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[ 幕末の日露外交史 ]

[ 幕末の日露外交史 ]
【拓己 海堂さん(@ kaidoutakumi)のTw(2024年3月11日)を再掲】
東シベリア総督ムラヴィヨフは、日露和親条約を引っくり返して樺太を奪うべく安政6年7月に江戸に現れました。
愛琿条約で清国から広大な沿海州を奪った威嚇と同じことをしようとします。
しかし、幕府全権は要求を拒絶しました。
さらに交渉中に随行団士卒が攘夷派浪士に切り殺されるという事件まで起こりました。
7隻の艦隊を率いて来航したムラヴィヨフは報復として横浜を火の海にするかと思われましたが、要求を通すことなく引き揚げました。
アジア人の無抵抗な姿を舐めきっていた彼は、この強烈な反発に恐れをなしたのかもしれません。
攘夷派浪士の行動は今のでいう「テロ」そのもので、アカデミックな歴史研究は決して評価しないと思いますが、事件を初代イギリス領事は次のように評価していると頃を見ると、後進国が先進国に対抗する手段として有効であったようです。
良い悪いは別にして
「それは条約原案と近代戦の適用を背後に有するヨーロッパ外交と、暗殺者の力と、東洋の反逆と、残忍なる冷酷の全武器により後援された、国民的熱狂の恐ろしい精神と、全ての革新への敵意によって励まされた日本外交との闘争であった」
オールコック
『大君の都―幕末日本滞在記』
(1962)
岩波書店
※ コメント欄も見てね♪
("⌒∇⌒")v

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