※トップの画像は、河野辰雄氏著書の『常陸国風土記の史的外観』から引用しました。
前回に引き続き、藤原鎌足の常陸国出身説を追います。
藤原道長を中心にした摂関家の全盛期を描いた『大鏡』第五の条では、鎌足の出生地について以下のように記されています。
「(中略)…中臣鎌子の連と申して、内大臣になり始めたまふ。その大臣は、常陸国にてむまれたへりければ、三十九代に当りたまへる帝、天智天皇と申す…(後略)」。
「鎌足の大臣生れ給へるは、常陸の国なれば、かしこに鹿島といふ所に、氏の御神を住ましめ奉り給ひて、その時より今にいたるまで、あたらしき帝・后・大臣立ち給ふ折は、御幣の使必づたつ」。
この条では、二度に渡って鎌足は常陸国の生まれであると記し、鹿島の名も登場しています。
また、奈良時代に成立した地誌『常陸国風土記』の久慈郡の項には興味深い一文があります。
「久慈の郡。…(中略)淡海の大津の大朝に光宅しめしし天皇の世に至り、藤原の内大臣の封戸をみに遣わされし軽直里麿、堤を造きて池を成つき。其の池より以北を、谷合山と謂ふ。(以下略)」
→天智天皇の世に、(常陸国久慈郡にある)藤原の内大臣(鎌足)の封戸を視察に来た軽直里麿という人物が堤を築いて池を作った。その池よりに北に、谷合山がある。
ここでの谷合山が茨城県のどの山を指すのかはっきりと分かっていませんが、大子町の男体山、もしくは音の似てる武生山(たきゅうさん)とする説があります。
鎌足の封戸があった場所については、『新編佐竹読本』著者の高橋茂氏によると、当初は大化の改新の恩賞として天智天皇から5000戸を与えられるも鎌足が遠慮したことにより2000戸を下賜され、常陸国久慈郡金砂郷、水府、太田郷瑞竜、佐都郷(いずれも現在の茨城県常陸太田市)にあったとしています。
こうしたことからも、やはり鎌足は常陸国の生まれだったのではないか?という疑念を持たざるを得ません。
大鏡に記述があったり、常陸国に封戸があったからといって、鎌足が常陸国の生まれであると考えるのは早計だと考える方もいるかもしれません。
しかし、鎌足を常陸国鹿島の人だと記す書は大鏡だけではありません。「伊呂波字類抄」「多武峰縁起」にも同様のことが記されており、更に鹿島神宮の近くには“鎌足神社”があります。ここでは鎌足を祭神として祀っており、この地で鎌足は生まれたという伝承があります。
茨城県鹿嶋市宮中字下生にある鎌足神社。筆者撮影。
また、『常陸国風土記』は、藤原不比等の三男である藤原宇合が編纂したとされており、やはり鎌足だけでなく藤原氏と常陸国の強い関連性は無視できません。
次回は鎌足と鹿島、鹿島神宮との関係性について書きます。
参考文献 河野辰雄『常陸国風土記の史的外観(崙書房)
秋本吉徳『常陸国風土記』(講談社)
高橋茂『新編佐竹読本』(とらや書店)
田村圓澄『藤原鎌足』(塙書房)
石川徹『大鏡』(新潮社)