建物は海岸線から少し入ったところあり、外も中も白を基調としている。入るとエントランスホール、ホールは庭に面していてガラス張り。テーブルと椅子がある居心地の良さそうなサンルームにも行ける。二階へはホールのストリップ階段を使う。51年前の建物に思えない、記念館の人に尋ねるとほぼ当時のままらしい。
開高健が結婚したのは21歳、今でいう出来ちゃた婚。嫁さんのお母さんにどう責任を取るんだ!!年上の女房は金の草履を履いて探せと言われているが、開高健にとってこの結婚は少々不本意であったらしい。小説「青い日曜日」の中で最後に書かれている。
*青い日曜日=Blue Monday=憂鬱
「パリの屋根の
下に住み
楽しかりし、昔
・・・・・・・」
21歳で結婚、22歳で親、学生
子供の育児のため奥さんは勤めていた(株)壽屋(現サントリー)の社長に掛け合って自分は退職して開高健を入社(宣伝部)させた。
『人間』らしく
やりたいナ
トリスを飲んで
『人間』らしく
やりたいナ
『人間』なんだからナ
開高健 『トリス』広告
今の時代からは理解しづらいコピーか。
記念館は海岸から少し入った住宅地
記念館前

「入ってきて人生と叫び、出ていって死と叫ぶ」

「悠々として急げ」

めいぷるいつもありがとう。
団欒(杉並)

念願叶い来た、この企画展の最終日に。

九死に一生


1989年12月9日(平成元年)58歳没
記念館というところは結構行ったが、今回ほど気持ちが神妙になった記念館はなかった。
それは作品を通して著者に対しての感情移入によるものか。
初めて開高健を知ったのは中学生国語教科書(東京出版)「裸の王様」だった。それからいくつかの作品を読んだり釣り紀行のテレビ番組を見たり、58歳は少し早いだろう。
せめて後5年生きてたらと思う。
展示されている全てが遺品として迫って来た。
それはワインボトルであったり、ベトナム政府軍200人の大隊に同行してほぼ全滅17人が生き残こった時にかぶっていたヘルメットであったり、原稿であったり、、
今度はいつ訪れる事が出来るか。