昔から 人との付き合いが苦手だった
今でもその感じは抜けなていない
でも だらだらと生きてきたおかげで
多少のずるさを身につけたせいだか
それなりのレベルで 人との会話ができるようになった
レベルとは 優劣ではなく 単に深さのこと
私はどうも 心の奥のほうでしか 人を感じられない特質があるようだ
何気ない趣味の話や生活でのこと 他愛無い芸能界などの話
そういうのも嫌いではないが どこか自分がそこにいない感じがする
社会になじみ 長くそこに身を置くようになると
どんどん そのような関係ばかりが増えてきて それに比例して
心のこの部分で人と触れる機会が減っていくような気がする
いや 昔から 子供の頃から この感じはあったのだ
社会とのかかわり云々でなく 私の人とのかかわり様が
そのようなものであるのかもしれない
知的障害者のグループホームの方々とかかわっていると
私のそのような部分が満たされるような気がする
直接心の奥で触れ合いたいような気持ちが満たされる感じがする
私たちは社会という自分たちで作った規範の中に生きていて
それらをはずしては生きにくいのだけれど
その中にくくられることのないものがあって
それは 目に見えない場合が多くて
この社会では「説明しなければわからないもの」になってしまっている
そして最近読んだ本にあるごとく
説明しなければわからないものは説明してもわからない
ものになっているのだと思う
たとえば それは「運命」かもしれない
たとえば それは「気」のようなものかもしれない
「偶然」とか「思い込み」であると私たちの社会で語られるものは
実は やはり何かの関係性の中にあるのだと思う
「Oさんがいなくなったよ」と言ったYちゃんの言葉は
その場にいた人たちには 何の意味もない変な発言だったかもしれない
でも それは私には唐突なものではなく 意味のある言葉で
彼女の心の奥からくる感情だったと 私は感じることができるのである
リトルピープルがいるとして
それは私にとってはビッグブラザーであってもよく
それは 善でも悪でもなくて ただ「社会」が切り捨ててしまったもの
人の心を奥のほうで感じる心を動かす力かもしれないと思っている
それをある人は 神に擬えるかもしれないし
あるいは 自然の力 あるいは 宇宙の根源 に擬えるかもしれないが
その「動かす力」に対して 私たちは傲慢であってはならないのだ
・・・・きっと・・・
少なくとも 私とYちゃんの間には
説明しがたい心のキャッチボールがあって
それはちょっと 現実社会から外れたところにあって・・でも
その瞬間になら 私とYちゃんは
二つの月が浮かんだ空の下にいたのかもしれないと思っているのである
そしてそのことを 私は心のここで 心地よく感じているのである
今でもその感じは抜けなていない
でも だらだらと生きてきたおかげで
多少のずるさを身につけたせいだか
それなりのレベルで 人との会話ができるようになった
レベルとは 優劣ではなく 単に深さのこと
私はどうも 心の奥のほうでしか 人を感じられない特質があるようだ
何気ない趣味の話や生活でのこと 他愛無い芸能界などの話
そういうのも嫌いではないが どこか自分がそこにいない感じがする
社会になじみ 長くそこに身を置くようになると
どんどん そのような関係ばかりが増えてきて それに比例して
心のこの部分で人と触れる機会が減っていくような気がする
いや 昔から 子供の頃から この感じはあったのだ
社会とのかかわり云々でなく 私の人とのかかわり様が
そのようなものであるのかもしれない
知的障害者のグループホームの方々とかかわっていると
私のそのような部分が満たされるような気がする
直接心の奥で触れ合いたいような気持ちが満たされる感じがする
私たちは社会という自分たちで作った規範の中に生きていて
それらをはずしては生きにくいのだけれど
その中にくくられることのないものがあって
それは 目に見えない場合が多くて
この社会では「説明しなければわからないもの」になってしまっている
そして最近読んだ本にあるごとく
説明しなければわからないものは説明してもわからない
ものになっているのだと思う
たとえば それは「運命」かもしれない
たとえば それは「気」のようなものかもしれない
「偶然」とか「思い込み」であると私たちの社会で語られるものは
実は やはり何かの関係性の中にあるのだと思う
「Oさんがいなくなったよ」と言ったYちゃんの言葉は
その場にいた人たちには 何の意味もない変な発言だったかもしれない
でも それは私には唐突なものではなく 意味のある言葉で
彼女の心の奥からくる感情だったと 私は感じることができるのである
リトルピープルがいるとして
それは私にとってはビッグブラザーであってもよく
それは 善でも悪でもなくて ただ「社会」が切り捨ててしまったもの
人の心を奥のほうで感じる心を動かす力かもしれないと思っている
それをある人は 神に擬えるかもしれないし
あるいは 自然の力 あるいは 宇宙の根源 に擬えるかもしれないが
その「動かす力」に対して 私たちは傲慢であってはならないのだ
・・・・きっと・・・
少なくとも 私とYちゃんの間には
説明しがたい心のキャッチボールがあって
それはちょっと 現実社会から外れたところにあって・・でも
その瞬間になら 私とYちゃんは
二つの月が浮かんだ空の下にいたのかもしれないと思っているのである
そしてそのことを 私は心のここで 心地よく感じているのである
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