この世は二択、もしくは三択しかない。
イエス、ノー、どちらともいえない、だ
言い換えれば、イエス、ノー、わからないので様子見る&答えださない、とも言えます。
五黄の土とは、多すぎても少なすぎてもダメ、どっちに偏っても癌を呼ぶとも言われています。
自分の選んだ道に責任を持つ、自己責任。これが最高の救い言葉であることをいずれわかる日がくるでしょう。
気休めの言葉は害にしかならない、いずれ呪いを生むだけ。
置かれた環境もすべて「選んだ自分」がおり、選ばされた人なんて実は一人もいないのだ。
決定権は自分にあり、それを環境のせいにした時点で呪いが始まる。その呪いは様々な病を生み出してくるからね
環境的にしかたなかったのです、うんうん、可哀そうだね、あなたは被害者だね、、なんてやってたら相手を呪いの化け物に
変えてしまうお手伝いをするようなもんです。
だから、冷たく感じるようだか自己責任だよ、ってのが呪いから解放する最も大事な言葉であります。
選択は三つしかない、そして大きくイエスかノーしかない、これが自己責任だということを理解せず、周り(他者)のせいにすると
呪いが発動してきます。
だから、自分が選択した道を受け入れる、この自己責任の認識こそが自分を救う最大の防御になるのだ
自分を救えるのは自分だけ、神仏じゃないのよ。
困った、助けて、エネルギー頂戴なんて、神社に行こうものなら、眷属さんに怒られるだけ
神社は感謝を捧げに行くところであり、誰かのせいにして呪っている人なんか、そもそも問題外であります。
行くなら、お寺に行きなさいな、まだそっちの方がいい
しかしながら、結局のところは自分が選んだ道なんだから、そこに責任を持たない限り、神仏だって助けてくれるかどうかわからないぞ。
で、振出しに戻るわけ、イエスかノーか、です。
最初はイエス、でも困った、次はノー、最初は三択あったものが二択に代わるでしょ?必然的に。
そして、神仏に真に救いを求めるのなら、捨身で全てを委ねるつもりで求めることですね
腰掛けで都合のいいところだけ神頼みなんて通じませんよ。
そして、ここにも二択が生じる。委ねるか委ねないかです。
委ねると決めたからには、文句言わずそのまま命運全てを委ねなさいな。
何があっても共にする、それが信仰というものです。
委ねないって決めたら、助けてもらえなくても文句言うな、です。
救いがないのは、、決められない自分にある、自己責任というものを理解できない自分にね。
自分を救えるのは自分だけ、なのだ。
選んだ以上、自己責任として受け入れず環境や周りのせいにした時点で、本当の五黄殺が発動してくるからやめなさい、というのが問題を解決する最善の答えなのだということを理解できたら救われますぞ
今日もブログを読んでくださりありがとうございました