【イサクさん(@bER2YpZXY3TapXc)のTw(2023年1月1日)を再掲】
肥沼信次医師が、国費留学生としてドイツへ渡ったのは1937年の春の事でした。
ドイツではベルリン大学で放射線治療の研究に取り組む事になります。
1945年の3月にはドイツの戦況が悪化したため:日本政府から帰国命令が出されますが肥沼医師は断ってドイツに残る事を決意します。
やがてドイツは敗戦:
ほどなくソ連軍地区司令部からリーツィンに新設される「伝染病医療センター」の所長に任命するとの通達が届きます。
当時リーツィンでは致死率の高い危険な伝染病発疹チフスが大流行していたのです。
1945年3月:リーツィンに着いてみると:7人の看護師の他は医師もおらず薬すらないという状況でした。
しかも看護師たちは感染を怖れて:食事を運ぶ以外は病室に近寄ろうともしません。
肥沼医師は平然と病室に入り:患者たちの脈をとり熱を計り治療を開始します。
その姿は:戦場に向かう兵士の様だったと看護師のヨハンナは語っています。
薬が全くなかったため肥沼さんは:私財を売り払い薬を求めて
ドイツ中を走り回りました。
或るソ連軍の野戦病院では薬の購入を断られると:その場で土下座し売ってくれる様に懇願したと言います。
肥沼さんの努力の甲斐があって:瀕死の患者たちも次第に回復に向かいはじめます。
しかし、1946年。余りの過労で体力が弱っていたためか:肥沼さんは発疹チフスに
感染してしまいます。
気丈に明るく振る舞い治療を続けた肥沼医師でしたが:とうとう、寝込んでしまいます。
薬を投与しようとする看護師に「薬は全て患者のために使いなさい」と投与する事を許さなかったそうです。
そして1946年。3月9日息を引き取ります。
肥沼医師の最後の言葉は「桜をもう一度
見たかった:みんなにも桜を見せたかった」
享年37才5ヶ月:リーツィンの肥沼医師の墓には日本から送られた桜の花が:春になると美しく咲き誇るそうです。
人間の模範的な生き方として、ドイツの教科書に載っている肥沼医師の生涯も:なぜか?日本では子供たちに教えられる事はありません。
肥沼医師や多くの先人たちの偉業を見ていると:いかに戦前の教育が素晴らしかったかが分かります。
一方、補助金で潤い高級車を乗り回す医者や:旭川の陰惨なイジメ事件を見れば:日教組による戦後教育がいかに間違っていたか言うまでもありません。
2011年の東北大震災の時には、リーツィン市の市民や高校生から7000ユーロ(76万円)の寄付が寄せられたそうです。自らの命を犠牲にしドイツ国民のために尽くした肥沼信次先生の善意は:今もリーツィン市民の心に刻み込まれ消える事はない様です。
肥沼先生と同じ血を持つ日本人である事に感謝し:心から
誇りに思います。
https://twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1609295860281802753?s=20&t=QldkVO-GmcWK-AWsn58UxA
【追記】
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