金沢は古くそして新しい町。
新しく、そして古い町。
その金沢の魅力を探して、
今日も町を歩きます。
こんな書き出しから始まる。
ページをめくると知らない金沢に
会えそうです。
第29景 おやま変遷 【金沢城】
五木寛之は書いています。
「これまで、私は城下町になる前の金沢、「加賀百万石」以前の金沢のすがたを見たいとずっと思ってきた。金沢御堂の周辺で培われ、そこを自分たちのこころの拠りどころとして生き、百年近い自治共和国をつくりあげてきた人びとの気質とか心根というようなものは、どのようなものだったのか。それは現在の、あるいは戦後のこの北陸にどんな形で垣間見られるだろうか。そのことに関心があったのである。それは、もう完全に、この前田家が支配した二百九十年という歴史のなかで消え去ってしまったのか。さらに、明治維新後の百数十年の時の流れのなかで、すっかり忘れさられてしたったのか。
いや、そうではない、という気がする。」
百年近い自治共和国をつくりあげてきた人々の気質、心根は今も息づいていると思いたい。
そうでなくては死んでいった人々が報われない。
天守跡への道。
植物園になっていて希少生物もいる。
<本文より>
昭和24年(1949)には金沢大学が開学し、平成7年(1995)に角間キャンパスへ移転が完了するまで、五十年近く学都の象徴として、多くの学生を石川門から送り出した。金沢大学移転後は、石川県が国から金沢城を取得し、金沢城公園の整備が進められた。
まるで万華鏡のように、おやまの五百年の歴史は金沢の中心としてその姿を変えてきた。現在、石川門の内側に、金沢御堂があったことを知らせるものは多くなく、極楽橋という橋の名などにかすかに残るのみである。
それでも、金沢の地と血には、民衆の力が、世の中を動かした百年の記憶、もうひとつの金沢が、深く刻み込まれている。
天守跡からの眺め
金沢城の前身はおやま御坊と言います、加賀一向宗の本山でした。
大阪の石山本願寺と連携をとり、豪族や武士の支配が無かった時代が100年程続いた特異な地でした。しかし「農民の持ちたる国」は織田軍により終焉を迎えます。上杉景勝と白山地方の一向宗が連携して一時的には失地回復しましたが謀略に敗れ、多くが手取川で獄門磔となった。
大阪の石山本願寺と連携をとり、豪族や武士の支配が無かった時代が100年程続いた特異な地でした。しかし「農民の持ちたる国」は織田軍により終焉を迎えます。上杉景勝と白山地方の一向宗が連携して一時的には失地回復しましたが謀略に敗れ、多くが手取川で獄門磔となった。
白山:鳥越ではその時獄門磔にあった祖先を立派に祀っている。
松任城で和睦とみせかけ白山一向宗の主だった武将をだまし討ちにしている。
これと似たような話は山内一豊が高知城で相撲大会を催すと称して長宗我部系の豪族達をだまし討ちにしたとある。歴史は常に残忍なのか。
これと似たような話は山内一豊が高知城で相撲大会を催すと称して長宗我部系の豪族達をだまし討ちにしたとある。歴史は常に残忍なのか。
スペイン風邪が数年後跡形もなく消え失せたように、コロナもなくなりますように!