オイラの忘備録 またの名を「肥溜め」

とりあえず、またはじめてみた。

忘備録 「蔦井與三吉」について(2)

2012年09月19日 21時21分35秒 | フェリー ネタ (ひ) 
日本古代史の回顧

 あらかじめ日本海航路の歴史を、簡単に振り返っておきたい。

 いま仮説的に知られている航路の発祥は、紀元前500年頃にさかのぼる。青森県十三湊に建国された古代王国アラハバキは、その後数百年にわたって朝鮮半島からカムチャツカまで交易圏を開拓し、このアラハバキと日本列島の覇権をかけて争ったヤマト一族も、南から海をわたってやってきた。

ついで海の歴史に登場するのは、やはり青森県十三湊に発祥する安東水軍である。彼らは仇敵の源氏を討つために平家と組んで瀬戸内海に軍船を進めたが、戦闘艦の背後には無数の輸送船を従えていた。これらの事実は、日本列島には現代のわれわれが認識しているより、はるかに遠い過去から海運が発達していたことを物語っている。

蝦夷地に和人が進出するのは安東氏の勢力が衰えてからで、西暦1500年と考えておきたい。それから1世紀を経て松前藩が成立する。このとき以来、蝦夷地との交易は秋田や十三湊から松前に移っていく。後代の私たちが参考にできる歴史記述は、このあたりから正確に遺されている。


「西回航路」から「北前船」へ

 北前船の出現以前から、日本海を主なルートとする「西回航路」は存在した。それは「北国船(ほっこくせん)」と呼ばれ、手漕ぎと帆を併用していた。日本海側の産物を、当時の中心地である京都や大阪へ運びこむことが主な仕事である。

 沿岸から集荷された荷は、まず越前敦賀か若狭小浜に陸揚げされる。それから陸送によって琵琶湖へ運び、再び船へ載せかえる。右手に比叡の山並みを望みながら、船は湖を縦断して大津に到着。大津からはもう一度陸送によって京阪市場に運ばれた。

 近世初期まで最善・最短の流通ルートだった西回航路は手数がかかり、費用がかさむ上に荷いたみも激しい。さらに各地で盗難が相次ぎ、荷が安着する保障もなかった。

 この改善に率先して立ち上がったのが、加賀藩(石川県)在住の船頭たちである。彼らは寛永15年(1638)、日本海側の産物を積んだまま下関へ直行し、その後瀬戸内海に入って大阪港へ直接荷揚げする画期的な航路を開拓する。それは3代将軍家光の治世であった。それまでの運賃積みから、船主による買い取り制へ移行していくのもこの時代である。

 こうして近代的な流通制度、安全航海システムが整いはじめ、北前船の出番がやってきた。


海と船にあこがれた蔦井與三吉

 このあたりで、東日本フェリー株式会社の創立社長である蔦井與三吉の周辺を語りはじめよう。

 まず、これまで家系あるいは社内で通説となっている生涯を簡単に紹介する。昭和61年11月に発刊された「社史~創業より二十年」の記事中、勢子夫人の思い出からいくつか引用を試みる。

 「主人は石川県の出身です。12人兄弟の五男です。ウシ年生まれです。昔からの言い伝えによりますと、ウシ年生まれの五男は出世率が高いといわれています。そのようなたとえがあるほど、他の兄弟を食い殺すという言われるくらい出世率が高いそうです。だから両親はこの子(蔦井與三吉)を弟夫婦に養子に出しました」

 「主人は何よりも海と船が好きなので、その一語につきると思います。小さいころ函館の海辺で水平線を眺め、大きな船が通るとああいいなあ、といつも思っていたそうです」

 與三吉が養子に出されたのは12歳のときというから、昔風の「数え年」で数えるなら明治33年のことである。もちろん小学校は卒えている。夫人の言葉にあるウシ年の五男だから養子に出したと言うのは、「貧乏だから」とは正直にいえない世間体をおもんばかった発言と考えるべきである。言い伝え通りに出世率が高いものなら、家に残すのが普通であろう。当時としても12人兄弟はちょっと多すぎる。今日のサラリーマン家庭では、たちまち家計が破綻すること請け合いだ。

 そこで口減らしのために、子供のいない弟夫婦に養子ばなしを持ち出し、與三吉を送り出した。しかし函館に住む新しい養父母も、決して楽な家庭ではなかった。與三吉は花、納豆などの触れ売り、新聞配達などをして家計を助けた。

 わらじが擦り切れるほど歩いても品物が売れ残る。そんなとき、彼はつかれ果てて元町住宅街の一角にへたり込んだこともあるに違いない。ぼんやりと視線を投げる先には、昏れなずむ函館港巴湾。青森への出航準備を急ぐ連絡船「比羅夫丸」(1500トン)の勇姿が目に入る。

 そんなとき與三吉は、ただの懐かしさだけでなくふるさとの海を思い浮かべ、始まったばかりの20世紀というキャンバスに、ひそかに人生の夢を描きはじめていた。

 私たちは、蔦井與三吉の事業への原点をさぐるために、その生まれ故郷である石川県に旅をしなければならない。


生まれ故郷「石川県加賀市

 石川県加賀市の中心は「大聖寺」駅である。駅前からバスに乗り橋立町で下車。国定公園「越前・加賀海岸」に属する海岸には、険しい断崖や複雑な入り江が目に入る。単調な加賀の沿岸では異色な光景だ。現在は南加賀を代表する漁港である。

 昔の大きな屋敷を利用してつくられた「北前船の里資料館」。17世紀から明治中期にかけて巨万の富を築いた船主・酒谷家の豪邸をそのまま利用して加賀市が建造したものである。一航海一千両の儲けがあり、寛政8年(1796)の記録では橋立だけで船主四十余人、その持船百隻を数えたといわれる未曾有の繁栄ぶりをしのぶことができる。

 資料館の南方に広がる名園「蔵六園(ぞうろくえん)」も酒谷家の庭園である。庭内で偉観を誇る銘石は、北前船が全国から運んできた逸品だ。

 北前船はここ橋立のほか南方の塩屋瀬越など、加賀市をふるさととして日本海に君臨していた。

 冬の日本海は、「タバカゼ」と呼ばれる強い北西風の影響を受けて、ほとんど航海が不可能になる。浜の人たちがときどき磯を回って、打ち上げられた海藻や小魚を拾い集める寒々とした季節である。

 北前船は大金を生み出してくれる財産だから、荒れる海に係留しておくことはできない。冬の間それらの船は、ほとんどが木津川河口に係留されていた。木津川は京都府南部を流れる全長45メートルの小河川である。ほとんど奈良県との県境に近い渓谷を流れ下り、八幡市付近で宇治川、桂川と合流して淀川になる。つまり河港であった。


加賀商人の伝統

 加賀市に住む船主たちは、春になると陸路をたどって大阪にやってくる。衣料品、食料品、酒などを買い集めて持船に積み込み、大阪湾を船出してゆくが、瀬戸内海の各地でも塩や畳表などを仕入れ船倉を満杯にする。

 こうして下関へ出て春うららの到来を待ち(日和見=ひよりみ)、順風の訪れとともに日本海への遠い航海を始めるのであった。

 しかし彼らの船は、一気に北上するわけではない。次々と主要な港に立ち寄り、積んできた荷を売り捌き、こんどは米や稲藁を買い集めて船につむ。こうして蝦夷地へ向かうのだが、北行する荷を「下り荷」、そして北からの塩乾物、こんぶ、魚粕などを「上り荷」と呼んでいた。

 さきほど訪れた加賀市酒谷家に残された元治元年(1896)の記録によると、下り荷の利益二十両余に対し、上り荷は二千二百両もの利益をあげたことになっている。こうして加賀商人たちは、1シーズン1往復ないしは1往復半の航海を行い、巨万の富を築いていく。

 北前船で発展の基礎を築き、のち加賀藩船の運用を一手に引き受けた北陸きっての豪商銭屋五兵衛、16歳で北前船に乗り込み、明治になってからは銀行の鴻池、鉱業の古河と並んで「浪花財界の三羽烏」と言われるようになった西村屋忠兵衛など、加賀市が生んだ富豪は数多い。


伝統を受け継いだ蔦井與三吉

 その余韻覚めやらぬ明治22年(1889)2月10日、同じ加賀市の動橋(いぶりばし)町に生まれたのが蔦井與三吉であった。

 蔦井與三吉はこれより時代を大きく下って、昭和40年(1965)東日本フェリーを設立する。與三吉はその時、すでに齢76歳に達していた。通常であれば人生の花道から引き下がっていてもおかしくはない年齢である。後代のわれわれは、そこに事業欲だけでは捉えきれない執念にも似た気迫を感じる。

 蔦井與三吉には、二世紀という長い時間を超えて活躍した加賀商人の濃い血流が、一生を通じて脈々と流れつづけ、自ら海の王者になる夢を少年の日から育みつづけていたのではないだろうか。

 しかし親戚縁者や会社内で語り継がれた通説に従うなら、與三吉は明治42年に早稲田実業学校を中退してから、大正2年、北海道根室線赤平駅開通まで存在が不詳である。その期間中に海への憧憬をさらに強めるきっかけをつかんだのか、あるいはひたすら商売の勘を磨くために寝食を忘れていたのか。なんとも解明できない謎の部分があった。


 

所在不明の数年間の足取り

 蔦井與三吉は、加賀商人の血を受けながら成長したが、12歳のときに函館のおじの家に養子として引き取られたという。それは明治33年、西暦ではちょうど1900年に合致する。それから明治42年早稲田実業学校を中退し、大正2年までの足取りは不明であるとされてきた。

 しかし不明というなら、與三吉が函館にやってきてから、赤平に姿を現すまでの13年間は、すべて存在が不明であると言い切っても構わないのではないだろうか。なぜなら養子に入ったときの與三吉の年齢は12歳であり、すでに義務教育年限は終わっている。そのまま早稲田実業へ進んだという解釈もあるだろうが、42年中退という経歴が不可解である。明治42年には與三吉は20歳になっていた。

 当時の実業学校は甲の過程が17歳まで、乙過程は15歳までと修業年限が決まっていたから、20歳で在学していること自体が不可能に近い。これは與三吉自身が語っているように、「触れ売り」行商を続けながら、早稲田講義録のような通信教育で勉強を続けていたのではないかと想像させる根拠になる。

 進学希望を持ちながら職についた当時の青少年は、先を競って講義録による勉強を続けていた。また修業期間中に数回、本校での受講を義務づけ、これを修了資格に含めていたこともあり、苦学生たちは東京への旅費、滞在費を工面するために、働きづくめの日々を送っていた。講義録をすべて完全に理解していても、スクーリングを受けなければ卒業とは認められず、中退扱いになってしまう。

 蔦井與三吉の前半生には、これまでベールに包まれている部分があると思われてきた。もしその謎を今回解明しておかなければ、40年史あるいは50年史編纂の際には、事実の発掘はさらに困難になるであろう。そこで、以下の節では與三吉の足跡をたどることによって通説の誤りを正し、彼の精神形成史をしっかりと跡付けてみようとおもう。

 その第一級の資料は、北海道空知郡赤平市に眠っていた。


赤平市を開基した與三吉と実兄

 赤平市探索のヒントは、大正2年に蔦井與三吉が赤平駅前に雑貨兼運送業を開いたという経歴書による。

 そこで赤平市に赴き、百年史編纂のために収集された膨大な古文書類を調べた所、これまで二十年史などに記録された通説を覆す歴史的事実が次々とあらわれてきた。

 簡単に結論を言ってしまえば、與三吉は、遅くとも明治39年にはすでに赤平に来住しており、しかも赤平市発祥の開祖として記録されていたのである。

 それらの経過を分かりやすくまとめた「赤平開拓創始史」(昭和61年刊)から、まず赤平村誕生のいきさつを引用する。ここでの説明は、赤平が歌志内村の一地域だった当時を前提にしている。

 ・・・前年(大正9年)、一級町村制施行された歌志内は、空知支庁管内で岩見沢タ張滝川につぐ4つ目の町制を目指していたのであった。それゆえに、町制が先決であって、分村に耳を貸すつもりはなかったわけである。

 だが、このような勢力区分をもっていながら実は二つの村にひとつしか役場がないと思われるほど沿岸地域の住民は不自由をしていたのである。何とか分村をと沿岸地域の選挙民から請願書に署名をもらって歩いたのは、蔦井伝与門だったという。

 弟の与三吉は上赤平開駅に合わせて駅前に雑貨店を開業し、さらに兄、伝与門とともに運送店も営んでおり、沿岸地域から選出された村会議員でもあった。

 ことのほか、不自由を感じていた兄弟は、分村は何としても実現したい悲願にも似たものだったようである。分村への足がかりをつけ、いわば外濠を埋めた支持派は次のような建議書を時の村長、朝倉鴻一に提出している。

    建   議   書

 沿岸地方は今や下富良野線開通とともに沿岸炭鉱開発し、以って戸口増加し、一千二百余戸を算するに至り、物資は総て鉄道便により、各方面より供拾を受くるに至り、その他、経済的関係においても何ら支障なく、歌志内市街とは、すでに遠縁となり、誠に山道のため不便少なからざるを以って(本文下脚注1)、この際、分村するは、沿岸はもちろん、母村においても便利にして、むしろ両得なるを以て分村せられたし。

右、建議す。

 大正十年三月十一日

                        村会議員 長田 理吉                                             久乗 市松

                             山田 亀吉

                             森  秀蔵

                             西坂七三郎

                             蔦井与三吉

歌志内村会議長

 朝倉 鴻一 殿

                       (以上「同書」120ページ)

 以上の記事が掲載されていた「創始史」は、赤平市に開拓顕彰記念碑を建立するために結成された、市民レベルの期成会が編纂したものであり、その信憑性について異議を申し立てる余地はない。

 引用記事中にある「沿岸地域」とは歌志内村のうち空知川流域の一帯、つまり現在の赤平市を示している。また「下富良野線」とは、函館本線の滝川から分岐して現在の富良野市に至る路線で、いまは「根室本線」と呼ばれている。富良野市から先は、引き続き延長工事が着手されていた。

 この記事の内容から察すると、與三吉には伝与門という兄がおり、二人で協力して歌志内村から赤平村の独立を図り、しかも與三吉は村会議員の一部を抱きこんで建議書まで起草し、みずから署名して計画を成し遂げたことになる。

 経過をそのまま認めるなら、蔦井兄弟は赤平市の開祖にあたる存在であろう。

 また同書には、さらに次のような驚くべき証言が記載されている。

 ・・・さて、乗りものの話が出たが、明治39年、上赤平の蔦井与三吉が自転車なるものを札幌から買って来た。沿岸地域に入植が始まった頃には、自転車なるものはあったが、東京で見ることは出来ても本州の片田舎では見ることもなかった人たちは、その勇姿に目を見張ったといわれる。

 その後、蔦井の商才と自転車という武器が相まって、どんどん発展してゆくのである。これが、赤平市域の自転車の始まりと言われている。(以上「同書」99ページ)

 明治40年前後から、下富良野線開通の大正2年まで、行方不明と見られていた與三吉は、なんと明治39年にはすでに赤平市に住んでいた。なお赤平という地名はアイヌ語の「アカピラ」に漢字をあてはめたものであり、空知川が石狩平野にさしかかる滝川市内の蛇行部分に現存している。つまりこのアカピラより上手、いまの赤平市中心部のことを上赤平と呼んでいた。

 さてそれではなぜ、蔦井兄弟がまだ開拓初期の赤平に住んでいたか、その謎を解明しなければならない。


赤平市を開拓した加賀団体

 「上赤平(現、字赤平)は、石川県よりの団体移住によって開拓された。明治27年(1894)3月18日、石川県江沼郡動橋(いぶりばし)村(現加賀市動橋町)寺西幸三郎は、北海道の未開拓地を視察するために故郷を出発した。約7ヶ月にわたって道内各地を踏査し、すでに区画割りの終わった空知川沿岸を入植目的地と決め、帰国したのは秋も深まった10月であった。個人入植より団体入植の方が、何かにつけて有利であるため、帰国後ようやく47戸の移住希望者をとりまとめ、団体長として貸下願を提出した」

 以上は「赤平八十年史」(昭和48年12月)77ページからの引用である。原野開拓の苦労、開墾検査にともなう悲劇など、加賀団体による赤平開拓は凄惨を極めるのだが、本稿とは直接関係がないので割愛する。

 寺西団体長の呼び掛けに応じて、一年遅れの明治29年に赤平に移住してきた人々の中に「蔦井庄五郎」という人物の名がある。あとは単刀直入に、失礼を顧みず蔦井家の戸籍除籍簿の解読に入ってしまおう。

 石川県加賀市役所に保存されている蔦井家の除籍原本によれば、赤平に入植した庄五郎は與三吉の長兄である。また「赤平開拓創始史」に紹介されている伝與門は二男。途中2男2女を飛ばして、五男の與三吉に続いている。また與三吉の下には、3男1女がいた。

 これら蔦井兄弟の戸籍のなかに、父親の弟にあたる勝次郎という人が併載されており、次のような記述がある。

 「明治25年4月14日北海道根室郡千島町1丁目28番地 作田市與門養嗣子ノ処 離縁復籍ス」

 これらの原簿を、赤平市所蔵の除籍謄本と比較してみた所、次のような新しい事実が判明した。蔦井兄弟から見て叔父にあたる「勝次郎」は、作田家との養子縁組を解消した後、明治33年2月21日赤平に定住し正式に分家届けを出している。そしてなんということか、與三吉の項におどろくべき記載があった。

 「明治33年3月21日空知郡歌志内村字上赤平19線南11番地蔦井勝次郎へ養子縁組届出同日受付除籍代リ」

 與三吉は、加賀から函館へ行ったのではなく、赤平の叔父のもとへ養子に出されたのであった。しかし與三吉の思い出に深く関っている函館の存在を、どのように解釈することができるのか。


與三吉自身の証言も存在した

 その部分は、與三吉自身がある雑誌のインタビューに答えた言葉によって明らかになる。取材が行われたのは彼の死の数年前、おそらく昭和45年のことであろうと推測できるが、彼の発言を公式に裏付ける資料は発見できなかった。以下はその概要である。

 與三吉によると、彼はまず6歳のときに函館のおじの家へ養子に出された。しかしこのことは戸籍に記載されていないから、文字どおりの口減らしであり、便宜的な里子のようなものだったに違いない。だから小学校は、函館で修了したと考えられる。ところが12歳のとき、函館の養父母が亡くなった。そこでこんどは正式に赤平在の勝次郎おじのもとへ養子に入る。そして開拓の仕事を手伝うようになったが、そのころは加賀市から親兄弟がそっくり赤平に移住していた。兄弟は多いし、長兄の庄五郎名義の土地は1戸分しかない。成長するに及んで、與三吉は真剣に自立の手段を考えなければならなくなった。

 17歳のときふと思い立ったのが、職業軍人になることである。貧乏人の小せがれが飯の種にありつくには、官位に就くことが早道であった。下士官になることを決意して上京するが結果は失敗。そこでやむなく早稲田実業学校へ入学した。

 だがほどなくノイローゼにかかり、挫折の痛手とともに帰郷する。しかしその途次、東京で見た自転車をちゃっかりと札幌で買い込み、赤平で史上初の自転車乗りとして記録される。そして引き続き家の農作業を手伝っていたが、明治42年には徴兵によって旭川の二十七連隊に入隊することになり、実業学校へは中退届けを出して退学した。

 軍隊では優秀な成績をあげ、全国から英才の集まる戸山学校ヘ推薦されたにもかかわらず、とつぜん海外雄飛の夢に取り憑かれてしまう。3年の満期除隊と同時に一旦赤平へ帰り南米行きの準備を始めたが、まもなく鉄道が敷かれ、炭鉱の開発が本格化することを知る。そこで渡航費として貯めていた除隊手当などを投入して新聞販売店の権利を買い、商人として自活することを決意した。


赤平市と蔦井與三吉の深い関係

 ここまでくると、與三吉の足跡はさまざまな資料から発見することが可能な時代に入ってくる。あまり紙幅もないので、ここではいくつかの引用にとどめ、こまかな解説は省略する。

 「明治45年、万朝報と北海タイムス(本文下脚注2)の特約権をとった蔦井與三吉」(「赤平開拓創始史」234ページ)

 「大正2年、鉄道開通の前には十八線に湯浅商店、北野商店、古谷呉服店、田島魚店、北田商店、石黒商店、紺谷商店等あり。開通後には蔦井販売部、福岡商店、長谷川商店、林豆腐店開店す」(「赤平八十年史」187ページ「堂下記録」の紹介から)

 「歌志内村会議員選挙、(二級)・・・蔦井與三吉七十四票・・・」(大正8.6.4「北海タイムス」)

 「4月1日歌志内村より分村したる空知郡赤平村村会議員選挙は5月1日執行左記12名当選したり。・・・蔦井與三吉・・・」(大正11年.5.4「小樽新聞」)

 村会議員当選のニュースは、この後も各紙に紹介されているが、與三吉の名が見えるのは大正15年、昭和4年選挙までで、昭和12年になると蔦井伝右衛門が議員として登場する。これは前後の情勢から考えて次兄の伝與門であろう。與三吉自身はすでに運送業の本拠を滝川市に移すなど、本格的に商売の多角化に乗り出していたから、行政への参加は不能になっていたに違いない。

 彼の議員時代の活躍ぶりは、多くの公的資料に署名というかたちで残されているが、ここでは新聞販売店経営の苦労を「赤平八十年史」から引用するにとどめたい。

 「蔦井運送店と蔦井販売部を経営していた当主は蔦井與三吉といい、彼はこのほかに新聞販売も兼業していた。鉄道開通、そして上赤平駅設置の確定を知った彼は、苦心のすえ駅前に居を構え、生活の基盤を雑貨の販売に注ぎ、いち早く運送店の認可を申請した。なおそのころは1日、または2日と遅れがちである新聞に着目し、鉄道開通後の一手販売を志して新聞の特約権をも獲得した。扱った新聞は『万朝報』と『北海タイムス』である。朝早く歌志内駅で新聞を受取り、下赤平から上平岸、空知川を渡船で百戸上幌倉、中幌倉、下幌倉からふたたび空知川を渡り、中赤平、上赤平の順に配達し、約2年半続けたという。鉄道開通後は上赤平で受け取ることになったため、また人を雇ったりして、この苦労はようやく免れたのである」(「赤平八十年史」187ページ)

 なおここに紹介されている地名は、現在の滝川市南部から赤平市域の半分に及ぶ広大な地籍をカバーしている。

 また與三吉が店を開いていた赤平駅前の角地は、平瀬商店に引き継がれ現在も盛業中である。

 また、いま赤平市役所が建っている場所は、蔦井與三吉が大正5年2月23日に取得した土地であり、その後、市の公有財産に転じた経過があることも付け加えておきたい。

   ===(転載はここまで)===

 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓
(ここから下は、このブログの管理者の上稿)

 http://wayback.archive.org/web/*/http://www.geocities.jp/alfa323japan/tutaiue.htm
 北海道創始期にかかわる蔦井氏の解説文が、インターネットアーカイブに眠ってしまうのが、とても惜しい。
 クレーム覚悟で、コピーする。

 なお、この文章は上・下二編になっている。下編は、次項参照のこと。



※(本文下脚注1

 『誠に山道のため不便少なからざるを以って』について。

 赤平市と歌志内市を結ぶ山道は2本。
 現在は、道道赤平歌志内線道道赤平奈井江線(→旧称:赤平砂川線)の2路線。
 国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システムで確認したところ、一般公開されている航空写真の中で一番最古となる1947年(昭和22年)の航空写真にて、車道とはっきり確認できるものは、旧・赤平砂川線の旧道のみ。勿論当時、空知川の河畔から(旧)歌志内隧道までの狭窄な道路をエッチラホッチラ登るしかなかったことは、安易に想像できる。
 ちなみに 現在のデータで行くと、現・国道38号線=道道赤平奈井江線交点となる赤平市茂尻の独歩苑前交差点の標高は66メートル。旧・歌志内隧道の赤平側坑口付近の等高線は、約175メートルぐらい。その高低差は約110メートル。その道路の距離は現在の数値で1500メートル。よって、道路勾配率で約7パーセント平均。ちなみに現道は、勾配緩和の改良がなされている現在で、この数値の状態です。
 車などそんなになかった当時、いかにこの道路環境が厳しかったかが、この数字からも伺い知れます。

 本文中にて、赤平と歌志内を結ぶ山道についての記述がなかったことから、ここで脚注という形で説明させていただきました。



※(本文下脚注2

 『北海タイムス』について。

 ここで出てくる「北海タイムス」は、戦時統合前の「北海タイムス」です。
 よって、現「北海道新聞」を指します。
 なお、wikiに出てくる北海道統合11紙について調べてみましたら、函館市史のペイジに詳しい記述がありました。
 
 (引用はじまり)函館での反対をよそに17年に入ると統合は一段と厳しさを増した。前年までに中小新聞の統合が終わった北海道では、既存有力紙の「北海タイムス」「小樽新聞」「旭川新聞」の3紙をはじめ、「新函館」「室蘭日報」「十勝毎日新聞」「北見新聞」「釧路新聞」「根室新聞」「網走新報」「旭川タイムス」の計11紙と、発行権保留の「日高毎日新聞」「江差日日新聞」「小樽新報」の統合が始まった。(引用終わり)

 引用元は、デジタル函館市史 通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 「北海道新聞」への統合 P973-976

 また、参考ペイジとして、デジタル函館市史 通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 戦時体制下の新聞 P970 等をあげておきます。

 STVのテレビやラジオの『タイムスニュース』でおなじみだった『北海タイムス』は、昭和21年、戦前の旧『北海タイムス』有志により『新北海』として創刊、昭和24年改題された新聞。
 


 赤平市と動橋団体とのつながりについて、このようなペイジが出てきた。

 NPO法人赤平市民活動支援センター 

  赤平伝説



 管理者が、わかり得る範囲内でですが、ハイパーリンクでの注釈を、逐次時間が許す限り加えていっています。(このペイジでの最新の追加は、24.11.17) なお本文部分に関しては、ハイパーリンクでの注釈を加えることができなかったために入れたマーキング→『(本文下脚注)』の2箇所だけが、管理者による加筆です。予めご了承願います。

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