藤原鎌足(614~669)とは、藤原氏の始祖であり、後の天智天皇こと中大兄皇子と共に大化の改新の中心人物として活躍した貴族です。
中臣鎌足という名でも知られてることは言うまでもないでしょう。
鎌足の父は中臣御食子であり、母は大伴智仙娘。両親共に連姓豪族の上層クラス出身です。
鎌足の子として、僧侶の定恵、藤原不比等、耳面刀自(弘文天皇妃)、斗売娘(中臣意美麻呂夫人)、氷上娘(天武天皇夫人)、五百重娘(天武天皇夫人、のち藤原不比等夫人)。
孫に、藤原四子として有名な藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂。いずれも藤原不比等の子息たちです。
彼ら四兄弟は藤原四家としてそれぞれ南家、北家、式家、京家に分かれ、特に北家の子孫たちは長期に渡る藤原氏繁栄を築きます。
ちなみに、藤原道長は房前を祖とする藤原北家の出身です。
そんな鎌足の出生地は、藤原氏初期の歴史を記した伝記である『藤氏家伝』では大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)とされています。
また、同じく高市郡の大原(奈良県明日香村)にも鎌足出生の伝承があり、大正3~4年出版の「大和志料」という本では次の通り書かれています。
『大原、今小原ニ作リ飛鳥村ノ大字ニ属ス。所謂藤原ハ其ノ内ニアリ、中臣氏世々ココニ住シ、鎌足連亦ココニ産ル』。
しかし、この記述を日本史学者の田村圓澄氏は自身の著書『藤原鎌足』の中で「地理的にも大原とは全く別個の藤原を大原の一部にとりこむという牽強付会をしている」と批判しています。
ただ、この地にある大原神社の境内には今も「大織冠鎌足広旧邸」の石碑があり、その付近の誕生山には伝大伴夫人(鎌足の母)の墓があり、当地の人々に鎌足は大原で生まれたと信じられていたことが窺えます。
それでは、鎌足は大和国出身で間違いないのでしょうか。
大和国高市郡藤原出身説を定説とする論文や書籍が多い一方で、鎌足には常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)で誕生したという説があります。
藤原摂関家の全盛期を描いた『大鏡』では、鎌足の出生地を常陸の鹿島としており、常陸国出身説は平安時代の貴族たちの間ではかなりの信憑性をもって信じられていたといいます。
ところが、『大鏡』の記述の信憑性を疑問視する現在の多くの研究者たちはこの常陸国出身説を否定し、鼻にもかけてないのが実情です。
しかしながら、私は疑問に思うのです。
なぜ、『大鏡』は藤原氏始祖である鎌足を常陸国の生まれだと記したのか?
大鏡の著者は現在も尚不明とされていますが、摂関家の人物かそれに近い人物が書いたものであることはまず間違いないでしょう。
それならば、鎌足が大和国の生まれであることが真実なら藤原氏の始祖である彼をわざわざ東国の僻地・常陸国の生まれと記す理由がないように思われませんか?
また、当の鎌足は常陸国鹿島に鎮座する鹿島神宮を厚く信仰し、鹿島神宮から10キロ程離れた香取神宮も崇拝していたといいます。
ここに、鎌足の出身地の真実が隠されていると考えられるのです。
次回に続きます。
参考文献 田村圓澄『藤原鎌足』(塙書房)
井上辰雄『常陸国風土記にみる古代』(学生社)
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