王子神社(旧称・若一王子宮、王子権現)の歴史のこと (東京都北区王子)
王子神社は京浜東北線・王子駅から100mのところにあります。
【王子神社の歴史はいま想定されているよりもっとずっと古いの ではないかな】と思うこのごろです。
当地は中世に豊嶋氏という武家に長い間治められていました。
文明10年(1478)太田道灌による攻略で滅亡しましたが、さかのぼれば豊嶋武常は前九年の役(1051年→1062) で源頼義に従い、曽孫清元(光)は源頼朝に従ったのです。
豊嶋氏はこれより代々鎌倉幕府に仕え当地支配を磐石なものにしました。
400年以上もの長きにわたり当地の支配をつづけたわけです。
豊嶋氏は頼朝配下として重んじられて豊嶋有経が元暦元年(1184年)に紀伊守護人にまた紀伊三上庄地頭 に任ぜられて紀州熊野地方と関りができました。
豊嶋氏のことを書いた書の中に、豊嶋郡、足立郡、新座郡、多摩郡、児玉郡の五郡を領した、との記述もあります。 五郡統治という記述は、後醍醐天皇の時期の記述に出てきます。この情報にもとづき図示してみました。ただし、五郡統治ということとか、それ以外のこととか、長い長い豊嶋氏の歴史のなかでは実効支配の細目は時代時代で 変わっているということもありますし、それぞれの地域に詳しい方の解説でお調べ下さい。
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ここでは、実効支配としては豊嶋郡全域とその周辺から多摩の内部にも及んでいたという記述が多いということを お示ししておきます。そういうことをご理解のうえでご覧いただきたいのがこの地図です。中世豊嶋氏の最大勢力時 の統治エリアとされているのを地図に色付けしてみました。
そこに王子を中心に近辺を同心円で漫然と囲ってみました。
こんくらいはいつも実行支配してたかな、なんて調子で丸をしただけですが。この範囲をみるだけでも広大なのが 判ります。
ともかく、中世豊嶋氏の最大勢力時の統治エリアの中心地が王子でした、とお示ししたいわけです。
王子権現は豊嶋氏の産土神(うぶすながみ)としての地位であったとされます。
こういう豊嶋氏の庇護のもとの 「王子田楽」 だったのです。
王子神社の成立についてみてみますと・・・徳川家光の命で起こされた「若一王子縁起」という縁起絵巻が あります。
この書には王子神社の縁起について「後醍醐の天皇御宇元亨(げんこう)の年・・・新たに祠宇を建てあがめける」 と書いてあります。
発見できただけの資料のみによって王子権現 (王子神社の旧称)成立の解釈を試みるということが真実にせまる最終手だてとは思えないのですが、これまでのところ、「元亨2年にこの王子宮勧請のときの中秋に王子田楽が始められた」と明治期に豊島氏の子孫が語ったとの当時の新聞の記事を一応信じておきたいと思います。
上記の地図で見えるように、元亨の年という時代は、豊島氏の歴史で最大に輝いていた時のようですし、王子田楽創生の時期として最もふさわしく思われます。
それを裏付けるのが王子田楽であらわされる五色と陰陽の色配分、および、反閇所作、また三々九度の躍り、それに九字切りの歩進、です。まさに中世の修験思想が背景になってあります。
王子神社は京浜東北線・王子駅から100mのところにあります。
【王子神社の歴史はいま想定されているよりもっとずっと古いの ではないかな】と思うこのごろです。
当地は中世に豊嶋氏という武家に長い間治められていました。
文明10年(1478)太田道灌による攻略で滅亡しましたが、さかのぼれば豊嶋武常は前九年の役(1051年→1062) で源頼義に従い、曽孫清元(光)は源頼朝に従ったのです。
豊嶋氏はこれより代々鎌倉幕府に仕え当地支配を磐石なものにしました。
400年以上もの長きにわたり当地の支配をつづけたわけです。
豊嶋氏は頼朝配下として重んじられて豊嶋有経が元暦元年(1184年)に紀伊守護人にまた紀伊三上庄地頭 に任ぜられて紀州熊野地方と関りができました。
豊嶋氏のことを書いた書の中に、豊嶋郡、足立郡、新座郡、多摩郡、児玉郡の五郡を領した、との記述もあります。 五郡統治という記述は、後醍醐天皇の時期の記述に出てきます。この情報にもとづき図示してみました。ただし、五郡統治ということとか、それ以外のこととか、長い長い豊嶋氏の歴史のなかでは実効支配の細目は時代時代で 変わっているということもありますし、それぞれの地域に詳しい方の解説でお調べ下さい。
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ここでは、実効支配としては豊嶋郡全域とその周辺から多摩の内部にも及んでいたという記述が多いということを お示ししておきます。そういうことをご理解のうえでご覧いただきたいのがこの地図です。中世豊嶋氏の最大勢力時 の統治エリアとされているのを地図に色付けしてみました。
そこに王子を中心に近辺を同心円で漫然と囲ってみました。
こんくらいはいつも実行支配してたかな、なんて調子で丸をしただけですが。この範囲をみるだけでも広大なのが 判ります。
ともかく、中世豊嶋氏の最大勢力時の統治エリアの中心地が王子でした、とお示ししたいわけです。
王子権現は豊嶋氏の産土神(うぶすながみ)としての地位であったとされます。
こういう豊嶋氏の庇護のもとの 「王子田楽」 だったのです。
王子神社の成立についてみてみますと・・・徳川家光の命で起こされた「若一王子縁起」という縁起絵巻が あります。
この書には王子神社の縁起について「後醍醐の天皇御宇元亨(げんこう)の年・・・新たに祠宇を建てあがめける」 と書いてあります。
発見できただけの資料のみによって王子権現 (王子神社の旧称)成立の解釈を試みるということが真実にせまる最終手だてとは思えないのですが、これまでのところ、「元亨2年にこの王子宮勧請のときの中秋に王子田楽が始められた」と明治期に豊島氏の子孫が語ったとの当時の新聞の記事を一応信じておきたいと思います。
上記の地図で見えるように、元亨の年という時代は、豊島氏の歴史で最大に輝いていた時のようですし、王子田楽創生の時期として最もふさわしく思われます。
それを裏付けるのが王子田楽であらわされる五色と陰陽の色配分、および、反閇所作、また三々九度の躍り、それに九字切りの歩進、です。まさに中世の修験思想が背景になってあります。
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