東京こころ

心のこえ

無教養の人・・なのか?

2015-02-19 | Weblog
先ずは”内田樹氏”の言葉より抜粋↓

「曾野綾子の知性が不調なのは、
彼女の個人的信念が世界標準では「許されない非人道的なもの」
として認定されているという「事実」を勘定に入れることを怠った点にある。

そして、さらに問題なのは、
このように低調な知性の持ち主に
定期的なコラムを掲載していた新聞が存在し

そのような人物を教育政策の諮問機関に
「有識者」として登用してきた政府が
存在するという事実
の方である。

2月15日版の産経新聞において、
曾野綾子は批判に対して次のように回答した。
「私の文章の中で、
私はアパルトヘイト政策が
日本において進められるべきだとは述べていない。
私はただ生活習慣の異なる人たちと暮らすことは難しいという
個人的な経験について書いただけである。」

*抜粋終わり(アンダーライン加筆)



ネルソン・マンデラ大統領はかつてこう語った
「いかなる人間も皮膚の色や、その出自や、
その宗教ゆえに他の人間を憎むように生まれついてはいない。
人は憎むことを学ばねばならない。
そしてもし人が憎むことを学ぶことができるのだとしたら、
同様に愛することも教えられるはずである。
なぜなら愛は人間の心にとって憎しみよりも自然なものだからだ。」



さて、大宅映子氏も庇いまくる問題のコラムとは・・
(先週土曜日朝放送TBSの大宅映子の辛口コラムにて)
サンケイ新聞より・・曽野綾子氏の考え↓
曽野綾子の透明な歳月の光
629 労働力不足と移民
「適度な距離」保ち受け入れを


 最近の「イスラム国」の問題など見ていると、
つくづく他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。

一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、
労働力の補充のためにも、
労働移民を認めねばならないという立場に追い込まれている。
 
特に高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、
今よりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは、
取り除かねばならない。
つまり高齢者の面倒を見るのに、
ある程度の日本語ができなければならないとか、
衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。
どこの国にも、
孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。
孫には衛生上の専門的な知識もない。
しかし優しければそれでいいのだ。
「おばあちゃん、これ食べるか?」
という程度の日本語なら、
語学の訓練など全く受けていない
外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。

日本に出稼ぎに来たい、
という近隣国の若い女性たちに来てもらって、
介護の分野の困難を緩和することだ。
しかし同時に、
移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。

条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、
その契約を守らせることは、
何ら非人道的なことではないのである。
不法滞在という状態を避けなければ、
移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。
 
ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、
外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。
 
もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、
私は、居住区だけは、
白人、アジア人、黒人というふうに分けて住むほうがいい、
と思うようになった。
 
南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。
以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、
人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。
ところがこの共同生活は間もなく破綻した。
 
黒人は基本的に大家族主義だ。
だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。
白人やアジア人なら常識として
夫婦と子供2人くらいが住むはずの
1区画に、20~30人が住みだしたのである。
 
住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。
しかしマンションの水は、
1戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
 
間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。
それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
 
爾来(じらい)、私は言っている。
「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。
しかし居住だけは別にした方がいい」

*転載終わり

一読で超上から目線の思考
無邪気で一方的な意見
なのに精神主義な発想が見え隠れ
物事は気持ちだけでは解決できない
他国の人を”同じ人”と理解できているのか疑問
ルール違反等々は
人種が先でなく
個々人の資質が問題なのですよ!





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