金沢は古くそして新しい町。
新しく、そして古い町。
その金沢の魅力を探して、
今日も町を歩きます。
こんな書き出しから始まる。
ページをめくると知らない金沢に
会えそうです。
第65景 最後のサムライ【三光寺】
市内で現存する廣見の中でも1番広い廣見
それがここ「六斗の廣見」です。
廣見(広見)
細く曲がりくねった小路をぬけると、広く開けた空間に出会うことがあります。それが「廣見(広見)」とよばれる空間です。火災の延焼防止や火消しの集結地点、立札を立てたり、馬車を回転させたりと用途はいろいろあったようです。
今は地域の祭りやフリーマーケットなど地域の人々のふれあいの場所になっています。
先祖のお墓があるお寺に車を置き
しばし界隈をお散歩しました。
六斗の廣見に近い寺町の「三光寺」で事件が始まったようです。
加賀藩士がそんな激烈な事件を起こした事を知り驚かざるを得ませんでした。
<本文より>
金沢市寺町にある三光寺は島田らの一派が拠点とした寺であった。三光寺から程近いところには藩政時代に大火に備えてつくられた「六斗の広見」がある。事件の前年に起きた西南戦争で賊軍となった西郷隆盛を慕う彼らは、反乱への野望に燃えて、この広見を闊歩したことであろう。
歴史の表舞台から消えかけていくことになる彼らが見せたのは、加賀藩士としての最後の意地であったのかもしれない。
明治11年(1878) 5月14日朝、東京の紀尾井坂から赤坂御門に至る人通りの少ない静かな道で事件は起きた。
明治政府の中心人物であり薩摩出身の参議兼内務卿であった大久保利通は、馬車に乗って赤坂御所に向かっていた。護衛つけない馬車が壬生邸の横にさしかかったとき、六人の刺客が多く大久保に襲いかかった「待て」と言い、自らドアを開けて路上に降りた大久保に切りかかる刺客たち。
「無礼者」の一喝が最期の言葉となり、止めを刺された大久保は四十九年の生涯を閉じた。世を揺るがした紀尾井町事件である。
大久保暗殺の実行者は、島田一良、長連豪をはじめとする旧加賀藩士たちだった。六人は襲撃後すぐに凶器を投げ捨て、赤坂御門の門前に立って大声で自分たちが大久保殺害の下手人であることを名乗ったと言う。
ここでそんな事件が醸成されていたのですね。
そんなことを思いながら散歩するのも一興か。
見出し画像は早朝の寺町通り