金沢は古くそして新しい町。
新しく、そして古い町。
その金沢の魅力を探して、
今日も町を歩きます。
こんな書き出しから始まる。
ページをめくると知らない金沢に
会えそうです。
<本文より>
桜橋のたもとから寺町台に通じるじぐざの坂。「W坂」という呼び名は旧制四高の生徒たちによってつけられたといわれる。
坂の途中には四高時代、この坂を通学路としていた。作家・井上靖の文学碑がある。
「腹がへると、何とも言えずきゅうと胃にこたえて来る坂ですよ。」『北の海』は柔道の稽古に明け暮れる自分をモデルに書いた小説で、その中にW坂も親しみを込めて登場させている。
井上靖は旧制四高柔道部の主将を務めました。
四高の黄金期は過ぎ去っていましたが、井上主将にはプレッシャーがたえなかったようです。
京都:武徳殿
この頃の柔道は柔術といった方が適切だと思います。今の柔道は立ち技からの流れで寝技(寝業)が認められるが、寝技(寝業)への引き込みは禁止されている。寝技で膠着したらすぐに「待て」が掛り試合は中断せれる。寝技を重視していない。最近はルール変更があったのかそうでもない)井上靖がやっていた柔道は寝技(寝業)引き込みがあり、寝技(寝業)の膠着も「待て」が掛からないので中断する事がない。
寝技(寝業)の応酬で場外に出ると、ようやく「待て」がかかり、絡みあった状態で主審と副審に中央にまでひきづられて再開になります。この頃の柔道は寝技中心で、落ちる(失神)試合が多々あったようです。(畳を叩かなかった)
このあたりは、武道ととらえるかスポーツととらえるかで全然違うものになります。
講道館が主流になってくると、講道館ルールに馴染めない強者はブラジルやヨーロッパに渡り技を伝えました。その技はいつしか日本では忘れさられ、今のブラジリアン柔術やヨーロッパ柔道のベースになりました。
全日本男子監督の井上康生監督は他国の格闘技(ブラジリアン柔術・サンボ他)を学ばせる事で日本の柔術が世界に対抗出来るようになった。
大正から昭和に海外に渡った日本の柔術の技が里帰りしたといってもよいでしょう。
全日本男子は以前よりも寝技(寝業)に注力するようになったようです。
脱線ついでにもう少し書こうかと思いましたが、長くなるのでここまでです^ ^
良い一日を。