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マフディーの反乱・ゴードン将軍の死

2014-12-16 16:04:06 | 日記
ついでエジプト支配下スーダンでイギリスに支配されたエジプトに対する反発が強まり、1882年夏にマフディー(救世主)を名乗ったムハンマド・アフマド(アラビア語版)によるマフディーの反乱が発生した。マフディー軍は1883年1月19日に西部の都市エル・オベイドを占領して、同地のエジプト軍の武器やスーダン兵を確保し、大幅に戦力増強された。1883年9月にイギリス軍大佐ウィリアム・ヒックス率いるエジプト軍がマフディー軍討伐に出たが、惨敗してヒックス大佐も戦死した。
反乱の第一報を聞いたヴィクトリアはエジプトの反乱と同様にこれも武力で鎮圧すべきと考えたが、グラッドストンはこれ以上自己の信念に反する帝国主義政策を遂行することを嫌がり、スーダンからエジプト守備軍を撤退させることを決定した。エジプト守備軍の撤退を指揮する人物として「チャイニーズ・ゴードン」の異名を取っていたチャールズ・ゴードン少将をスーダン総督に任じてハルトゥームに派遣した。
だがゴードン将軍にはそもそも撤退の意思がなく、またマフディー側に寝返ったスーダン北方の部族により電線が切られて本国からの指示を受け取れなくなったことにより、グラッドストン政府の意思に反して同地に留まり、マフディー軍に包囲された。イギリス世論はゴードン救出を求める声に沸き立ったが、グラッドストンはスーダン問題への深入りを嫌がってなかなか援軍派遣を認めようとしなかった。ヴィクトリアは陸相ハーティントン侯爵を通じて政府にゴードン救出を命じ続け、ついにグラッドストンも折れて遠征軍派遣を決定した。
しかし遠征軍は間に合わず、1885年1月26日にハルトゥームは陥落してゴードンはマフディー軍に殺害された。この報を聞いたヴィクトリアは激怒して暗号電文ではなく通常電文でグラッドストン政府を叱責する電報を送った。ヴィクトリアは2月末に何としてもスーダンを奪還してゴードンの仇を取るべしと命じたが、グラッドストンは4月の閣議で「マフディー軍は意気揚々としており、今はスーダン奪還の時期ではない」と決定した。グラッドストンの態度に怒り心頭になったヴィクトリアはディズレーリの命日にあたって「親愛なるビーコンズフィールド伯爵が生きていてくれたなら」と日記上で嘆いている。
ゴードンの戦死で世論や議会はグラッドストンへの不満を高め、彼の第三次内閣が崩壊する一因となった。ゴードンは「帝国の殉教者」に祭り上げられ、イギリスがエジプト支配を手放すことはプライドにかけてできなくなった。1895年頃からイギリスはスーダン奪回を最優先課題とするようになり、そのためにそれ以外の地域の植民地争いを一時的に収束させようと「栄光ある孤立」を再考さえした。流出エルメス 具体的には中国植民地化をめぐるロシアとの対立、トルコの利権をめぐるドイツとの対立、西部スーダン植民地化をめぐるフランスとの対立を、彼らに譲歩することによって回避した。そしていよいよ1898年4月からホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍がスーダン攻撃を開始し、9月までにマフディー軍主力を壊滅させてハルトゥームを奪還した。ゴードン戦死から13年たっての悲願達成であった。ヴィクトリアも日記で「ゴードンの仇をとった」と喜んだ。
この直後キッチナー軍が更に南下したため、フランス植民地軍と睨みあう形となりファショダ事件が発生したが、フランスの譲歩のおかげで英仏戦争の危機は何とか収束した。

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日本の文化と宗教の関わり

2014-12-16 08:57:19 | 日記
日本も他国と同じく、古くからシャーマニズムやアニミズムといった汎神論的天然崇拝、精霊崇拝があり多神教)に基づく宗教文化がある。沖縄の信仰にもその古来の形態を残している。
それは多神教でも独自の特徴があるとすれば、道具や言葉、吐息にまで命が宿るという何でも来いの考え方であり、具体的には、針供養[1]、道具塚や言霊、息吹という表現や、侵略してきた敵さえも祀るという考え方(例えば、蒙古塚)は、その祟りを畏れてである。中華文化では儒教から発展した朱子学という考え方も多少はあり「敵は死者でも鞭を打て、恨みは石に刻め」などとするが、日本では畏れ畏れて「敵であっても死者には鞭を打たず、恨みは水に流す」とするのである。
遠くインドを起源とする「仏教・密教」[2]を大陸から受け入れて、独自の仏教・密教文化を定着させてきた。さまざまな伝統や慣習のうちには仏教を起源とするものも多く見られ、神道と相互に影響しあいながら日本の信仰や文化の基盤を形作ってきた。また、ヒンドゥー教は、ほとんど直接には日本に伝わってはいないが、仏教・密教に多大な影響を与えているので、日本の仏教や神道においてヒンドゥー教由来の神々が存在し文化的影響がある。
他の東アジア諸国と同様に「儒教」[3]や「道教」も受け入れたが、その影響は朝鮮半島や中国ほどではない。儒教は武士における武士道や寄親寄子の制度や、庶民においては、戸主や家督制度などの社会性にも影響を及ぼしている。明治維新によって武家の学問としての朱子学は立場を失ったが、宮中の保守的な漢学者の影響によって儒教の忠孝思想が教育勅語などに取り入れられた。道教は、そのものより陰陽五行や八卦や宿曜道などが奈良時代から平安時代に隆盛を極め、陰陽師の台頭と共に現在もその思想が風俗となって受け継がれているが、儒教と同様に日本独自のものに変化している。具体的な例としては、干支や家紋の九曜やちらし寿司の四色や五色の彩などが陰陽五行に基づいている。武道も神道が基軸となり、それに儒教や道教や禅宗などが加わって修練による開眼精神と哲学を持った芸になったといわれる。