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日本のいまを考える#56 合縁奇縁



祝日は国旗を掲揚しましょう。


★精神学協会「日本のいまを考える」から転載

『精神学協会』
http://www.godbrain.com/gb/letter/



日本のいまを考える#56 

●合縁奇縁

ここのところ私の周りで、一つ前の世代の先輩方が立て続けに、この世界をご卒業召されて、久しぶりに「死を想う」といった時間をいただいています。
今回は閑話休題ということで、普段しない話を書こうと思います。

最近は、できる限り日本語で語るという挑戦をしているのですが、「死を想う」の段、「メメント・モリ」という言葉を使おうとして、調べました。

-----------------------------  Wikipediaより引用 

メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」「死を想え」などと訳され、芸術作品のモティーフとして広く使われる。

古代ローマでは、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」と伝えられる。将軍の後ろに立つ使用人は、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していた。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。

ただし、古代ではあまり広くは使われなかった。当時、「メメント・モリ」の趣旨は carpe diem (今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスであった。 ホラディウスの詩には「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)とある。

この言葉は、その後のキリスト教世界で違った意味を持つようになった。天国、地獄、魂の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきたためである。キリスト教的な芸術作品において、「メメント・モリ」はほとんどこの文脈で使用されることになる。キリスト教の文脈では、「メメント・モリ」は nunc est bibendum とは反対の、かなり徳化された意味合いで使われるようになった。キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘引となった。

-----------------------------  ここまで 

キリスト教徒といっても、宗派が多く、転生という事象を認めず、来世という概念を持たない派も多くあると思います。
むしろ、来世に思いをはせるというと、一般的には厳しいカースト制度のあるインドで、来世のためにこの世を耐え抜くという感覚に多く見られる傾向と感じますが、最近はバチカンも変わってきているのかもしれません。

どんな宗教の教徒であれ、人間は生まれれば必ず死ぬ運命にあることだけはもれなく全員、万国共通のことだと思うと、感慨深い思いがいたします。

私は成長するに従って、最初は「命を失う」ということに恐れを抱き、いつか大好きな人たちから離れるならできれば私が先に消えたいと思うようになり、そしてこの苦界に生かされている意味は何だろうと問い、二十代の頃は早く年寄りになりたいと願っていました。
やがて、死は等しくすべての命に訪れるから、恐れるような類のものではなく、むしろ生き続けることのほうが恐ろしいと思うようになっていきました。
とはいうものの、異界への気味悪さのようなものは払拭しきれず、「私には霊感なんてものはないし、縁もない!」と自分自身に言い聞かせ、「どうか変なものは見せないでください」と祈ることで、死の穢れや霊とのかかわりを極力拒否してきたのも事実です。

三十代を過ぎ、四十代になり、「死んだらどうなるんだろう?」という楽しみを伴う好奇心と、未知の世界に対する漠然とした不安との間を行き来しながら、それでも何となく感じ取ってしまう気配のご縁については、その都度、そのときの自分なりに対応をしてきました。
自分自身は、何とか人様にご迷惑をかけないように、きれいさっぱりこの世界から卒業することを目指していました。

精神学協会を知ったのは、そんな時期のことでした。
精神学を学び始めて一、二年後、急に霊に対する「不気味で嫌だ」という感覚が薄れて、生きている人に対するのとあまり変わらない感覚になりました。
同時に、五年ほど続いた原因不明の通年型の鼻炎が、ぴたっと止まりました。
鼻炎に関しては始まりも終わりも突然で、その理由もわかりませんが、おかげさまで霊に対しては、ある種の免疫ができたのかなと思います。

合縁奇縁(あいえんきえん)という言葉があります。
誰もが、いろいろなご縁の方々と、袖摺りあって生かされるこの世。

私は、日本人が長く「見えないもの」や「見えないところ」にも魂があることを感知してきたことが、自然を畏敬するという思いや、石にも木にも水にも命が宿っているという感性を育んできたのだと確信しています。

ほとんどの日本人にとって、霊感のあるなしにかかわらず、直感的な忌避行動によって危険から守られた経験というものがあるのではないかと思います。
何のおかげと感じるかは、それぞれの信じるものによるかもしれませんが、「おかげさま」の感覚は共通しています。

誰でも、丹念に見ていけば、人生とは奇しき縁に満ちているもののはずです。
見えない糸を縒(よ)り合わせるようにして、繋がる今をいただいていることに感謝します。

そのときどきに人や物、土地などのご縁がもたらされ、そのときでなければ得られないご縁が繋がるというのは恵みです。
時も場所も役割も、すべてが各人に与えられたもの。
感謝できない、という人がときどきいらっしゃるのですが、タイムリーに感謝できなくても、いずれ、そのときはやってきます。

感謝するもの、されるもの、誰に何に対して感謝するのか、と自らに問われる方も時々いらっしゃいますが・・・

ところで、今上陛下のご譲位に関して、平成三十一年四月三十日に「退位礼正殿の儀(仮称)」開催を決定との発表がありました。
陛下のご在位三十年の記念式典を同年二月二十四日に東京都千代田区の国立劇場で開催することも決定したそうです。

皇太子殿下のご即位に関しては、三十一年五月一日に天皇の印「御璽(ぎょじ)」、国の印章「国璽(こくじ)」などを継承する「剣璽等承継の儀」と、新天皇として初めて三権の長らと会われる「即位後朝見の儀」を行う方針ということです。

これまでずっと、践祚(せんそ 皇位継承によるご即位)の際に「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」が継承される儀式が行われてきました。
「三種の神器」とは、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)をいいます。

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● 八咫鏡(やたのかがみ)

天孫降臨の際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)から、日向(ひむか)の高千穂峰に降る瓊瓊杵尊(日本書紀の表記。古事記では邇邇芸命 ににぎのみこと)に授けられた鏡で、天照大神の御魂代として伊勢に奉斎されており、別の神鏡が現在宮中の賢所(内侍所 ないしどころ)に奉置されています。
祀られている賢所を含む宮中三殿を相続することによって受継ぎ、八尺瓊勾玉・草薙剣を受継ぐ儀式が剣璽等承継の儀となります。

● 草薙剣(くさなぎのつるぎ 別名、天叢雲剣 あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)

素戔嗚尊(須佐之男命 すさのおのみこと)が出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき尾の中から得た剣で、天照大神に奉献されました。素戔嗚尊は天照大神の弟神ですが、神々の世界すなわち高天原(たかまがはら)では悪、罪、穢(けがれ)の化身としてあらわれ、地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)では開祖の神として語られています。その名のスサは荒れすさぶの意です。
天孫降臨の際に、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、下る際にお持ちになられたといわれています。
神話の記述の通りであれば熱田神宮の奥深くに神体として安置されています。安徳天皇により、四国の剣山におさめられたという伝説もあるようです。

● 八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま) 。

「瓊」という字が赤い色やメノウをさすといわれています。
璽と呼ぶこともあり、やはり三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽」と称されます。
「日(陽)」を表す八咫鏡に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説があります。

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「三種の神器」、神話に登場する宝物は、いまも皇位継承の儀式で受継がれていくわけですが、これらの御物を象徴としてあらわす真の中身とは何だろうとずっと思っていました。

先日、ちょっと風変わりな方にお会いしました。
お掃除の話だというので、興味を持って出かけたのですが、思っていたのとは少し違う内容でした。 場違いだったかなと思っていたら、この話を聞くために出かけたのかと思うようなお話が出て、そこから、いろいろなことが私の内部で想起され、印象深い一日になりました。
その話というのは、ほんの三分くらいの雑談にも似たお話でしたが、「あまてらすおおみかみ」と「あまてらすひおおかみ」のことでした。

もう二十年以上前のことですが、神道に興味を持ち、古神道のさまざまな先生方のお話を聞きに出歩いた時期があります。

そのなかに、火と水は、それぞれの属性として、
  火=霊、日、陽、プラス、男性、精子、縦、精神、酸素・・・
  水=身、月、陰、マイナス、女性、卵子、横、物質、水素・・・
を象徴するという解説があり、両方をあわせて「火水」カミという、という話も、複数の方から少しずつ違った形でお聞きしていました。

今回耳にしたのは、
  あまてらすおおみかみ は、女性性のカミで、身をもち、陰の役割=月
そして、
  あまてらすひおおかみ が、真正のカミ、正神(まさがみ)
である、というものでした。

この話を聞いている間に、『最終知識』に出てくるアマテラスヒのお話だ、と思いながらあらためて聞いてみると、一気にいろいろなことが、頭の中で繋がってきました。
読んでいたり、知っていたことによって、結びついていったのですが、自分で読む、というのと、人から聞く、人との話でインスパイアされるというのとでは、開かれる情報系が微妙に異なるように感じるときがあります。
今回も、その典型のようなことでした。

記紀神話にあるアマテラスの天岩戸がくれのお話は、アマテラスがいなくなって暗くなった世界に困惑して神々が集い、どうしたらよいかと相談し、作戦をたて力を合わせ協力していく物語です。

天鈿女命(あまのうずめ 古事記では天宇受賣命)が踊り、皆がにぎやかに騒ぎ、大笑いしている様子にアマテラスがそっと覗いた隙間、鏡を差し入れたら、あまてらすは光り輝く存在を見て驚き、びっくりしているところに、外から天手力男神(あめのたぢからをのみこと)が力ずくで戸を開けて岩戸からお出ましになったお話でした。
神話ではこれで闇夜は明け、神々の世界は明るさを取り戻します。

アマテラスヒの話を聞きながら、お出ましになったのは、やはり、陰、月を象徴する神様だったということを暗示するストーリーだったのか・・・と思いました。
それこそがこの世界にとっては意味のあること、でもあります。

伊勢の内宮には別宮として「月夜見宮」が置かれていること、太陽の光を鏡で受けることと月夜見はイコールだということ、などを聞いていくうちに、私の中のファンタジーは、一気に広がり、夜の、闇の世界を象徴するスサノオの世界の主役は「魔」という、積さんからお聞きしたことがよみがえってきました。

火水伝文で聞いた話に、天岩戸からは騙したカミがお出まし、というものがあったのですが、それが国津神々の世界が子宮内宇宙である所以なのか、とも感じました。
このたびのことは、中津神々様もはじめてのこと、とは聞いていましたが、進行中の事実は、解説の仕方が宗教的で怪しいかどうかなどの判定はさておき、そうなのだと感じています。

『最終知識』や光文書を読んで、さらに、その現実味は歴史観や論理に裏づけされ明確なものとなっています。

鏡に象徴されるお話で、「カガミ」のまんなかの「ガ」(我)を抜くと神になるというのは、よくいわれることですが、神道で祭壇の真ん中に鏡をおいているのは、常に「心魂を磨きなさい」という意味なのかもしれない、また、鏡が歪んでいれば、歪んだ像を結ぶからこそ、鏡も磨いて整えよという示しだったのかもしれない、と思いました。
鏡は映す世界ですから、自分以外のすべては鏡(映し出すもの)だともいえます。
その意味でいえば、私はあなたであり、あなたは私であり、自分だけ磨けばいいということではなく、お互いに磨きあうということが何より大事だとも感じさせられます。

この日本において伝統的に宝とされる「三種の神器」が象徴すること。
人は皆、暗闇に浮かぶ美しい地球という闇の世界に生まれ落ちた卵のようなもので、手に剣(言の刃)と勾玉(心魂)を持たされて、そこから磨きに磨いて殻を破り、正しい神(カミなる自分)を救い出すことが、私たちがこの世界にいることのミッションといえるのかもしれないと、そのとき、感じました。
言の葉(刃)は、日本語の真髄です。

磨き出すべきは自らのうちにあるもの。
自らの中にある光源を、持たされている道具で磨き、救い出す・・・そこでは救世主も救われるのも、ともに自分です。
私たちの 産声があがるときを、いのちを育むゆりかごのような地球に託した元津神が、愛をもって見守っておられるのを感じます。

光文書 「Vol.436 新しい時空の旅へ」や 「Vol.523 魔界の時代の終わり」にあるように、百二十五代の今上陛下は「おおみこころ」としての完成形とのことです。

少し前の世代の方々が、基礎を作り、道を残してくれました。
来年には今上陛下がご譲位あそばされます。

人心の安定を欠く時代となって、皇室制度や政治経済がどのように推移していくのかは、まだわかりません。

いずれにしても、この先、私たちがそれぞれ自らを掘り出し、磨いて、それぞれの持ち場で役割分担しながら、ほんとうの和の国づくりをしていくことが求められているのだと感じています。

平成三十年二月二十三日
阿部 幸子
協力 ツチダクミコ

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