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人生最後に大好きになったJohn Mayer をこれからは書いていきたいと思っています❣️

ジョージ・ハリソン アルバムストーリーVol.3

2019年02月27日 | The KanLeK...
ジョージ・ハリスン『GEORGE HARRISON(邦題:慈愛の輝き)』
『Thirty Three & 1/3』のリリースから2年半後、
ジョージにとって8作目のスタジオ・アルバムとなる、
喜びに満ちた、そして時にひどく見過ごされがちなアルバム『George Harrison』が発表された。
ダーク・ホース移籍後2枚目となる本作は、ジョージがオリヴィア夫人と結婚した後に制作。
二人の愛の純粋な反映となっている。

1978年3月から11月にかけてレコーディングが行われた本作は、1979年2月にリリース。
当時、ジョージにインタビューしたライターのミック・ブラウンが、本作について「並外れて良い」
「『All Things Must Pass』以来の傑作」と評した際、ジョージはこう答えていた
「そうだね、『All Things Must Pass』と同じくらい売れたら嬉しいよ。
このアルバムはかなり好感を持ってもらえるんじゃないかな」。控えめな物言いの達人である……。.

米ビルボード誌は、アルバム『George Harrison』をスポットライト(注目)作品として取り上げ、
「Love Comes To Everyone(邦題:愛はすべての人に)」「Here Comes the Moon」
「Not Guilty」をベスト・ソングだと強調していた。

アルバムのオープニングを飾るのは、真情溢れる「Love Comes To Everyone」で、
この曲のイントロでギターを弾いているのはエリック・クラプトンだ。
スティーヴ・ウィンウッドもモーグ・シンセサイザーで参加。
この曲は主にハワイで書かれ、アルバムの残りの曲と同様に、ジョージがラス・タイトルマンと
共同プロデュースを行っている。

「Not Guilty」は、ビートルズがマハリシ・マヘシュ・ヨーギと共に過ごすためにインドを訪問した後、
1968年に書かれたものだ。 歌詞ではインド滞在後の、ジョンおよびポールとジョージの
関係について触れている。
ビートルズは1968年『White Album』用に「Not Guilty」をレコーディングしたのだが、
数日間取り組んだ後、そのトラックはボツになった。
そのビートルズ・ヴァージョンは『The Beatles Anthology 3』に「Take 102」として収録されている。

「Here Comes The Moon」は、ジョージが書いたビートルズのあの名曲に着想を得たものであるのは
明らかで、同時代の批評家達にも本作のハイライトに挙げられていた。
本アルバムの再発盤には、ジョージの自宅で録音された同曲のアコースティック・デモが収録されており、
楽しげなメロディがさらに強調されている。
「Soft-Hearted Hana」は、ハワイのマウイ島に滞在中、ジョージがマジック・マッシュルームで
サイケデリックな体験をしたことを元に書かれたものだ。

「Blow Away」は本作からのシングルで、メロディー的にはシンプルだが、特にこの上なく
叙情的なジョージのギター・プレイが含まれていることから、時代を経るにつれ人気を高めてきた曲の
一つとなっている。
同シングルは全米チャート16位、全英チャート51位。カナダでは最高位7位を記録した。

アルバムの後半(LPのB面)はフライアー・パークの自宅スタジオで主にレコーディングが行われ、
そのオープニングを飾る「Faster」はジョージのF1レース愛が元になっている。
ジョージはこの曲名を、レーシング・ドライバーのジャッキー・スチュワートの自伝のタイトルから引用。
曲冒頭の効果音は、1978年のイギリス・グランプリで録音されたものだ。
慈善家のジョージは、1978年、スウェーデン人ドライバーのグンナー・ニルソンの死去後、
〈グンナー・ニルソンがん基金〉を支援するため、この曲をシングルとしてリリースした。

穏やかで繊細な「Dark Sweet Lady」もまた、家庭生活がもたらした至福感にインスピレーションを
得た曲で、エミール・リチャーズのマリンバを加えることにより、ハワイアン音楽への敬意を滲ませている。
ラス・タイトルマンによれば、「このアルバムのレコーディングを行ったのは、フライアー・パーク。
ロサンゼルスのグレンデールにあるアミーゴ・スタジオで録音した「Dark Sweet Lady」を除いてね。
この曲は、僕がイギリスに行く前、一番最初にやった曲なんだ。
ジョージは、オリヴィアとハワイで過ごしている間に書いたこの曲を携えて、ロサンゼルスに降り立ったんだよ」

「Your Love Is Forever(邦題:永遠の愛)」と「Soft Touch」は、このアルバムに満足感をもたらす
大きな役割を果たしており、本作が“晩成型”になる後押しをした。
タイトルマンによると、「LAで初めて会った時、ジョージは殆どの曲をカセット・テープに入れて持っていて、
その多くがハワイで書かれたものだった。
そこにはギター・パートのみの「Your Love Is Forever」も入っていたんだよ。
それはジョージがこれまでに書いた曲の中でも、最高に美しい曲の一つだと思う。
それで彼に「これに歌詞を付けてもらわないと」って言ったんだ。そして彼はその通りにしたんだよ」

本作では、1曲の例外を除き、ジョージが全て一人で作詞作曲を手掛けている。
アルバムを締めくくる「If You Believe」がその例外で、これはジョージが旧友のキーボード奏者ゲイリー・ライトと
共作したものだ。タイトルマン曰く「ゲイリーはこの1曲に取り組むためだけにやって来たんだ。
そしてそれが素晴らしい結果を生んだんだよ」

これまでに言及しているミュージシャンの他、このアルバムには、ドラマーのアンディ・ニューマーク、
ベースにウィリー・ウィークス、パーカッショニストのレイ・クーパー、ハープ奏者のゲイル・ルヴァントが参加。
ラスがまとめ上げたバンドには、キーボード奏者ニール・ラーセンも含まれており、本作に素晴らしい
音の層をもたらしている。

実のところ、パンクの隆盛から80年代に向けての過渡期にあった、この困難な時代に生み出された数多くの作品と
比べても、本作は遥かに優れたものに聴こえる。その理由は非常にシンプルだ。良い曲を素晴らしい曲にするのに
必要な生まれつきの感覚をジョージが持っており、それが本作をこれほど美しいアルバムにしているからである。
- Richard Havers
 


ジョージ・ハリスン『SOMEWHERE IN ENGLAND(邦題:想い果てしなく~母なるイングランド)』

1930年代は“低調なごまかしの10年間”と呼ばれていたが、音楽的な面で言えば、ほぼ間違いなく同じことが、
1980年代に世に出てきた多くの音楽にも当てはまるだろう。
至る所で耳にするシンセサイザーの大挙到来、デジタルの登場と本格的普及、そしてMTV現象全体のおかげで、
道を誤ったミュージシャンは若手からベテランまで少なからずいた。
しかしこの新たな10年間の始まりを迎えた時、ジョージの道を誤らせるものは何一つなかった……
彼は発表間近の新作を既に完成させていたのである。

後に『Somewhere In England』となるアルバムのレコーディングが開始されたのは、1980年3月のこと。
作業はそれから7ヶ月間、のんびりしたペースで、フライアー・パークにある自宅スタジオで続けられた。
ジョージの息子ダーニによると、父ジョージは当時、何かに少し取り憑かれたようになっていたという。
「彼は夜になると庭に出て、深夜までそこにいることがあったんだ」
夫人のオリヴィア・ハリスンは、著書『Living In The Material World』でこう語っている。
「彼はよく外に出て目を細めていました。真夜中には月光と影が見えたからです。
彼にとってはそれが、日中自分を悩ませていた不快なことや不完全なものを目にしないで済む方法であり、
それによって事が終わった後どうなるかを想像することができたのです。
庭にいたため、彼はほぼ毎晩夕食を忘れかけていたものでした。
朝一番から夜の最後まで、そこで過ごすこともありました」

1980年9月、ジョージが新作をワーナーに最初に聴かせた時、あまりにレイドバックしすぎていると彼らは考えた。
新年代を支配していた風潮、つまりポスト・パンク熱に、彼らが捕らわれているのは明らかだった。

持ち込んだアルバムから4曲を外し、幾つかの新しい曲に取り組むことにジョージは同意。
これらが完成したのは1981年2月のことだった。元ビートルズのメンバー達の世界で当時起きていたことを思えば、
これがそもそも完成したこと自体、ある意味驚くべきことである。

ジョン・レノンが殺害されたのは1980年12月のこと。
この恐ろしく辛い事件に促され、ジョージは自身の曲「All That Years Ago」に再び取り掛かった。
彼とリンゴ・スターはこの曲を11月にレコーディングしており、1981年リリース予定のリンゴの
アルバム『Stop And Smell The Roses(邦題:バラの香りを)』に収録することを視野に入れていた。

だがジョージは矢も楯もたまらず、ジョンに捧げる曲として、過去を懐かしむ新たな歌詞を書かねばならない
気持ちに駆られた。
同曲は、ジョージのリード・ヴォーカル、リンゴのドラムス、ポール&リンダ・マッカートニーの
バッキング・ボーカル、そしてレイ・クーパーや、デニー・レイン、アル・クーパー、そして
ハービー・フラワーズといった友人達の参加を仰いで再レコーディング。
1981年6月発売の『Somewhere In England』に先駆け、5月にリリースされた「All Those Years Ago」は
全米チャートで3週間2位の座を維持した。

後にジョージは、レコード会社の要請で、アルバムのオリジナル・ジャケットの変更を余儀なくされた。
元のジャケでは、英国の国土を写した航空写真の上にジョージの顔が重ねられていたが、変更後は、
彼が‘ホランド・パーク・アヴェニュー・スタディ’の前に立っている写真に。
オリジナルのジャケットは、ボックス・セット『Dark Horse Years』に含まれていた2004年の再発盤で
復活している。

本作でジョージが特に気に入っている曲の1つが、皮肉たっぷりのオープニング曲「Blood From A Clone」だ。
トレードマークの暗いユーモアを交え、自身の音楽には明らかに時代にそぐわないものがあるという事実を彼は認めている。
「彼らが言うには/気に入ってはいるが/今の市場では/売れないかもしれないんだとさ」と彼は歌っていた。
「ウンパッパってのを入れないと/フランクザッパみたいなのはお呼びじゃない/それにニュー・ウェイヴはダメだ/
あんなくだらないものはプレイしない/レンガの壁に頭を打ちつけてみなよ/石のように堅い壁に……
音楽に割いてる時間なんてないんだ/彼らが求めてるのはクローンの血」

彼は後にクリーム誌にこう説明している。
「そういうことを彼らに言われていたんだよ、まあ、我々はそれを気に入ってはいるが、あまりシングル向けの曲が
ないなってね。また他の人達には「ちょっと聞いてくれよ、ヒット・シングルの構成要素を解明しようと、
ラジオ局が街で世論調査をしているんだけど、それによるとヒット・シングルというのは、14〜20歳向けの
ラヴ・ソングもしくは失恋ソングなんだそうだ」とも言われた。
それで僕は言ったんだ『ちくしょう、それじゃ僕にどんな勝算があるっていうんだ?』ってね。

それで……僕はちょっとしたフラストレーションの解消に、この曲を書いたんだよ。
『そこに意味など全くない/純粋にカネのことだけさ/あまりにガツガツしていて/驚かされる」

本作の中でも特に傑出している曲に、叙情的で哲学的な、想像力を刺激する
「Writing’s On The Wall(邦題:神のらくがき)」がある。
これはシングル「All Those Years Ago」のB面であった。
またジョージは、ホーギー・カーマイケルが書いた2曲「Baltimore Oriole」と「Hong Kong Blues」をカヴァー。
後者は1960年代にスパンキー&アワー・ギャングもカバーしていた。
両曲共、1940年代に書かれているにも拘らず、まるでハリスンのオリジナル曲のように聴こえる。
「Life Itself」こそ本作のベスト・トラックだと言う人も数多いが、その理由は分かりやすい。
スピリチュアルであると同時に想像力を掻き立てるこの曲には、正に典型的なジョージらしさが溢れているからだ。

『Somewhere In England』は、1981年6月13日付の全英チャートで初登場12位を記録。
翌週もトップ20圏内を維持した。
全米では13週連続チャートインを果たし、最高位11位まで上り詰めている。
1年半後、ジョージは『Gone Troppo』を引っ提げて還ってきた。
その後、彼が自身の名の下に制作するアルバムは、大成功を収めた1987年の『Cloud NIne』まで待つことになる。
- Richard Havers 


ジョージ・ハリスン『GONE TROPPO』



ジョージにとって10作目となるスタジオ・アルバムは、1982年5月上旬から8月末にかけてその大部分がレコーディングされた。
それは『Somewhere In England』がリリースされてから1年余りが経った時のことだった。
本作はワーナー・ブラザーズとの契約下で制作された最後のアルバムであり、そのことを念頭に置いて作られた感もあるが、
多くの驚きに満ちた本作の概説としては、それはあまりに単純化が過ぎるというものだ。

『Gone Troppo』は1982年11月にダーク・ホースからリリースされたが、ジョージは本作のプロモーション活動を
全く行わず、彼の心は他のプロジェクトに奪われていた。
この時期、ジョージの音楽業界に対する見解は、恐らく本作のアルバム・タイトルに最も巧く要約されているだろう。
これはオーストラリアの俗語表現で「頭がおかしくなる」という意味であり、元ボンゾ・ドッグ・バンドの
レッグスことラリー・スミスが手掛けた素晴らしいアルバム・ジャケットのアートワークに、その感覚が反映されている。

このアルバムには、ジョージの音楽仲間が多数参加。
英国の頼れるパーカッショニスト、レイ・クーパーは、マリンバやグロッケンシュピール、エレクトリック・ピアノも担当、
ドラムスはヘンリー・スピネッティ、ベースにはハービー・フラワーズ、ビリー・プレストンはオルガン、ピアノ、
キーボード、シンセサイザーおよびバッキング・ヴォーカルを担当、ジム・ケルトナーはドラムスとパーカッション、
マイク・モランはキーボード、ジョー・ブラウンはマンドリンとバッキング・ボーカル、そしてジョーの妻ヴィッキーも
バッキング・ボーカルを担当している。
こういった才能の結集がアルバムに多大な貢献を果たし、フライアー・パークのスタジオで録音された本作は、
珠玉の楽曲を含む精巧な作品に仕上がった。

そういった曲の一つが、アルバムを締めくくる「Circles」だ。
これが書かれたのは1968年、ビートルズがマハリシ・マヘシュ・ヨーギのもとで超越瞑想を学んでいた時のこと。
輪廻転生がテーマとなっており、曲名は人間の存在の周期性を指している。
ジョージは1968年5月に、自宅で「Circles」のデモを録音。
1979年発表の『Gone Troppo』に収録するため最終的にレコーディングする以前にも、
1979年のアルバム『George Harrison』のセッション中に再検討したことがあった。
アメリカでは1983年2月、本アルバムからの第2弾シングル「I Really Love You」のB面として選ばれている。

「Dream Away」もまた、本作の収録曲中、ファンと評論家の両方から特に人気が高い曲で、
ジョージが設立した映画製作会社ハンドメイド・フィルムスが手掛けた1981年公開の
映画『バンデットQ』(原題:Time Bandits)のエンドクレジットで流れていた。
これはテリー・ギリアムがソロとなって成功を収めた初めての映画だった。
この映画で使用された歌はこれのみで、オーケストラによるサウンドトラックが、映画用に書き下ろされている。
ギリアムによれば、この曲の歌詞は、映画製作中のギリアムの行動と、彼が頑としてジョージの曲を
サウンドトラックに使用しなかった時に生じた緊張感について、ジョージが綴ったメモが元になっているとのことだ。

「Wake Up My Love(邦題:愛に気づいて)」は、本アルバムからの第1弾シングルのA面で、
全米シングル・チャート最高位53位「That’s The Way It Goes」はハワイとオーストラリアで書かれたもので、
世の中がカネと地位にばかり夢中になっていることに対するジョージの見解が表されており、
それが不可逆的であることを彼は受け入れるようになっていた。
この曲は、本作の中でも特にジョージが気に入っているものの1つで、評論家の間でも人気が高く、
コンピレーション・アルバム『Best of Dark Horse 1976-1989』にも収録。
2002年11月、ジョージが亡くなってから1年後、ロンドンで開催された『コンサート・フォー・ジョージ』では、
ジョー・ブラウンがこの曲を披露している。本作に収録されているカヴァー曲は1曲。
リロイ・スウェアリンジェンが書き、ヴォーカル・グループのザ・ステレオズが1961年にレコーディングして
全米29位となった「I Really Love You」がそれだ。

発表当時は珍しく成功に至らず、全米アルバム・チャートで108位に終わったものの、本作は年月が経つにつれ、
より正当な評価を受けるようになったアルバムだ。
2004年、 ローリング・ストーン誌はレビューで次のように述べている。
「『Gone Troppo』は、ハリスンの作品中、最も過小評価されたアルバムかもしれない……。
ここでは最も肩の力が抜けた、遊び心たっぷりのハリスンの姿が捉えられている。」

ジョージのアルバムの何作かに言えることだが『Gone Troppor』もまた、年を経るにつれ味わいの深まった作品の一つだ。
これを掘り起こしてかけながら、世界が今とは大変異なる場所だった、30年以上前の時代に思いを馳せようではないか。
 


ジョージ・ハリスン『CLOUD NINE』


ジョージ・ハリスンが1982年に発表した『Gone Troppo』と、1987年11月の第1週にリリースされた
『Cloud Nine』の間には、5年の間隔が空いていた。
ELOのジェフ・リンが共同プロデュース(彼は収録曲のうち3曲を共作)を行った『Cloud NIne』で、本格的に調子を
取り戻したジョージ。
本作収録の「Got My Mind Set On You」は、全米チャートで1位を獲得(シングルとしては3枚目)、全英でも
最高位2位を記録した。

「Got My Mind Set On You(邦題:セット・オン・ユー)」のことを、ジョージが書いた曲だと思っている人は
多いのではないだろうか。
ジョージはこれを完全に我が物としているが、実際には元々ジェームズ・レイがリリースしていた曲だ。
ルディ・クラークが作詞作曲を手掛けたそのオリジナル・ヴァージョンは、1962年にダイナミック・サウンド・レーベルから
発売された。このシングルはジョージにとって15年ぶりの全米No.1となったが、全英チャートでは惜しくも
トゥ・パウの「China In Your Hand」に阻まれ、2位の座に4週間留まり続けることとなった。

ジョージ版「Got My Mind Set On You」は、彼のソロ11作目『Cloud Nine』の結びの曲で、 アルバム発売の1週間前に
シングルとしてリリースされた。ジョージがアルバムのレコーディングを開始したのは、1987年1月。
ジェフ・リンを始め、ジョージの友人の多くが本作に参加しており、その殆どが、これまでにも彼の作品の何れかに手を貸していた。

エリック・クラプトンは表題曲の他「That’s What It Takes」「Devil’s Radio」
「Wreck Of The Hesperus(邦題:金星の崩壊)」に参加。
エルトン・ジョンは後者2曲と「Cloud Nine」でピアノを演奏している。
元スプーキー・トゥースのメンバーで、ソロ転向後に米国で大きな成功を収めていたゲイリー・ライトは
「Just For Today」と「When We Was Fab」でピアノを担当している他
「That’s What It Takes」をジョージおよびジェフ・リンと共作もしている。
ドラマーでは、リンゴ・スターと、ジョージのもう一人の長年の友人ジム・ケルトナーが参加。
またレイ・クーパーがパーカッションを手伝っている。

本作からシングル・カットされたもう一つの大ヒット曲に「When We Was Fab(邦題:FAB)」があった。
この曲のタイトルをリバプール訛りで口にした場合、その意味するところはたった一つのはず。
さらに言うなら、どんな訛りで口にしようとも、その意味するところはやはりたった一つ、つまりビートルズのことである。

あのマッシュルーム・カットの愛すべき4人組、愛称“ザ・ファブ・フォー”が世界を支配し、彼らは永遠に続くと
誰もが思っていた時代。そんなビートルマニア全盛期が、この曲を聴くと完璧に呼び起こされる。
ジョージはこの曲をジェフ・リンと共作。
2人が、トム・ペティ、ボブ・ディラン、ロイ・オービソンと共にトラヴェリング・ウィルベリーズを結成したのは、
それから間もなくのことだ。

ジョージによれば「…僕が歌詞を完成させるまで、この曲はずっと「Aussie Fab」と呼ばれていた。そういう仮題が
付いていたんだ。この曲で何を言おうとしているのか、歌詞のテーマをどんなものにしようか、自分でも考えついて
いなかったんだよ。だけど間違いなく“ファブ”の歌であることは分かっていた。
これはファブを基にした曲で、同時にオーストラリアのクイーンズランドでやっていた曲だから、そんな名前で呼んでいたんだ。
歌詞を書き進めていくうちに「When We Was Fab」という題になったんだよ。これはライヴでやるのが難しい曲なんだ。
少しずつオーバーダブが行われていたり、チェロやら変わったノイズやらバッキング・ヴォイスやらが色々と入っているからね」

誰であれ『Cloud Ning』がヒット2曲のみとその他の穴埋め曲から成るアルバムだなどとは、一瞬たりとも考えるべきではない。
アルバム全体を通し、曲の質が素晴らしく高いからだ。
特に傑出しているのが、まず『All Things Must Pass』に入っていてもおかしくない「Something Else」
恐らくそれと同じことが言えるのが、美しい「Just For Today」で、ジョージのトレード・マークともなっている
絶妙なスライド・ギター・ソロによって、よりそう実感させられるはずである。

賞賛すべきは、ジェフ・リンのプロダクション・スキルだ。
エレクトリック・ライト・オーケストラ時代、リンがビートルズに触発されていたことは——ちょうどテイク・ザットが
“復活”アルバム『Beautiful World』でELOに触発されていたのと同様に——明らかであった。
それこそ、音楽をこれほどまでに影響力の高いものにしている要因の一つである。
つまり、何世代にも渡るミュージシャン達が、私達の生きるこの世界をより良い場所に感じさせ続けてくれるであろうものを、
いかにして次世代に引き継いでいくかということだ。

『Cloud Nine』は、米国、英国、オーストラリア、カナダ、ノルウェー、スウェーデンでトップ10入りを果たした。
アルバムのジャケットには、ジョージが初めて所有した米国製ギターがあしらわれている。
この1957年製グレッチ6128デュオ・ジェットは、ジョージが1961年にリヴァプールで購入しもので、
彼はそれを“昔なじみの黒グレッチ”と呼んでいた。
そのギターは、ジョージから長年の友人クラウス・フォアマンの手に渡っており、彼はそれを20年間保管、
ロサンゼルスに置かれ、そこで改造されていた。ジョージはそれを返してもらい、元通りに復元。
アルバムとシングルのジャケット写真(ゲレッド・マンコヴィッツ撮影)で使用している。

アルバム再発盤にはボーナス・トラックを追加。
シングル「When We Was Fab」のB面で、ジョージとジェフ・リンが映画『Shanhai Surprise』のために書いた
「Zing Zag」が含まれている。 また、同映画の表題曲「Shanghai Surprise」も収録。
そこにはジョージと共に、ヴィッキー・ブラウンもヴォーカルで参加している。
ヴィッキー・ブラウン(旧姓ヘイズマン)は元々、リヴァプールのグループ、ヴァーノンズ・ガールズのメンバーで、
ビートルズの友人であった。彼女は後に、英国のシンガー兼ギタリスト、ジョー・ブラウンと結婚。
彼もまた、ジョージの親しい(地元の)友達だ。 痛ましいことに、ヴィッキーは1990年、乳がんでこの世を去った。

あなたがしばらく『Cloud Nine』を聴き直していないなら、次に聴いた時はきっと、古い友人と旧交を温めているように
感じられることだろう。
そしてまだ一度もちゃんと聴いたことがなかったとしても、きっと同じように感じられるに違いない。
これはジョージ以外、誰にも作れなかったであろうアルバムだ。
思慮に富んでおり、音楽的に豊かで、ユーモアに溢れ、そしてファブ(素晴らしい)アルバムなのである。

- Richard Havers


ジョージ・ハリスン『Live In Japan』


ジョージ・ハリスンは、ザ・ビートルズ時代、クラブから、村の公民館ホール、ダンスホール、映画館、
そして後にはスタジアムまで、様々な会場で数え切れないほどのライヴを行っていた。
ザ・ビートルズとして最後にステージに立ったのは、1966年8月、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークだ。
ご承知のように、1969年1月には、アップル・ビルの屋上でかの有名なルーフトップ・コンサートを敢行。
そしてその年の終わりに、デラニー&ボニー&フレンズのメンバーとして、ジョージ・ハリスンは短期ツアーに乗り出した。

デラニー&ボニー・ツアーは大所帯で行われ、ジョージ・ハリスンは友人のエリック・クラプトンとデイヴ・メイソンの他、
ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンと共演。
エリック・クラプトンは後者3人を引き抜いて、1970年の夏、共にデレク&ザ・ドミノスを結成し、ジョージ・ハリスンの
ソロ・アルバム『All Things Must Pass』のレコーディングにも参加した。
その翌年、ジョージ・ハリスンは『Concert For Bangladesh(コンサート・フォー・バングラデシュ)』を開催し、
1974年には『The Dark Horse Tour(ダークホース・ツアー)』と銘打った北米ツアーを行い、
同名のレーベル設立および同名アルバムの発売を発表。
このツアーは、大部分のファンからは好評を得たものの、批評家達からは不当な評価を受け、その反応に
ジョージ・ハリスンは傷ついた。

その後、ジョージ・ハリスンが次のツアーに出るまでには、17年の歳月を要することになる。
彼がツアー活動を再開したのは、1991年12月に行われた一連の日本公演で、エリック・クラプトン率いるバンドが
同行するジョイント・コンサートの形であった。
この時のツアーから制作されたのが、アルバム『Live In Japan』だ。
本作は、ザ・ビートルズの一員として、そして20年に渡るソロ・アーティストとしてのジョージ・ハリスンの
キャリアを称える、心からの喜びと高揚感に満ちた作品となっている。
コンサートの冒頭を飾ったのは『Revolver』に収録されたジョージ・ハリスン作の3曲のうちの
3曲目「I Want To Tell You」で、本ライヴ盤に収められているパフォーマンスは、このアルバムの素晴らしさを集約。
そのヴォーカル・ハーモニーは、ザ・ビートルズを彷彿とさせながらも、独自の新鮮さを放っており、
ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンとの間で生まれる音楽的な相互作用は、彼らの友情と同じくらい親密さに溢れている。

バンドの残りのメンバー達も、格別にタイトであった。
全体を下から見事に支えていたのが、ベース担当のネイサン・イーストと、ドラムス担当で
元アヴェレージ・ホワイト・バンドのスティーヴ・フェローンから成るリズム隊だ。
またキーボード担当のグレッグ・フィリンゲインズとチャック・リーヴェルは、例えば「Isn’t It A Pity」で
特に美しい効果を発揮しているように、ジョージ・ハリスンの“特徴的サウンド”に不可欠な重層のサウンドスケープを
生み出すのに、多大な貢献を行っている。

ザ・ビートルズの名曲群に取り組むのは、たとえそれが自ら書いた曲であったとしても、決して容易なことではなかったが、「Something」のオープニング・コードが奏でられる頃には、魔法のような不思議な力が辺りに充満していた。
ジョージ・ハリスンのヴォーカルは真情に溢れており、バンドもまた、ジョージ・ハリスンのソングライティングの
頂点に位置すると捉える向きもいるこの曲を、正にお手本とも言えるような見事な解釈で演奏している。

その他のハイライトには『Abbey Road』に収録されていた「Here Comes The Sun」の繊細なヴァージョンがある。
そしてそれに続く「My Sweet Lord」では、ジョージ・ハリスンの“ヴェーダ聖典の詠唱を盛り込んだ、
ゴスペル的な繰り返し”を忠実に再現。
バック・シンガーのテッサ・ナイルズとケイティ・キッスーンがここで前面に出ており、ジョージ・ハリスン独特の
スライド・ギターで、曲はクライマックスに達する。そしてその全てが、日本の聴衆の熱狂的な反応を引き起こしているのだ。

「While My Guitar Gently Weeps」は、ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高の150曲」にも
ランク・インしているが、この『Live In Japan』におけるヴァージョンは、ジョージ・ハリスンが
手がけたこの名曲の評価を更に高める役割しか果たしていない。
元々はザ・ビートルズの『White Album』用に書かれ、録音されたこの曲。
本作でのヴァージョンにも、オリジナル同様、エリック・クラプトンによる最高のソロのひとつが含まれている。
感情豊かかつ強力で、高く舞い上がるようなそのソロは、ギターの神々の大殿へと聴き手を誘う。
その後、ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンは、それ以前も以後も数多くの人々がそうしてきたのと同じように、
チャック・ベリーの古典「Roll Over Beethoven」を披露して、ショーを締めくくった。
そこでは、アルバムの残りの曲と同じく、アーメン・コーナーの元フロントマンだったアンディ・フェアウェザー・ロウが、
第3ギターを担当している。

このアルバムがリリースされると、Billboard誌が「ぞくぞくするほど痛快で、心地良く、無視できない作品」と
評した一方、本作は「ジョージ・ハリスンが、ザ・ビートルズ時代に自ら手掛けた最高の楽曲にソロ曲を融合させた
レパートリーを披露している、注目すべき傑出したライヴ・セット」だと主張する評論家もいた。

その意見には、私達も同意だ。
私達の殆どが、その現場に居合わせることはできなかったが、この『Live In Japan』は、グレイテスト・ヒットを
集めたベスト盤の精髄に、ライヴ・パフォーマンスの臨場感と新鮮さを融合させた、素晴らしい高揚感に溢れる
ドキュメンタリー記録作品である。
今聴いても、自分達のやっていることを愛し、互いの音楽を分かち合うことを楽しんでいるこの2人のギターの
ヒーローには、驚嘆させられるばかりだ。- Richard Havers




ジョージ・ハリスン『Brainwashed』


ジョージ・ハリスンが1987年にリリースした『Cloud Nine』と、最後のアルバム『Brainwashed』の間には、
15年もの歳月があった。長く待たされたその時間には、辛い悲しみの影も差している。
というのも、ジョージ・ハリスンにとり12作目にしての最後のアルバムとなった本作は、彼の痛ましい死から
およそ1年後に発表されたからだ。

本作は、音楽的に多彩であり、時には不公平にも見過ごされてしまうことのある、珠玉の楽曲が詰まっている。
このアルバムに向けた最初のレコーディングは1988年にまで遡り、その時録音されたのが『Cloud Nine』の
プロモーション・ビデオ制作中に書かれた「Any Road」であった。
本作からシングルとして正式にリリースされたのは同曲のみで、2003年春の発売時、英国ではマイナーな
ヒットとなったものの、米国ではチャート・インを逃している。

George Harrison-Any Road

「Any road」は、2004年のグラミー賞で<最優秀ポップ・ボーカル・パフォーマンス>部門にノミネートされたが、
ジョージ・ハリスンがもしそれを知ったなら、恐らく皮肉に感じただろう。
本アルバムにも収録されている同シングルのB面は、ジョージ・ハリスンの最高傑作のひとつと言える、
美しいインストゥルメンタル曲「Marwa Blues」だ。
A面曲と同様、これもグラミー賞にノミネートされ、<最優秀ポップ・インストゥルメンタル・パフォーマンス>賞に
当然ながら輝いた。
ジョージ・ハリスンのギター・プレイと独特メロディ・センスが、この曲では鮮やかに要約されている。

本作収録曲の多くと同様「Marwa Blues」では、ジョージ・ハリスンの息子ダーニ・ハリスンがギターを、
そしてジェフ・リンがキーボードとギターを担当(両者共に、本アルバムの共同プロデューサーとして
クレジットされている)。『Brainwashed』には、ドラマーのジム・ケルトナーやパーカッショニストの
レイ・クーパーを始め、旧友の面々も参加しており、表題曲「Brainwashed」でピアノを弾いているのは
ジョン・ロードだ。
だが、本作全体を決定付けている最も重要な雰囲気は、ダーニとジェフとの間の、親密かつ家庭的な関係からこそ
生じたものである。

George Harrison-Brainwashed(The Making of

制作の進行が遅かった理由のひとつは、例えば1990年に2作目が出たトラヴェリング・ウィルベリーズや、
旧友ラヴィ・シャンカールのアルバム『Chants Of India』のプロデュース、そして1995年に放映された
ザ・ビートルズのドキュメンタリー映像作品『Anthology』シリーズの制作など、ジョージ・ハリスンが
他の様々な活動に注力していたからである。

また、ジョージ・ハリスンの健康状態も問題であった。
体調が悪化するにつれ、『Brainwashed』をどのような作品に仕上げたいか、ジョージ・ハリスンは自らの構想や
願望を息子のダーニ・ハリスンと話し合い、共有し合っていた。
アルバム制作の過程全体を通して、ジョージ・ハリスンがそこにいたのと同じように聞こえることが、
その素晴らしい証拠である。

George Harrison=Stuck Inside A Cloud

傑出したトラックには、他に「Rising Sun(邦題:悠久の輝き)」や「Stuck Inside A Cloud(邦題:あの空の彼方へ)」
そしてジョージ・ハリスン版「Run So Far」等がある。この「Run So Far」は元々、旧友エリック・クラプトンが
1989年にリリースしたアルバム『Journeyman』に収録されていた曲だ。
『Brainwashed』でのヴァージョンは、ジョージ・ハリスンとダーニ・ハリスンとジェフ・リンだけで録音した、
完全に新しいトラックとなっている。
「Stuck Inside A Cloud」は、2002年、本作のラジオ向け宣伝用にプロモCDが配布され、Billboard誌の
<アダルト・コンテンポラリー・チャート>でマイナー・ヒットとなった。

「Rocking Chair In Hawaii」は1970年、『All Things Must Pass』の制作中に初めてデモが制作された曲で、
本作に収録されているジョージ・ハリスンのオリジナル曲の中で最も古いものだ。
更に古いもの、つまり『Brainwashed』の中で一番昔からある曲は、1932年に最初に発表された
スタンダード・ナンバー「Between The Devil And The Deep Blue Sea(邦題:絶体絶命)」である。
ジョージ・ハリスンが歌唱とウクレレ演奏を担当しているこのヴァージョンは、1992年にテレビ番組用に録音されたもので、
参加ミュージシャンの中には、ピアノにジュールズ・ホランド、ベースとチューバにハービー・フラワーズ、
ギターに旧友のジョー・ブラウンがおり、ジョージ・ハリスン自身もウクレレ奏者として中々の腕前を披露している。
George Hariison Between The Devil&The Deep Biue Sea

『Brainwashed』がこれほど素敵なアルバムとなっているのは、なぜだろうか? 
何よりそれは、レコーディングに表れている親密感ゆえであり、昔ながらのLPのような感覚を帯びているからだ。
つまり本来のLPにあった、序盤、中盤、終盤があるということ。
本作の場合、最後を締めくくるのは、政治問題に対するジョージ・ハリスンの継続的な関心が示されている、
素晴らしい表題曲で『Revolver』の「Taxman」を今に置き換えたような、現代ならではの問題がテーマとなっている。

『Brainwashed』は、2001年11月29日にジョージ・ハリスンがこの世を去った後、
どれほど偉大なソングライター兼ミュージシャンを私たちが失ってしまったかを思い出させてくれるアルバムだ。
今こうして聴いてみると、本作は、悲しみの味わいを湛えながらも、彼がなぜこんなにも愛され尊敬されているのか、
その理由の全てを称える作品となっている。- Richard Havers
























ジョージ・ハリソン アルバムストーリーVol.2

2019年02月27日 | The KanLeK...
LIVING IN THE MATERIAL WORLD

「口を開いても、自分が何を言おうとしているのか分からないことがある。
そして何であれ、口から出てきたものが出発点なんだ。
もしそういうことが起きて、しかも運が良ければ、大抵の場合それを歌に変えることができる。
この曲は祈りであり、僕と主と、そしてそれを気に入ってくれる人との間の個人的な声明文なんだ」
ジョージ・ハリスンは、彼の曲の中でも最も人気の高い曲の1つ
「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」について、こう語っていた。
この曲がシングルとしてリリースされたのは、1973年5月7日。
同曲が収録されているアルバム、つまりジョージにとってソロ4作目となる、
待望の『Living inThe Material World』の発売3週間前のことだった。
ジョージはアルバム『The Concert for Bangladesh』と同名映画の仕事で多忙を極めていたため
『All Things Must Pass』に続く新作に着手したのは、1972年半ばになってからであった。
当初ジョージは、フィル・スペクターと共に取り組むつもりでいたが、彼の当てにならない
仕事ぶりのせいでさらに遅れが生じ、最終的にハリスンは、自身がプロデュースを手掛けることで
新アルバムの制作を敢行することに決めた。
これまでのアルバムは、相当数のミュージシャンが参加していることが特徴だったが、
今回、1972年秋に行われた「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」のレコーディングで
集められたのは、遥かに少人数のグループであった。
1973年初めにジョージが後から加えた素晴らしいスライド・ギターを別とすれば、
この曲で輝きを放っているのはピアニストのニッキー・ホプキンスだ。
その他、この曲に参加しているミュージシャンは、元スプーキー・トゥースのオルガン奏者ゲイリー・ライト、
ベースには旧友クラウス・フォアマン、そしてデラニー&ボニーやジョー・コッカーのバンドの重鎮を務めた
ジム・ケルトナーがドラムスを担当している。
「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」は忽ち人気を博し、ジョージの曲の中でも
最も長く愛されている曲の1つとなったが、その理由はこの曲を聴けば簡単に分かる。
一見、シンプルに思えるものの、サウンド的にも歌詞に表現された感情の面でも、上辺とは異なる複雑さがあるのだ。
各楽器は、ミキシングによって完璧に配置されている。
ライトのオルガンを土台に、軽快でありながらリラックスした雰囲気を生んでいるケルトナーのドラムス。
ホプキンスは彼の世代で最も高い評価を受けているロック・ピアニストの1人で、
ジョージの素晴らしいスライド・ギター・フリルとソロ(彼のギター・ソロの中でも最高レベル)を完璧に引き立てている。
『Living inThe Material World』のリリース時に書かれたビルボード誌のレビューによれば
「ハリスンは人々を惹きつけると確信」しており「スタジオ仲間(リンゴ・スター、ゲイリー・ライト、
クラウス・フォアマン、レオン・ラッセル、ニッキー・ホプキンス、バッドフィンガーのピート・ハムら)に
囲まれて制作したこのロンドン産の作品は、本質的に内省的かつスピリチュアルだ」
当然ながら、このアルバムには、ジョージが手掛けた最高レベルの楽曲が、1曲ならず複数収録されている。
本作の収録曲で一番古いものは、1970年に遡る。
「Try Some, Buy Some」は1970年に書かれ、当初は元ロネッツのロニー・スペクターが1971年2月に
レコーディングしていた。
「Try Some, Buy Some」およびアルバム表題曲には、本作に収録された他の多くの曲同様、
ジョージの精神性が反映されている。
そこに含まれているのが「The Lord Loves the One(That Loves the Lord)」や
「「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」だ。
「The Day the World Gets ‘Round」は、1971年8月に開催したバングラデシュ難民救済コンサート
(Concert for Bangladesh)に触発されて書かれた曲である。

その他、ビートルズが残したレガシーを振り返っている曲もあり、特に「Sue Me, Sue You Blues」がそれに当たる。
だが本作は、単に“元ビートルズ”の1人としてだけでなく、独立した個人として見てほしいという、
ジョージの願いを反映したものとなっている。
そのカテゴリーに属しているのが「The Light That Has Lighted the World」や
「Who Can See It」そして「Be Here Now」などといった曲だ。

美しい「That Is All」や「Don't Let Me Wait Too Long」といった伝統的なラヴ・ソングには、
尚も精神性があるようだが、後者には、1960年代初頭のブリル・ビルディング直系の曲が持つあらゆる
特徴が備わっていると、複数の評論家が示唆している。

アルバムのタイトルおよび物質主義に対する自身の考え方を補強するかのように、ジョージは本作の
11曲のうち9曲と、アルバム未収録のシングルB面曲「Miss O’Dell」の著作権を自身が立ち上げた
<マテリアル・ワールド・チャリタブル基金>に寄贈した。
このチャリティ基金は、バングラデシュ難民救援活動を妨げた税務問題に対処するためと、
彼が選んだ他の慈善団体を支援するために設立されたものだ。

シングル「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」は、米国では1973年5月7日、
英国ではその2週間後にリリースされた。
同曲が全米チャート入りしてから6週間後、ジョージは全米シングル・チャート1位から、
ポール・マッカートニー&ウィングスの「My Love」を引き摺り下ろし、自ら首位の座に立った。
元ビートルズの2人で全米チャート上位2つの順位を独占したのは、この時が最初で最後である。
同シングルは、英国やカナダを始め、世界各国のシングル・チャートでトップ10入りを果たした。

興味深いことに、米国でアップル・レコードの配給を行っているキャピトル・レコードは、
アルバム・ヴァージョンよりも若干速いスピードでシングルをマスタリングしていた。
その方がラジオ映えすると、彼らは考えていたからである。

米国で既に大ヒットとなっていた『Living in The Material World』が全英チャート入りしたのは、
1973年7月7日のこと。
全米に続き、あと少しのところで英国でも首位を制しかけたが、ヒット映画『That'll Be The Day』の
ロックンロール・コンピレーション・サウンドトラックに阻まれ、惜しくも最高位2位に留まった。

想像力を刺激する、本作のタイトル。
後に、ジョージの軌跡について描かれた、マーティン・スコセッシ監督による2011年のドキュメンタリー映画と、
その公開に伴い、妻オリヴィア・ハリスンが刊行した、直筆の手紙や思い出の品々等を含む秘蔵写真が掲載された
豪華写真集の両方に、同じ題が付けられている。

ジョージは後にこう述べている。
「大抵の人が“物質社会”というのは純粋にお金と貪欲さを象徴していると捉え、不快感を覚えるのだろう。
だが僕の考えでは、それは“物質世界”を意味する。
それがお金と貪欲さなら、物質社会の貪欲な人々にお金をあげてしまえばいいという考えなんだ」
ジョージは自身が特別な人間であることを、彼がよくそうしていたように、ここでもまた証明していた。
- Richard Havers


DARK HORSE

ビートルズの解散を受け、完全なソロとして行ったジョージの初ツアーは、5枚目のスタジオ・アルバム発売に先駆けた、
1974年11月に幕を開けた。
これはビートルズ4人の先頭を切って行われた初めての北米ツアーでもあり、11月2日のカナダ公演を皮切りに
各地を回ったこの1974年ツアーには、バングラデシュ・コンサート同様、インドの熟練ミュージシャン、
ラヴィ・シャンカールが参加していた。

バンクラデシュ・コンサートの出演者で、1974年のツアーにも参加したその他のミュージシャンには、
幾つかのソロ曲も担当しバンドの要となっていたキーボード奏者のビリー・プレストン、
ドラマーのジム・ケルトナーとアンディ・ニューマーク、そしてトランペッターのチャック・フィンドレーらがいた。
74年ツアーの残りのバンド・メンバーは、サックス奏者のトム・スコットと、ジム・ホーン、
そしてギタリストのロベン・フォード。
その全員がLA・エクスプレスでスコットと一緒にやっており、3人共ジョージのアルバム『Dark Horse』に参加していた。

この時のツアーは、後に<ダーク・ホース>ツアーとして知られるようになった。
ジョージは自身が新たに立ち上げた同名レーベルを通じてラヴィと契約しており、26公演に渡って行われた
このツアーでは、ツアー終盤に発売された新作の曲も幾つか演奏されている。
だがこれは、ジョージにとって幸せな時間ではなかった。
彼はツアー中ずっと咽頭炎に苦しんでおり、毎晩ハチミツと酢とぬるま湯を混ぜた物でうがいをして症状の緩和に努めていた。
1日2公演を行った日が数多くあったという事実も、状況の改善には役立たなかった。

ポーランド公演はキャンセルを余儀なくされたものの、咽頭炎によって制約が生じたにも拘らず、
ジョージとバンドはツアー中ずっと、堂々たる演奏を披露し続けていた。
このツアーが一部から批判を受けたことにジョージは不快感を覚えたが、そんな批判がなされたのは、
驚くほど高い期待を事前に抱いていた人々がいて、簡単には得られないものを望んでいたためだと思われる。

アルバム『Dark Horse』の制作は、1973年11月、フライアー・パークの自宅で始まった。
セッションでは当初『Living In The Material World』に参加していたのと同じラインナップのミュージシャンを起用。
つまり、リンゴ・スター、ジム・ケルトナー、クラウス・フォアマン、そしてゲイリー・ライトとニッキー・ホプキンスが、
代わる代わるキーボードを担当していた。
この時点でレコーディングされていたのが、「Ding Dong, Ding Dong」と、表題曲の初期ヴァージョン、
そして「So Sad」のベーシック・トラックだ。
1975年3月、ジョージの近隣に住んでいた、テン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リーと、その後間もなくして
ローリング・ストーンに加入するロニー・ウッドが「Ding Dong」にリード・ギター・パートを加えている。

1974年4月、ジョージはロンドンのニュー・ビクトリア劇場で行われたジョニ・ミッチェルのコンサートを観に行った。
彼は、ジョニのバックを勤めていたジャズ・ロック・バンド、LAエクスプレスに感銘を受け、
サックス奏者兼フルート奏者のトム・スコットが率いるこのバンドを、翌日フライアー・パークに招待。
これで、ハリスン、スコット、ロベン・フォード(ギター)ロジャー・ケラウェイ(キーボード)
マックス・ベネット(ベース)ジョン・ゲラン(ドラムス)が揃い、この顔触れでインスト・トラックを録音。
それが後に、アルバムのオープング曲「Hari’s on Tour (Express)」となった。
彼らはまた、 アルバム『Dark Horse』収録の「Simply Shadey」も録音している。
スコットはその後しばらくフライアー・パークに滞在し「Ding Dong」の他、2つの新曲にホーンを被せて録音した。

8月下旬、ジョージは、ビリー・プレストン、スコット、ドラマーのアンディ・ニューマーク、
ベースにウィリー・ウィークスという面々でアルバムに着手。
この全員がツアーに参加する契約もしていた。
彼らがレコーディングしたのは「Maya Love」と「Far East Man」そして「It Is He(Jai Sri Krishna)」だ。
10月上旬、ジョージはLAに飛んでツアーの準備を始めたが、その時彼の声は既に不調に陥っていた。
新しいアルバムを完成させなければならない状況の中、彼は相当なプレッシャーを受けていたのだった。

ジョージはハリウッドのA&Mスタジオを使い、ツアー・バンドと共にサウンド・ステージでリハーサルを行った。
同時に、フライアー・パークでレコーディング済みだった『Dark Horse』の楽曲に、A&Mで録音した
多くのヴォーカルを加えて曲を完成。
ジョージが喉頭炎と診断されたのは、この間のことだ。
スコットによると、ジョージはある晩一人でスタジオに入り、モーグ・シンセサイザー、ドラムス、
エレクトリック・ピアノ、エレクトリック・ギター・パートをアコースティック・ギターに加え
「Bye Bye, Love」を録音したという。

「I Don’t Care Anymore」がレコーディングされたのもこの段階のことで、同曲はアルバムには収録
されなかったものの、米国ではシングル「Dark Horse」のB面となり、その後英国では
「Ding Dong, Ding Dong」のB面に採用された。
結局ジョージは、自宅スタジオで録音した方の「Dark Horse」をボツにし、ツアー・ミュージシャン達と
同曲を録音し直している。

アルバム発表時のレビューは絶賛とは言えなかったが、時間と共に、人々は本作を異なる次元で評価するようになった。
当時のジョージの世界が本作で絶頂期を迎えつつあったのと同時に、素晴らしい何曲かがここに含まれていることに
気づいたからである。
作品発表時のレビューというものは、掲載紙(誌)の締め切りに間に合わせるため、早急に書き上げなければならない
ことが往々にしてありがちだ。
あなたのお気に入りのアルバム・コレクションの中に、購入当初にはその真価に気づかなかった作品が一体何枚あるだろう? 
恐らく沢山あるのではないか。
『Dark Horse』は、そういったアルバムの1つであるはずだ。

ツアーを終え、アルバムを発表したジョージが、1975年1月にフライアー・パークに戻った際、彼はデレク・テイラーに
こう言った。
「飛行機から降りて、家に帰ると、まず庭に行ったんだ。すごくホッとしたよ。 あの時、僕は神経衰弱スレスレだった。
家の中に入ることさえできなかったんだ」
その3ヵ月後、彼はロサンゼルスに戻り、次のアルバム『Extra Texture (Read All About It)』に着手することになる。



ジョージ・ハリスン『EXTRA TEXTURE(邦題:ジョージ・ハリスン帝国)』

不運に見舞われた1974年のツアー後、ジョージは1975年1月、フライアー・パークに帰還。
デレク・テイラーにこう語っている「飛行機から降りて、家に帰ると、まず庭に行ったんだ。すごくホッとしたよ。
あの時、僕は神経衰弱スレスレだった。 家の中に入ることさえできなかったんだ」

その3ヵ月後、新しいアルバムを録音するためロサンゼルスに戻ったジョージ。
それはジョージにとってEMI/アップルからリリースされる最後の作品となった。
またLAでは、自身のレコード・レーベル<ダーク・ホース>や、同社が契約して間もないアーティスト達、
つまりステアステップス、ヘンリー・マカラック、そしてアティテュードらの事務処理も行なっていた。

別のダーク・ホース契約アーティストであるスプリンターが、ロサンゼルスのラ・ブレア・アベニューにある
A&Mのスタジオを予約していたものの、様々な事情からセッションを行うことができなくなったため、
ジョージはその時間をアルバムのレコーディングに使うことにした。
それが後に(正式名称で)『Extra Texture (Read All About It)』となるアルバムだ。
ジョージが長らく抱えてきた感情の発露となった、この作品の制作に手を貸したミュージシャンには、
ゲイリー・ライト、ジェシー・エド・デイヴィス、クラウス・フォアマン、トム・スコット、
そしてジム・ホーンら、数多くの旧友が含まれている。

本作のほぼ全体に参加しているもう1人の旧友が、ドラマーのジム・ケルトナーだ。
彼はカナダのキーボード奏者デヴィッド・フォスターと共にアティテュードを結成していた。
フォスターは『Extra Texture (Read All About It)』で、ピアノ、オルガン、シンセサイザーを担当しており、
「This Guitar (Can’t Keep from Crying)(邦題:ギターが泣いている)」と
「The Answer’s at the End(邦題:答えは最後に)」
「Can’t Stop Thinking About You(邦題:つのる想い)」でストリングスの編曲に貢献。
LAのセッションでは、アティテュードのポール・ストールワースが、ジョージ自身や
フォアマンとベースを分担している。

1975年4月21日から5月7日にかけ、ジョージは書き溜めていた曲のベーシック・トラックを録音。
まず着手したのが「Tired of Midnight Blue(邦題:哀しみのミッドナイト・ブルー)」と
「The Answer’s at the End」だ。 5月31日にジョージはオーバーダブを開始し、
この時、「You(邦題:二人はアイ・ラヴ・ユー)」と呼んでいた曲を再検討することにした。
これは、ロニー・スペクターが夫フィル・スペクターによるプロデュースの下、アップルから
ソロ・アルバムのリリースを計画していた際、1971年2月上旬に録音していた曲だ。
ロサンゼルスでは、ジム・ホーンがサックス・ソロを録音するためスタジオ入りし、他の楽器パートも追加された。
本作には同曲のリプライズで、それにふさわしいタイトルが付けられた
「A Bit More of You(邦題:君を抱きしめて)」も収録されている。

ジョージによるスモーキー・ロビンソンへの豪華なトリビュート曲
「Ooh Baby (You Know That I Love You)(邦題:うー・ベイビー、わかるかい)」と、
「His Name Is Legs (Ladies and Gentlemen)(邦題:主人公レッグス)」では、
サックス奏者トム・スコットに加え、ジョージのツアー・バンドの一員だった
トランペッターのチャック・フィンドリーが、ホーンのオーバーダブに参加。
曲題にある“Legs”は、1960年代に活躍し、コメディ・チームのモンティ・パイソンらにも
多大な影響を与えた、ボンゾ・ドッグ・バンドのドラマー“レッグス”ことラリー・スミスを指す。
この曲のベーシック・トラックは、前年に行ったアルバム『Dark Horses』のセッション中に
フライアー・パークで録音されたものだ。

スモーキーにインスピレーションを受けたジョージの曲は、思ったほど、本作の残りの大半の曲からかけ離れた
トラックにはなっていない。
『Extra Texture』は、ジョージの“ソウル・アルバム”であり、彼が魂(ソウル)をさらけだしていると同時に、
この時点までのキャリアで手掛けてきたソロ曲との大半と比べ、よりソウルフルなアプローチを取っている。
本作は、所々メランコリックである一方、時の試練に耐え得る非常に美しいアルバムでもある。

本作において、フライアー・パークにあるジョージの家にインスピレーションを受けた
「The Answer’s at the End」より美しい曲は恐らく他にないだろう。
オックスフォードシャー州ヘンリー・オン・テムズにあるヴィクトリア朝ゴシック様式のその邸宅は、
1890年代、ロンドン市の弁護士で顕微鏡愛好家のフランク・クリスプによって、13世紀の修道院の跡地に建設された。
家のインテリア・デザインと庭園の両方に、クリスプの奇抜な発想や風変わりな嗜好が反映されており、
庭の塀の入り口上部に次のような碑文が刻まれているのをジョージは見つけた。
「友人を顕微鏡で注意深く調べてはいけない。彼の短所は分かっているのだから、些細な欠点など受け流すことだ。
友よ、人生は一つの長い謎である。だから、読んで、読み通すのだ、答えは最後にある」

(ビートルズが崩壊へと向かっていた辛い時期、恐らくジョージが心に留めていたであろう)
このような胸を打つ文章を見つけ出すということと、その文にこんなにも素敵なメロディーを付けるということは、
全くの別物だ。
このトラックは、デヴィッド・フォスターが手掛けた素敵な弦楽アレンジから多大な恩恵を受けているが、
それ以上に効果を発揮しているのが彼の華麗なピアノ演奏である。
ジョージにとって最大の隠れた名曲ではないだろうか?

「This Guitar (Can’t Keep from Crying)」は、1974年の北米ツアーで受けた批判に応える形で
ジョージが書いた曲で、1975年12月にシングルとしてリリースされたが、これほど良い曲にも拘らず、
驚いたことチャート入りを果たせなかった。
「While My Guitar Gently Weeps」と比較されることはほぼ避けられず、ジョージが1968年に発表した
そのアンセム曲の水準に達していなくても驚くほどのことではない。
だが想像してみてほしい、もし「While My Guitar…」が存在していなかったどうだっただろう? 
「This Guitar」はきっと、全く違った見方をされていたはず。これはそれほど優れた曲だからだ。
この曲もフォスターのピアノ演奏と弦楽アレンジのスキルから恩恵を受けている。
ジョージのスライド・ギターが前面に押し出されているが、それ自体『Extra Texture』では稀なことだ。

ジョージは1992年「This Guitar (Can’t Keep from Crying)」を、この曲でエレクトリック・ギターを
弾いているデイヴ・スチュワートのためにデモとして再レコーディング。
その10年後、スチュワートのプロジェクト『Platinum Weird』のために、リンゴがドラムを重ね、
ダーニ・ハリスンがギターを、カーラ・ディオガルディがヴォーカルを加えた。
それが本作のリマスター盤にボーナス・トラックとして収録されている。

「Can't Stop Thinking About You」もまたソウル・ソングで、この曲を“ポップ”だと
退けてしまう人もいるが、それは的外れだ。
ポップであることに何ら問題はないし、この曲にも問題など何一つない。
この曲にはソウル的な感覚が漂っているにも拘らず、どこか『All Things Must Pass』を思わせる
ハーモニー・コーラスとバック・コーラスがあり、やはり典型的なジョージの曲だ。
恐らく最も驚くべきは、この曲がシングルとしてリリースされなかったことだろう。

その他、誰もが納得のシングル「You」は、アルバム発売の2週間前にリリースされた。
英国ではBBCレディオ1の“今週のイチ押しシングル”に選ばれたにも拘らず、全英チャートで最高位38位に留まった。
米国では、全米チャートのトップ20に2週間ランクインしている。
「You」には、カール・レイドルとジム・ゴードンが参加しており、1971年2月にレコーディング。
その後間もなくして彼らは、デレク&ザ・ドミノスの2作目に着手したが、そのアルバムはお蔵入りとなった。

米国では1975年9月22日に、そして英国ではその2週間後にリリースされた
『Extra Texture (Read All About It)』は、世間一般から称賛を受けることはできなかった。
むしろその真逆だったと言える。
世の中の人々も批評家も、ジョージ・ハリスンのあらゆる作品に対して高い期待を抱いており、
殆ど大抵の場合、彼らは判断の基準を、レビュー執筆時に聴いているものにではなく、過去の作品に置いていた。
また批評家達には、対処しなければならない問題がもう一つある。つまり、聴き込み不足の問題だ。
編集者は短時間でレビューを大量生産する必要があり、その音楽に必要な聴き込み込みレベルに達していなくても、
急いでレビューを書かなくてはならないのだ。
このアルバムも例外ではない。
本作は晩成型であり、1970年代という不思議な年代の中盤に活躍していた、同時代のアーティストの作品の
数々と比べても、遥かに時の流れに耐え得るアルバムであることが証明されている。
本作はそれでも尚、全米チャートで8位を記録、全英でも16位となった。

もしあなたがこのアルバムを見落としていたとしたら、試しに聴いてみても決して失望することはないはずだ……。
そして憶えておいていただきたい、1度聴いただけでは決して十分ではないことを。




ジョージ・ハリスン『Thirty Three & 1/3』


1974年9月、ジョージ・ハリスンのレコード・レーベル<ダーク・ホース>から、最初の2枚のシングルがリリースされた。
その1枚目となったのが、ラヴィ・シャンカールの「I Am Missing You」だ。
ハリスンがプロデュースとアレンジを手がけた同シングルは、シャンカールには珍しく西洋のポップ・スタイルの曲となっている。
同日リリースされたもう1枚のシングルは、オーストラリアと南アフリカでトップ10入りを果たし、
全英ではトップ20入りしたスプリンターの「Costafine Town」であった。

それから2年後、他レーベルとの契約上の義務が終了し、アップル・レコードが段階的な縮小を行っていたのに伴って、
ジョージは自身のレーベルと契約。
その数年の間に、ダーク・ホースからは、ステアステップス、ジーヴァ(ウィングス脱退直後の)ヘンリー・マカロック、
そしてアティテュードというバンドの作品がリリースされている。
ハリスンの1975年のアルバム『Extra Texture (Read All About It)』の際に結成されたアティテュードには、
キーボード奏者のデヴィッド・フォスターが在籍。
彼はジョージのダーク・ホース移籍第1弾アルバム『Thirty Three & 1/3』にも参加している。

ジョージにとって通算7作目のソロ・スタジオ・アルバムとなる本作は、1976年5月下旬から9月中旬までの間に、
彼の自宅であるフライアー・パークで録音され、2ヶ月後の11月19日にリリースされた。

このアルバムの制作に着手した直後、ジョージは肝炎に感染。夏の盛りの間中、殆ど仕事ができない状態に陥った。
鍼灸や他の非伝統的治療法のおかげで健康を回復した後、ジョージはすぐにアルバムを完成。
本作のタイトルには、彼の年齢とLPレコードの回転数の両方が反映されている。

本アルバムに参加している他のミュージシャンは、ベーシストのウィリー・ウィークス、ドラマーのアルヴィン・テイラー、
キーボード奏者のリチャード・ティーとデヴィッド・フォスター、ジャズ・パーカッショニストのエミル・リチャーズら、
全員がアメリカ人だ。
ジョージはまた、彼の長年の音楽仲間であるゲイリー・ライトとビリー・プレストンの2人にキーボードを演奏してもらっている。 その他、ジョージとしばらく前から一緒に仕事をしているホーン奏者のトム・スコットも参加。
メイン・プロデューサーであるジョージの補佐として、彼が本作のプロデュースをアシストしたことがクレジットに記されている。

本作収録曲の1つ「See Yourself」は、ジョージが1967年に書き始めた曲だ。
長年温めていた曲はこれだけではない。
「Woman Don’t You Cry for Me(邦題:僕のために泣かないで)」と「Beautiful Girl」は両曲共、
1960年代後半にその起源が遡る。
アルバムのオープニング曲でもある前者は、彼がデラニー&ボニーとツアーを行っている最中に思いついたものだ。
この曲はジョージのスライド・ギターが特色となっており、自身よりも有名なこのバンド・メンバーに
スライドを演奏するというアイディアを授けたのは、デラニー・ブラムレットであった。
「See Yourself」と「Dear One」は、どちらも『あるヨギの自叙伝』(原題:Autobiography of a Yogi)の
著者であるパラマハンサ・ヨガナンダに触発されて書いた曲だ。
ジョージは1966年9月のインド訪問時に、この本を読んでいた。

新曲の中には「This Song」と題されたものがある。
これは「My Sweet Lord」とシフォンズの「He's So Fine」の類似性に関し、盗作の告発を受けて
訴訟問題に発展したこと、そしてその時の苦難に対するジョージの音楽的な見解となっている。

「Crackerbox Palace(邦題:人生の夜明け)」は、1976年初め、ジョージがコメディアンの
ロード・バックリーのマネージャーだった人物と出会った時の話を元に書かれた曲だ。
“ジョージのソウル・アルバム”とも呼ばれている本作で、特に際立っているのが、
優美な「Pure Smokey」であるという意見は数多い。
スモーキー・ロビンソンに捧げられたこの曲は、 モータウンの伝説的存在の功績を讃える繊細かつ
美しいバラードとなっており、ジョージの最も素晴らしいギター・ソロのうち2つがフィーチャーされている。

『Thirty Three & 1/3』のリード・シングルは「This Song」で、そのB面に選ばれたのは、同じく本作収録の
華やかな「Learning How To Love You(邦題:愛のてだて)」だった。
英国向けシングル「It’s What You Value」には、B面としてオープニング曲「Woman Don’t You Cry For Me」を収録。「It’s What You Value」は、ドラマーのジム・ケルトナーが1974年にジョージとツアーを行った際、
ギャラを現金で支払ってもらう代わりに、メルセデス・ベンツのスポーツカーの新車が欲しいと求めた後で書かれたものだ。

このアルバムにはカヴァーも1曲収録されている。それは、ビング・クロスビーが映画『上流社会』(原題:High Society)で歌ったことで有名になった、コール・ポーターの曲「True Love」だ。

『Thirty Three & 1/3』は 、米国での売り上げが『Dark Horse』と「Extra Texture』の両作を上回り、
全米チャートで最高位11位を記録。
一方、楽曲の質の高さをを考えれば理解しがたいことではあるが、英国では最高位35位に留まった。
だがよく考えてみれば、ジョージが本作のレコーディングを終了した2日後に、あのパンク・フェスティバルが
ロンドンの100クラブで開催されたのだ……音楽の時勢は変化の真っ只中にあった。

「This Song」と「Crackerbox Palace」は、全米チャートでそれぞれ最高位26位と19位を記録。
英国でリリースされた3枚のシングルは、いずれもチャートインを果たせなかった。

本作発表時、米ビルボード誌は「ラヴ・ソングとご機嫌なジョークが満載の、明るく元気なこのアルバムは、
恐らくジョージのソロ・キャリア全体の中で、最も野心が控えめな、最も楽しげで、そして最も商業路線寄りの
アルバムだろう」と評していた。それに異議を唱えることは不可能である。
同時期の他のレビューはそこまで寛容ではなかったが『Thirty Three & 1/3』は、時代を経ると共に味わいを深めた作品だ。
本作には穏やかさがあり、聴き手を魅了する内省性がある。
回顧的な評論家の1人が近年語っていた通り“壮麗な「Dear On」”は、このアルバムの“数え切れない名曲”のうちの1つ。
本作は上等なワインのように、年を重ねる毎に良さを増すアルバムなのだ。




































ジョージ・ハリソン アルバムストーリーVol.1

2019年02月27日 | The KanLeK...
『WONDERWALL MUSIC(邦題:不思議の壁)』

ジョージ・ハリスンがインド音楽に興味を持ち始めたのは1965年。
その年の12月に録音した
「Norwegian Wood(This Bird Has Flown)(邦題:ノルウェーの森/ザ・ビートルズの楽曲)」を
聴けば、彼がそこでシタールを弾いているのが分かる。
シタールに対するジョージの関心が高まったのは、ビートルズが映画『ヘルプ!』を撮影している間のことで、
彼らはあるシーンをインド料理レストランで撮った。
撮影が終了してから程なくして、アメリカ・ツアーに向けてビートルズがロサンゼルスに滞在していた際、
ジョージはザ・バーズ(The Byrds)に会い、ラヴィ・シャンカールのアルバム『Portrait of a Genius』を
聴くように勧められた。
ジョージ曰く、「そのアルバムをかけたら、自分の中の、どこか言葉では説明できないツボを突かれたんだ。
でも自分にとって、すごく馴染みのあるものに思えたんだよ」

その後、ジョージはロンドンでシャンカールと会い、1966年9月半ばにはボンベイに飛んで、
タージ・マハル・ホテルに滞在。
翌月の殆どを、そのインド人熟練音楽家からシタールのレッスンを受けて過ごした。
1967年3月、ジョージはロンドン・エイジアン・ミュージック・サークルのメンバーである4人の
インド人ミュージシャン達と共に『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』収録の
「Within You, Without You』をレコーディングする。

1967年後半『ヘルプ!』のセットでビートルズに会っていた映画監督ジョー・マソットは、
当時彼が制作していた映画の音楽を作曲しないかと、ジョージに持ちかけた。
これが後に『ワンダーウォール』と呼ばれる映画である。
マソットは当初、アイルランドの俳優ジャック・マッゴーランが演じる孤独な教授を主人公にした
その映画の音楽を、ビー・ジーズに担当してもらおうと考えていた。
この教授は、隣に引っ越してきたジェーン・バーキン演じるヴォーグ誌モデルのペニー・レインという
美女に目を奪われ、彼女に執着するという役柄だ。

好きなものを何でも好きなように作曲して良いという、芸術的自由を完全に与えられたジョージは、
西洋のリスナーにインド音楽をより深く知ってもらうチャンスをつかんだ。
彼は様々なインドの楽器のための曲を作曲。
その楽器とは、例えばオーボエのようなシャハナーイ、リュートに似たサロード、最大100本の弦を持つ
ハンマード・ダルシマーの一種であるサントゥール、そしてもちろんシタールだ。
このサウンドトラックを完成させるため、彼はより伝統的なロック&ポップを土台にした曲も書いている。
クラシック音楽の教育を受けたピアニストであり編曲家のジョン・バーラムとコラボレーションを行い、
バーラムはジョージが彼に歌って聴かせたものを楽譜に書き起こした。
ジョージ同様、バーラムもインド伝統音楽の愛好者であった。
ジョージによれば「僕はネジ巻き式ストップウォッチを持っていて、それを片手に映画を見ながら、
音楽を入れる“目印”を計った。その計時をノートに書き付けて、その後スタジオに行き、
曲を書いて、それを録音したんだ」

そのスタジオとはアビイ・ロードのことで、『Wonderwall Music』のレコーディングは
1967年11月22日に開始。
さらに同じくロンドンのディ・レーン・リー・スタジオで、追加のセッションが行われた。
1968年1月、ジョージはボンベイに赴き、HMVスタジオでインド音楽の残りの部分を録音。
インドのスタジオはロンドンと比べるとやや原始的で「In the Park」を含む何曲かでは、
車が通りを行き交う雑音が微かに聞いて取れる。

ボンベイにいる間に、ジョージはビートルズのシングル「Lady Madonna」のB面となった
「The Inner Light」のバッキング・トラックも録音している。
最終的なオーバーダブを行うため、英国に戻り、このサウンドトラック・アルバムの作業は
2月15日までに全て完了した。
その後、ジョージとジョン・レノンは、それぞれ妻を伴って、マハリシ・マヘシュ・ヨーギのもとで
超越瞑想を学ぶため、インドへと向かった。

インド人ミュージシャン勢とジョン・バーラムに加え、このサウンドトラック・アルバムで
中心的な役割を果たしていた西洋音楽のミュージシャンは、ブライアン・エプスタインが
マネージャーを務めていた、ザ・リモ・フォー(The Remo Four)というリバプールのバンドだ。
彼らは、ギタリストのコリン・マンリー、キーボードのトニー・アシュトン、ベースの
フィリップ・ロジャース、そしてドラマーのロイ・ダイクの4人組。
マンリーはポール・マッカートニーの中学時代の同級生だった。
アシュトンとダイクは後に、ギタリストのキム・ガードナーと組み、アシュトン、ガードナー&ダイクを結成する。
ガードナーはザ・クリエーションの元メンバーで、以前はロニー・ウッドと共に、ザ・バーズ(The Birds)で
活動していた。
ディープ・パープル解散後の1977年、アシュトンは(元ディープ・パープルの)イアン・ペイスおよび
ジョン・ロードに加わり、ペイス、アシュトン&ロードを結成する。

リンゴ・スターとエリック・クラプトンの両名が参加している「Ski-ing」では、他にモンキーズの
ピーター・トークがバンジョーを演奏している。
この曲でファジーなブルースのギター・リフを弾いているエリック・クラプトンは、
当時まだクリームのメンバーで、本プロジェクトへの参加は彼にとって、ジョージとの最初の
コラボレーションとなった。
——その後、二人のコラボが数多く行われたことは言うまでもない。
また、BBCテレビの『Dixon of Dock Green』のテーマ曲を吹いていることで最もよく知られている
ハーモニカ奏者のトミー・ライリーが、西洋ミュージシャン勢の一角を占めている。

1968年5月17日、ジョージはカンヌ映画祭で行われた『ワンダーウォール』のプレミア上映に出席。
映画製作者側がサウンドトラックの版権取得に失敗した後、ジョージはアップルを通じ、
1968年11月にアルバム『Wonderwall Music』をリリースした。
これはビートルズが新たに設立した同レーベルからの最初のアルバム・リリースであると同時に、
ビートルズのメンバーによる初のソロ・アルバムとなった。
- Richard Havers
          

           
『ELECTRONIC SOUND(邦題:電子音楽の世界)』



ジョージ・ハリスンのボックス・セット『George Harrison The Apple Years』の序説で、
ケミカル・ブラザーズのトム・ローランズは「このアルバムは……僕のスタジオの壁に掛かっている。
モーグ・モジュラーのすぐ横に飾ってあり、僕の脳に向けて真っ直ぐにインスピレーションのビームを
発しているのだ」と語っている。
ローランズが本作の中古盤LPを購入したのは1990年代半ば、日本のレコード店を訪れた時で、
そこから聴こえてくる音に驚かされたという。

1968年11月から1969年2月にかけて録音した、ジョージの『Electronic Sound』が発表されたのは、
1969年5月のこと。本作は、ビートルズのアップル・レコード傘下のサブ・レーベル<ザップル(Zapple)>から
リリースされた、2作目かつ最後のアルバムとなった。
ジョージが自らの時代に先んじていたこと、そして数多くの面において、ビートルズの4人のメンバーの中で
彼が最も音楽的に探究心旺盛であったことが、本作でさらに証明されている。

『Electronic Sound』は、モーグ・シンセサイザーで演奏されている2つの長尺曲で構成されており、
元々はLPの各面に1曲ずつ収録されていた。ここで用いられているモジュラー・シンセ <Moog III-C>は、
ジョージがその発明者であるロバート・モーグから購入したものだ。
本作の制作の背景にあるのは、1968年のロンドンとロサンゼルスならではの音楽的探究心だ。
つまりそれは、アヴァンギャルドが至る所で溢れかえっていた時代であった。

先に録音されたのは、アルバムのB面「No Time or Space(邦題:超時間、超空間)」の方で、
1968年11月にロサンゼルスでレコーディングが行われた。
ジョージは『The Beatles (White Album)』での作業を既に終えていて、ジャッキー・ロマックスが
アップルからリリースするアルバム『Is This What You Want?』をハリウッドの
サウンド・レコーダーズ・スタジオで録音するため、米西海岸に飛んでいた。

ロマックスのアルバムは、モーグを特色としていた。
そのモーグは、バーニー・クラウスが同スタジオに持ち込んでいたもので、彼は音楽的パートナーの
ポール・ビーバーと『The Nonsuch Guid to Electronic Music』というアルバムを制作しており、
ロバート・モーグによる発明品の“セールスマン”のような役を務めていた。
そのロマックスのアルバム制作の後を受け、ジョージはクラウスの助けを借りて、この25分間の曲を録音した。

LPのA面「Under the Mersy Wall(邦題:マージー壁の下で)」は、リバプールの基盤である
マージー川に言及した18分の作品で、1969年2月、英サリー州エッシャーにあるジョージの
自宅<キンファウンス>で録音が行われた。
このタイトルは、同姓同名の別人ジョージ・ハリスン(親族関係なし)が日刊紙リバプール・エコーで
週1回連載している「Over the Mersey Wall」と題したコラムも参考にしている。
本曲のホワイト・ノイズは、1970年の『All Things Must Pass』に収録されている
ジャム・セッション曲の1つ「I Remember Jeep」で使用された。

アルバムのジャケットとなっているのは、ジョージ自身が描いた絵画だ。
何年も経った後、彼の息子ダーニは、ヘンリーの自宅の壁に立てかけたまま放置状態にあったこの絵を、
自分のベッドルームに飾りたいので貰えないかと父親に尋ねた。
数年後、ジョージはダーニに、この絵の意味について説明している。
「皆にのし掛かっているアップル社のあらゆる深刻な状況や問題をデレク(テイラー)が掴んだまま離さずにいる。
顔をしかめているのがニール(アスピノール)で、椅子に座って笑っているのがマル(エヴァンス)だ。
右側にいるのはエリック(クラプトン)。
そして蝶ネクタイとポケットチーフを身につけている正面の緑の男がバーニー(クラウス)で、
ボードを通してあらゆるものにパッチを当てているんだ。
お茶を淹れているのが僕(小さな青い顔で笑っている)だよ。
前面の小さな緑色の悪魔みたいなやつが、猫のジョスティックだ」

本アルバムとジョージのモーグ自体が、ビートルズ物語において重要な役割を果たしている。
このモーグは1969年夏にアビイロード・スタジオに持ち込まれ、ビートルズのアルバム『Abbey Road』で用いられた。
ジョージは後にこう回想している。
「このモーグ・シンセサイザーは巨大で、何百ものジャック/プラグと鍵盤2台を備えていた。
こいつを所有しているということと、うまく動作させるということは、別問題だったんだよ。
例えば「Here Comes The Sun」のような曲のサウンドを聴くと、幾らか良い仕事をしてはいるけれども、
全くもって初期段階のタイプの音なんだ」

『Electronic Sound』は、ジョージが強烈な独創性を発揮していた時代、ありとあらゆることが可能だった
世界で制作された、ひとつの音楽的記念碑である。
          

          

『ALL THINGS MUST PASS』


“名作アルバム”という言葉は、ロック・ミュージック黄金時代のアルバムを描写する際に、
あまりにも多く使われている用語だ。
実際、ある人にとっての名作が、別の人にとっては長い間忘れていたアルバムであったりするものだが、
ジョージ・ハリスンの『All Things Must Pass』は正に“名作”の1枚であると、矛盾を恐れることなく思う……。

“難しい3作目のアルバム”という古い格言が音楽業界にはあるが、本作はジョージにとって3作目の
ソロ・アルバムでありながら、困難とは程遠いことが分かる。
1970年11月27日、本作が3枚組アルバムとして最初にリリースされた際‘ローリング・ストーン’誌の
ベン・ガーソンは、そのサウンドを「ワーグナー調、ブルックナー風、山頂と広大な地平線の音楽」と描写ししていた。
それに異議がある者がいるだろうか?

『All Things Must Pass』の起源は、1968年11月にジョージがアメリカを訪問した時に遡る。
その時、彼はウッドストックに滞在していて、ボブ・ディランと長きに渡る友情を築いていた。
それはちょうど、ビートルズ内外でジョージが精力的に曲作りに取り組み、自信を深めるようになっていた時期だ。
1969年初めにはクリームのアルバム『Goodbye』で、ジョージはエリック・クラプトンと「Badge」を共作している。

1969年にアップル・レコードと契約したビリー・プレストンやドリス・トロイの作品に携わった他、ジョージは
デラニー&ボニーのツアーにも参加。
このツアーには他に、エリック・クラプトン、レオン・ラッセル、デイヴ・メイソン、ボビー・ウィットロック、
カール・レイドル、ジム・ゴードンらが加わっている。
こういった経験の全てが、ゴスペルの要素や、後に広く流行して“アメリカーナ”と呼ばれるようになる音楽と並び、
ジョージの作詞作曲に影響を与えるようになった。

ジョージの精神的な旅路は、ハーレクリシュナ運動にも向かっていった。
これもまた、やがて『All Things Must Pass』を構成する音のジグソーパズルにとり、重要なもう1つのピースとなる。
1969年2月25日、26歳の誕生日に、ジョージは「All Things Must Pass」のデモと共に
「Old Brown Shoe」および「Something」のデモを録音。
後者2曲はビートルズでレコーディングされたが、何がしかの理由で「All Things Must Pass」は
レコーディングに至らなかった。
この美しい曲は『道徳経』第23章の一部の翻訳を基に書かれたものだ。
「すべては過ぎ去っていく/日の出は朝の間ずっと続くわけではない/すべてが過ぎ去っていく/
土砂降りは一日中ずっと続くわけではない」。
その1ヶ月前にも、ジョージは『All Things Must Pass』の中で特に傑出したもう1つの曲「Isn't It A Pity」
のデモを制作していたが、同曲もまた、なぜかビートルズのアルバムには収録されなかった。

1970年初め、ジョージは自身が書き溜めていた曲のデモを、プロデューサーのフィル・スペクターに聴かせた。
具体的には「Isn’t It A Pity」や「Art of Dying」等、古くは1966年に書かれた曲もあり、
また1968年後半のウッドストック滞在中にボブ・ディランと書いた「I’d Have You Anytime」も
そこに含まれていた。
アルバム『Get Back』のリハーサル中、ジョージは「All Things Must Pass」や「Hear Me Lord」、
そして美しい「Let It Down」といった曲をビートルズの他のメンバーに聴かせて興味を引こうとしたが、
ありがたいことに、彼らはそれを“ビートルズ的な曲”とは見なさなかった。
「Wah-Wah」と「Run of the Mill」の2曲は1969年初頭に書かれたもので、一方「What Is Life」は、
ビリー・プレストンがアップルからリリースしたアルバム『That’s The Way God Planned It』を
制作していた時、ジョージが共に取り組んでいた際に生まれた曲である。
「Behind That Locked Door」は1969年の夏、ディランがワイト島フェスティバルのステージに立つ直前に
書かれたものだ。
壮大な「My Sweet Lord」は1969年後半、デラニー&ボニーとのツアー中、ジョージがコペンハーゲンで書いた曲である。

デラニー・ブレムレットがジョージにスライドギターを弾くように頼んだのは、そのツアー中のことだった。
ジョージによると「デラニーは僕にボトルネック・スライドを渡して、デイヴ・メイソンが「Comin'Home」で
弾いていた一節を弾くよう頼んできたんだよ」それはデイヴ・メイソンがツアーから降りて間もない頃のことであった。
ジョージは「I Dig Love」でスライドギターの初期実験を行っており、そこで独自の音を生み出している。

その他『All Things Must Pass』の収録曲は「Awaiting on You All」や、ジョージの自宅フライアー・パークの
元々の所有者に捧げた「Ballad of Sir Frankie Crisp (Let It Roll)」そして「Beware of Darkness」などを含め、
1970年前半に書かれたものだ。 本作のセッションが始まる少し前、ジョージはニューヨークでボブ・ディランの
レコーディング・セッションに参加していた。
そこで「If Not for You」を聴いたジョージは、逆にインスピレーションを受け、『All The Things Must Pass』の
セッションが終わりに近づいた頃、ディラン風の「Apple Scruffs」を書き上げた。
「Apple Scruffs」は、ビートルズのメンバーに会えることを願いつつ、アップル社のオフィスや
アビイ・ロード・スタジオの外をうろついている女の子達に捧げた曲である。

本作のレコーディングが開始されたのは、1970年5月後半のこと。
ビートルズのアルバムに自身の曲が収録されないことが、ジョージの中では大きなフラストレーションとなっていたため、
これほど多くの曲が『All Things Must Pass』に収録されていることも、ほとんど驚くには当たらない。
オリジナルの3枚組LPの3枚目には『Apple Jam』というタイトルが付けられ、全5曲収録のうち4曲、
つまり「Out of the Blue」「Plug Me In」「I Remember Jeep」「Thanks for the Pepperoni」が、
スタジオ内で行われてたインストのジャム・セッションとなっている。

ジョージによれば「このジャム音源に関しては、お蔵入りにはしたくなかったんだが、同時にアルバムの一部でもなかった。
それでレーベルも別物にし、一種のボーナス・ディスクとして封入したんだ」とのこと。
5曲目の「It's Johnny's Birthday(邦題:ジョニーの誕生日)」はジョン・レノンの30歳の誕生日を祝うプレゼントで、
クリフ・リチャードの「Congratulations」に乗せて歌われている。

『All The Things Must Pass』の音は非常に大きく、どのトラックに誰が参加しているのか、
明確にするのが困難なことがある。
前述のミュージシャン達に加え、本作にはリンゴ・スターやビリー・プレストン、そしてビートルズの
『Revolver』のアルバム・ジャケットを手がけたドイツ人ベーシストのクラウス・フォアマンの他、
アップル所属バンドのバッドフィンガーのメンバー達がアコースティック・ギターで参加し、
サウンド・エフェクトの壁を築く手伝いをしている。
キーボードを担当しているのは、ボビー・ウィットロックとゲイリー・ライト。
後者はスプーキー・トゥースの元メンバーで、1970年代後半にはアメリカで大きなソロ・ヒット曲を幾つか飛ばしていた。
その他、キーボード奏者として『Wonderwall Music』にも参加していた、トニー・アシュトンとジョン・バーラムの
両者が加わっている。

ドラマー陣には、後にイエスに加入する、プラスティック・オノ・バンドのメンバー、アラン・ホワイトが参加している他、
ジェネシス加入前のフィル・コリンズがコンガを担当、ジンジャー・ベイカーはジャム曲「I Remember Jeep」で
演奏している。
その他、ナッシュビルのペダル・スティール奏者ピート・ドレイクやプロコル・ハルムのゲイリー・ブルッカーらといった
ミュージシャン達が含まれていた。

エリック・クラプトン、ボビー・ウィットロック、ジム・ゴードン、カール・レイドルは1970年6月14日、
ロンドンのストランド地区にあるライシアム・シアターでの公演に出演。
ステージに上がる直前に、バンド名をデレク&ザ・ドミノスとすることに決めた。
その日、彼らはアビイ・ロード・スタジオで『All Things Must Pass』のセッションを行っており、
その際に「Tell The Truth」を録音。
同曲は1970年9月に、デレク&ザ・ドミノスのファースト・シングルとなった。
このシングルのB面は「Roll It Over」で、これも6月25日に行われた『All Things Must Pass』の
セッション中にレコーディングされたものである。
ここにはジョージの他、トラフィックのデイヴ・メイソンがギターとヴォーカルで参加している。

当初ジョージは、このアルバムを録音するには2ヶ月程しかかからないだろうと考えていたが、
結局セッションは5ヶ月間続き、終了したのは10月下旬であった。
このレコーディング中、ジョージの母親は癌で闘病しており、彼女を見舞うため、ジョージは頻繁に
リバプールに足を運ぶ必要があった。 ジョージの母親が亡くなったのは、1970年7月のことであった。

プロデューサーとして、フィル・スペクターは少々信頼性に欠けていたため、ジョージはプロダクション作業の大半を
自分で手掛けることにした。
アルバムの最終的なミキシングは、10月末、フィル・スペクターと共にニューヨークで開始。
ジョージはスペクターの仕事に完全に満足していたわけではなかったが、それでも本作の輝きが失われることはない。
トム・ウィルクスが3枚のLPを収めるボックスのデザインを担当、フライアー・パーク前の芝生でジョージが
4体のノーム人形に囲まれて座っている象徴的な写真を撮影したのは、バリー・ファインスタインだ。

レコーディングが開始された時点では10月のリリースが予定されていたが、種々の遅れにより、
米国での発売は英国から3日後、1970年11月27日となった。
1人のアーティストによる初の3枚組アルバムとなった本作は、世界各国のリスナーを魅了。
12月19日付の全米アルバム・チャート(ビルボード)にランクインを果たした後、年明け1971年の第1週から7週間、
首位の座を維持し続けた。
英国では“公式”の全英チャートでは最高位4位だったが、NME誌のアルバム・チャートでは7週間1位を記録。
本アルバムからのリード・シングル「My Sweet Lord」は英米両国でシングル・チャート1位を獲得しベスト・セラーとなった。

やがて時代が降るにつれ、この驚異的なアルバムはファンにより一層愛されるようになった。
本作は、1960年代から1970年代にかけ、音楽をあれほどまでに活気づけたのは何だったのか、
それについて多くを物語っているようなアルバムだ
素晴らしい歌詞の数々は、当時重要な意味を持っていただけでなく、今日でも人々の共感を呼び起こす。
この先数十年に渡り、新たな世代の音楽ファンが過去を振り返った時、本アルバムは神秘的な地位を占める作品となるはずだ。
その制作の過程について説明している文章を読めるということと、実際にこのアルバム聴きながら、その音に包み込まれ、
心地よい響きを味わい、今生きている場所がより良い世界だと感じさせてもらえることは、全くの別物である。

『All The Things Mus Pass』は、ジョージの精神的な高まりが表現された真の名作であり、紛れもなく、
音楽史上最高のアルバムの1枚、いや2枚、いや3枚である。- Richard Havers
        

        

           

『CONCERT FOR BANGLADESH

1971年8月1日、ライヴ・エイドが開催される14年前のこと、ジョージ・ハリスンは、友人であり師である
ラヴィ・シャンカールと、そしてその他の多くのスター達と共に、それまで成し遂げられたことのない、
あるいは試みられたことすらなかった何かを成功させた。
つまり、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで2度に渡って開催された
チャリティ公演『The Concert for Bangladesh』(バングラデシュ・コンサート)である。

かつて“東パキスタン”と呼ばれていたバングラデシュでは、1970年に上陸したボーラ・サイクロンによる被害と
“独立戦争”の影響で、何百万人もの難民が飢えに苦しんでいた。
その窮状について、シャンカールから教わったジョージは、深く心を動かされた。
このコンサートの5日前に当たる7月27日、ジョージはアップル・レーベルからシングル「Bangla Desh」をリリース。
世界的に有名な元ビートルズの一員にしか出来ないやり方で、この人道的危機に世界の注目を集めたのであった。
同シングルのリリース当日、ジョージとラヴィ・シャンカールは記者会見を開き、数日後に大掛かりなコンサートを
開催することを発表した。

ニューヨークでのリハーサルを経て8月1日、マンハッタンに集まった4 万人以上の観衆を前に、
午後2時30分と夜8時の2回に渡って開催されたこのコンサート。
観客は、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、シャンカール、レオン・ラッセル、リンゴ・スター、
ヒンドゥスタン人音楽家のアリ・アクバル・カーン、ビリー・プレストン、クラウス・フォアマン、
ボビー・ウィットロック、ドン・プレストン、ジェシー・エド・デイヴィス、カール・レイドル、
そして アップル所属バンドのバッドフィンガーらを含む、錚々たる出演者の演奏に酔いしれた。

この日のコンサートは、本アルバム同様、ラヴィ・シャンカールと、サロード奏者アリ・アクバール・カーン、
タブラ奏者アラ・ラカ、そしてタンブーラ奏者カマラ・チャクラバーティによる「Bangla Dhun」で幕を開ける。

それに続いたのが、ジョージに加え、リンゴ(体調不良の)エリック・クラプトン、レオン・ラッセル、
ビリー・プレストン、クラウス・フォアマン、ジム・ケルトナーを始め、その他18人のミュージシャン達だ。
そこで繰り広げられたのは「Wah-Wah」「Something」「Awaiting on You All」や、
ビリー・プレストンが歌う「That’s The Way God Planned It」
リンゴの「It Don’t Come Easy(邦題:明日への願い)」「Beware of Darkness」
そしてジョージとエリック・クラプトンが共演した「While My Guitar Gently Weeps」
レオン・ラッセルはセンター・ステージに立ち、ローリング・ストーンズの「Jumpin’Jack Flash」と
コースターズの「Young Blood」のメドレーを披露した。

それからジョージは2人目のアコースティック・ギターにバッドフィンガーのピート・ハム、
そしてドン・ニックスのゴスペル合唱団を従えて、「Here Comes The Sun」を熱唱。
そして白のフェンダー・ストラトキャスターに持ち替えたジョージはギターのボディにテープで貼り付けた
セットリストに書かれている「ボブ?」という文字に目を遣った。ジョージは次のように語っている。
「見回すと、彼(ボブ)はすごく緊張していた。彼はギターを掛け、サングラスをしていた。
気合を入れようとしているのか、こう(腕と肩を激しく上げ下げする動作を)やっていたんだ……。
彼はやってくれるとようやく確信できたのは、その瞬間のことだったよ」
聴衆は、驚きのあまり一瞬静まり返った後、狂喜に湧き返った。
ディランがアメリカの観客の前に姿を現したのは、5年ぶりのことだったからだ。

ディランのミニ・セットでバックを務めたのは、ジョージ・ハリスンに、レオン・ラッセル
(弾いていたのはフォアマンのベース)そしてリンゴ・スターがタンバリンを担当した。
ディランは5曲を披露「A Hard Rain’s A-Gonna Fall(邦題:はげしい雨が降る)」
「Blowin’ in the Wind(邦題:風に吹かれて)」
「It Takes a Lot to Laugh, It Takes a Train to Cry(邦題:悲しみは果てしなく)」
「Love Minus Zero/No Limit」そして「Just Like A Woman(邦題:女の如く)」だ。
その後、ジョージがバンドと再登場し「Hear Me Lord」「My Sweet Lord」そして「Bangla Desh」を聴かせた。

昼の公演を上回る内容だったと、広く考えられている夜の公演では、演奏された曲や曲順が昼の部とは若干異なっている。
ジョージのミニ・セットは「Wah-Wah」で幕を開け、その次に「My Sweet Lord」を先に披露。
続いて「Awaiting on you All」続いてビリー・プレストンが「That’s The Way God Planned it」を歌った。
夜の部では「Hear Me Lord」が曲目から外されたため、ディラン出演後のセットは「Something」と
「Bangla Desh」のみになっている。
ディランも自身のセットで曲目を少し入れ替え「Love Minus Zero/No Limit」の代わりに
「Mr. Tambourine Man」が演奏された。

コンサート音源のミキシングは、ロサンゼルスのA&Mスタジオで9月に行われた。
アルバムでは昼夜両公演の音源が使用されているが、より評価が高かった夜の部の方が優先され、
全体の中心を成している。
昼公演の音源が用いられているのは、冒頭は夜公演ヴァージョンで始まるものの途中から昼公演に飛んでいる
「Wah-Wah」の他、ジョージの「Band Introduction」「While My Guitar Gently Weeps」
そしてレオン・ラッセルによるメドレーだ。

本アルバムの3枚組LPボックスセットは、米国では1971年12月20日、英国では1972年1月10日に発売された。
米ビルボード誌8月14日号は「ハリスン&フレンズがパキスタン支援のためのコンサートで大盤振る舞い」という
見出しで、次のようなニュース記事を掲載している。
「ここで披露された音楽のほぼ全てが、困窮する国に支援の手を差し伸べるため自身の時間と多大な努力とを
無償で提供した、各ミュージシャンの心情を代弁していた」

本作は1972年1月8日に全米チャート入りを果たし、惜しくも首位は逃したものの、6週間に渡って2位の座を守り続けた。
英国ではリリースから3週間後に、全英チャート首位に上り詰めている。
バングラデシュの飢餓救済のための資金を募ったこのイベントを通じ、推定25万ドル(現在の価値にして約150万ドル)が
集まった。
このコンサートの模様は2005年にDVDとしてリリースされ、その純益は(アルバム同様)、
現在<ユニセフ・ジョージ・ハリスン基金>と命名された基金を通じて寄付が続けられている。

2006年、オリヴィア・ハリスンは、このコンサートの35周年を記念して行われた
マディソン・スクエア・ガーデンでの式典に出席。
同アリーナの殿堂(ウォーク・オブ・フェイム)に常設されている記念銘板の除幕を行った。
今日では、アーティストが慈善コンサートやチャリティ・シングル/アルバムなど、様々な方法で
支援活動を行うことが当たり前のようになっている。
人々がそのような形で自身の名声を活用するのは素晴らしいことだ。
しかし、ジョージは時代を遥かに先取りしていた。
彼の人道的な活動は画期的であり、後に続いた多くの人々にインスピレーションを与えている。
ジョージ・ハリスンは、真の人道主義者であった。