王子の伝承をかたちに

ふるさと東京都北区王子・王子神社に伝わる伝承をかたちにしてみなで楽しみあえることをライフワークにして。

王子神社(旧称・若一王子宮、王子権現)の歴史のこと (東京都北区王子)

2015年03月25日 | 日記
王子神社(旧称・若一王子宮、王子権現)の歴史のこと (東京都北区王子)

王子神社は京浜東北線・王子駅から100mのところにあります。
【王子神社の歴史はいま想定されているよりもっとずっと古いの ではないかな】と思うこのごろです。

当地は中世に豊嶋氏という武家に長い間治められていました。
文明10年(1478)太田道灌による攻略で滅亡しましたが、さかのぼれば豊嶋武常は前九年の役(1051年→1062) で源頼義に従い、曽孫清元(光)は源頼朝に従ったのです。
豊嶋氏はこれより代々鎌倉幕府に仕え当地支配を磐石なものにしました。
400年以上もの長きにわたり当地の支配をつづけたわけです。

豊嶋氏は頼朝配下として重んじられて豊嶋有経が元暦元年(1184年)に紀伊守護人にまた紀伊三上庄地頭 に任ぜられて紀州熊野地方と関りができました。

豊嶋氏のことを書いた書の中に、豊嶋郡、足立郡、新座郡、多摩郡、児玉郡の五郡を領した、との記述もあります。 五郡統治という記述は、後醍醐天皇の時期の記述に出てきます。この情報にもとづき図示してみました。ただし、五郡統治ということとか、それ以外のこととか、長い長い豊嶋氏の歴史のなかでは実効支配の細目は時代時代で 変わっているということもありますし、それぞれの地域に詳しい方の解説でお調べ下さい。



ここでは、実効支配としては豊嶋郡全域とその周辺から多摩の内部にも及んでいたという記述が多いということを お示ししておきます。そういうことをご理解のうえでご覧いただきたいのがこの地図です。中世豊嶋氏の最大勢力時 の統治エリアとされているのを地図に色付けしてみました。

そこに王子を中心に近辺を同心円で漫然と囲ってみました。
こんくらいはいつも実行支配してたかな、なんて調子で丸をしただけですが。この範囲をみるだけでも広大なのが 判ります。

ともかく、中世豊嶋氏の最大勢力時の統治エリアの中心地が王子でした、とお示ししたいわけです。
王子権現は豊嶋氏の産土神(うぶすながみ)としての地位であったとされます。

こういう豊嶋氏の庇護のもとの 「王子田楽」 だったのです。

王子神社の成立についてみてみますと・・・徳川家光の命で起こされた「若一王子縁起」という縁起絵巻が あります。
この書には王子神社の縁起について「後醍醐の天皇御宇元亨(げんこう)の年・・・新たに祠宇を建てあがめける」 と書いてあります。

発見できただけの資料のみによって王子権現 (王子神社の旧称)成立の解釈を試みるということが真実にせまる最終手だてとは思えないのですが、これまでのところ、「元亨2年にこの王子宮勧請のときの中秋に王子田楽が始められた」と明治期に豊島氏の子孫が語ったとの当時の新聞の記事を一応信じておきたいと思います。

上記の地図で見えるように、元亨の年という時代は、豊島氏の歴史で最大に輝いていた時のようですし、王子田楽創生の時期として最もふさわしく思われます。

それを裏付けるのが王子田楽であらわされる五色と陰陽の色配分、および、反閇所作、また三々九度の躍り、それに九字切りの歩進、です。まさに中世の修験思想が背景になってあります

中世修験道の思想が見える王子田楽

2015年03月25日 | 日記
中世修験道の思想が見える王子田楽.....(東京都北区王子)



[ いのりを芸に ]

中世に生まれた芸能は修験思想を背景に持っているのがほとんどでは ないでしょうか。中世に暮らした人々は身を護るためにとても陰陽とか魔とかいうことを気にかけて生活していたようです。

それだけ日常の生活が戦とか争いとか抑圧とか貧困とか病とか人さらいや行方不明とかに恐れおののいて いたものだったのでしょう。
その時代に生まれた芸能は願いをもち願いは祈りとして信仰と一体になっていて、祈りを持たない芸能のほうは 稀だったように思われます

信仰は不安脱出の方法を説くものでもあって、多くの形態が生まれました。
修験はそのひとつでした。修験というのはもともとは山岳信仰であり自然の摩訶不思議に万物の力学や精神の 源があると考えるもので、 仏教思想の影響とあいまってひとつの信仰分野となったもの、ということだと思います。

宇宙は、木火土金水の五要素から成り立ち、陰陽が相互に作用しあって移ろうというものでした。
五要素は、青(みどり)赤黄白黒に対応して表され生物が生まれる地上であり地をきわめて大切に認識すべきも のという観点に立つものでした。

修験の作法に反閇(へんばい)という特殊な歩行方法があります。神事で「場を清める」意味で使われるものです。

反閇はもともとは、道教に源があるといわれ大地の霊に表敬するのが第一義であり、「場を清める」や「魔よけ」 などは副次的に発生したものだそうですが、 日本の修験ではきわめて重んじられ、一歩一歩丁寧に足を運び悪魔を踏み鎮め邪気を祓うという所作として 多用されました。

現代ではこの反閇そのものを目にすることはほとんどできませんが、意義的に近いものは神社でみることができます。 拝殿内奥の神前の階段を昇降する神主さんの足元にご注意ください。一歩一歩丁寧に足を運びます。

王子の田楽も修験の思想が織り込まれていることがわかるのです。
王子田楽の躍り手は、背にススキを差し、また二本の刀も差します。
躍り手は、外から登場する魔除けの神様方との想定で、魔除けの色としての赤い紙垂れを花笠に付け顔を 隠しています。
躍り手は、腰に各々が七本の大太刀をつけた二人の鎧武者に護られて登場します。



躍りに入る舞台の下に一同はしずしず進みます。このとき地を踏みしめるには修験の作法である反閇で 一同が進みます。

躍りのはじめは舞台下で「中門口」を演じます。 youtube[中門口]

躍り手の花笠は五色に彩られ、躍りは陰陽に分かれた衣装で二列になって行いますし、躍りでは神様役の主役は 修験の「九字」の構成をなぞるようにして進む動きになっています。
そして、舞台上で魔除けの神様としてふるまい躍るのです。