで述べると、横浜港に寄港中の巡洋艦フュルスト・ビスマルクの楽隊が“君が代”を演奏した。

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周布知事は若き日の留学先であるベルギー仕込みのフランス語で挨拶した。

海軍病院当局に対して援助してこられたことはまことに喜ばしく、今後もまた同様に可能な限り支えていきたいと述べ、最後にドイツ皇帝の健康を祝すと、またしても皇帝への忠義を誓う万歳の声が起こり、国歌がそれに続いた。

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アルコ=ファーレイ伯爵は周布知事の言葉をドイツ皇帝にお伝えすることは私の義務であると述べた。

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皇帝陛下が日本当局による斡旋について謝意を表すとともに、周布知事閣下への感謝と友情の印に勲一等を授与するよう公式に命ぜられたことを彼が明らかにすると、それはただちに日本語で伝えられた。

周布知事はまたもフランス語で受勲を名誉に思うと答えた。

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これを以てこの日の公式の式次第は幕を閉じ、続いて午後1時30分から本町通りのジャーマンクラブに場所を移して記念の特別昼餐会が催された。

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フュルスト・ビスマルクの楽隊による一連の演奏が秀逸であったこと、しかしながら執拗に降り続いた雨のために屋外での祝典は全く断念せざるを得なかったことは極めて遺憾であると、当時の新聞は伝えている。

 

上段左橋の写真の人物が病院理事H. マティオリオス医師

 

図版:手彩色絵葉書 すべて筆者蔵
*一番下の絵葉書は横浜で活躍した米国人写真師カール・ルイスによるもの。関連記事

参考資料
The Japan Weekly Mail, July 11, 1993
・沢護『横浜居留地のフランス社会』(敬愛大学経済文化研究所 、1998)

Bluff40_41

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2 コメント

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■ドイツ帝国海軍病院創立25周年記念祝賀会 (Scott家の孫)
2020-01-03 16:44:08
先ごろ亡くなった父のルーツを調べています。山手生まれの父は元街小学校の前の校舎の第一回入学で、生前「あそこは元はドイツ病院だった」と話していたことを、貴ブログのおかげで確かめることができました。明治末から横浜に住んでいた祖父、曾祖父(英・米国人)の足跡も調べたいので、今後貴ブログを参考にさせていただきます。
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コメントありがとうございます (筆者)
2020-01-05 20:45:33
何世代にもわたって横浜にお住まいなのですね。
差支えなければ、いつ頃山手の何番地にお住まいだったかお教え頂ければ調査のお手伝いができるかと思います。
今後ともよろしくお願い致します。
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