馬原引退!名守護神さらば、けがに泣いた12年…歴代7位182S
参考
スポーツ報知 さま
ありがとうございます。
今季限りでオリックスを退団した馬原孝浩投手(34)が現役引退することが13日、分かった。左膝の故障で今季は9試合の登板にとどまり、オフに球団から減額制限(1億円以上の選手は40%)を超える来季年俸を提示され、自由契約を選択。今後について熟考を重ね、結論を出したようだ。度重なるけがを乗り越え、歴代7位の通算182セーブをマークした名ストッパーが静かにユニホームを脱ぐ。
馬原が大きな決断を下した。ダイエー、ソフトバンクで9年、オリックスで3年。太く短いプロ生活にピリオドを打つ意思を固めた。近い関係者には引退の報告を済ませており、14日に発表される見通しだ。
今季は開幕から不振に苦しみ、5月2日に出場選手登録を抹消され、登板した5月の2軍戦で左膝を痛めた。決死の調整を続けて回復を目指したが、復帰できずにシーズンを終えた。9試合で1勝1敗2セーブ、防御率7・56の成績だった右腕に、球団は年俸1億3500万円から減額制限40%を超えるダウンの来季年俸を提示。自らの意思で自由契約を選択し、進路を模索してきた。
万全ならば150キロの直球とフォークが武器。今オフは国内外の複数球団が関心を寄せ、獲得のオファーも届いた。「プロは一年一年が勝負。自分に甘えたくない」と常々口にしてきた男は、現状のコンディションやメンタル面などを冷静に見つめ直し、引退の結論を出した模様だ。
九州共立大から03年自由獲得枠でダイエー(現ソフトバンク)に入団した。キャリアのスタートは先発。転機は2年目の05年だった。ある日の試合で、投手登板順序が記されたボードに自身の背番号「14」が最後に書かれていた。「王監督には何も言われなかった。それだけ厳しい場所だと思った」。若手にプレッシャーをかけないよう、無言という形で激励してくれた指揮官の思いに応えようと右腕を振り続け、守護神の座をものにした。
07年に初めてセーブ王のタイトルを獲得し、10年には日本人最速で通算150セーブを達成した。球界を代表するクローザーとしてWBCにも2度(06年と09年)出場。11年の開幕直前には最愛の母・孝子さんが亡くなったが、悲しみを乗り越えてパ・リーグ連覇に貢献。寡黙に第一線を歩む姿は誰からも手本にされた。
右肩の手術をはじめ、度重なる故障を乗り越えてきた。12年を1軍登板なしで終えると、そのオフにはフリーエージェントでソフトバンクに移籍した寺原の人的補償でオリックスに移籍。「1年投げてない投手を獲ってくれた。意気に感じる」と粉骨砕身してきたが、酷使してきた体の悲鳴を止めることはできなかっった。
今後については、まずは家族との時間を大事にしながら決めていくつもりだ。歴代7位の通算182セーブ。一日一日を全力で生きた男が、潔くボールを置く。
◆馬原の故障と苦闘の歴史
▽08年3月12日 横浜とのオープン戦(平塚)前の練習で右肩の張りを訴え、右肩筋の炎症と診断された。7月に実戦復帰を果たすと10月6日の楽天戦(Kスタ宮城)に日本人最速となる通算178登板目での100セーブを記録。
▽11年7月18日 西武戦(ヤフーD)後に右肩の違和感を訴え、右肩関節の大円筋断裂と判明。球宴を辞退し1軍復帰は9月15日の西武戦(ヤフーD)までずれ込んだ。
▽12年2月28日 前年の右肩痛が完治せず、右肩けん板および関節唇のクリーニング手術を受けた。シーズンは実戦登板なし。
▽13年3月5日 オリックスに移籍後、ヤクルトとのオープン戦(京セラD)に登板したが、右腕の脱力感を訴え降板。右鎖骨下における腕神経叢(わんしんけいそう)の炎症と診断され、9月28日の日本ハム戦で実戦復帰した。
▽15年5月2日 不振で出場選手登録抹消。同24日のウエスタン・リーグ、中日戦(丹波)での調整登板で左膝を痛め、リハビリを続けたが実戦復帰ならず。
◆馬原のWBC 06年の第1回大会は、左肩痛で代表を外れた石井弘寿(ヤ)に代わり、2次リーグから緊急合流も登板なし。09年の第2回大会は1次ラウンド2試合、2次ラウンド2試合に登板し、合わせて4回を無失点。準決勝の米国戦で2点を失ったものの、すべてリリーフで計5試合に登板、5回を2失点で日本代表の連覇に貢献した。
◆馬原 孝浩(まはら・たかひろ)1981年12月8日、熊本県生まれ。34歳。熊本市立高(現必由館高)から九州共立大を経て、2003年のドラフト自由獲得枠でダイエー(現ソフトバンク)入団。06年に第1回WBC日本代表に選出。07年に38セーブを挙げ最多セーブ投手。09年の第2回WBCでは計5試合に登板し世界一に貢献。13年に寺原のFA移籍に伴う人的補償でオリックスに移籍。14年には自己最多の55試合に登板し33ホールドポイントを記録。通算385試合で23勝31敗182セーブ、防御率2・83。181センチ、80キロ。右投右打。家族は妻と1女。
馬原投手お疲れ様でした。
本当にありがとう。
故障がなければまだまだ投げられたと思います。
Hawksの功労者です。
本当は現役を続けたかったと思います。
ありがとうございました。
参考
スポーツ報知 さま
ありがとうございます。
今季限りでオリックスを退団した馬原孝浩投手(34)が現役引退することが13日、分かった。左膝の故障で今季は9試合の登板にとどまり、オフに球団から減額制限(1億円以上の選手は40%)を超える来季年俸を提示され、自由契約を選択。今後について熟考を重ね、結論を出したようだ。度重なるけがを乗り越え、歴代7位の通算182セーブをマークした名ストッパーが静かにユニホームを脱ぐ。
馬原が大きな決断を下した。ダイエー、ソフトバンクで9年、オリックスで3年。太く短いプロ生活にピリオドを打つ意思を固めた。近い関係者には引退の報告を済ませており、14日に発表される見通しだ。
今季は開幕から不振に苦しみ、5月2日に出場選手登録を抹消され、登板した5月の2軍戦で左膝を痛めた。決死の調整を続けて回復を目指したが、復帰できずにシーズンを終えた。9試合で1勝1敗2セーブ、防御率7・56の成績だった右腕に、球団は年俸1億3500万円から減額制限40%を超えるダウンの来季年俸を提示。自らの意思で自由契約を選択し、進路を模索してきた。
万全ならば150キロの直球とフォークが武器。今オフは国内外の複数球団が関心を寄せ、獲得のオファーも届いた。「プロは一年一年が勝負。自分に甘えたくない」と常々口にしてきた男は、現状のコンディションやメンタル面などを冷静に見つめ直し、引退の結論を出した模様だ。
九州共立大から03年自由獲得枠でダイエー(現ソフトバンク)に入団した。キャリアのスタートは先発。転機は2年目の05年だった。ある日の試合で、投手登板順序が記されたボードに自身の背番号「14」が最後に書かれていた。「王監督には何も言われなかった。それだけ厳しい場所だと思った」。若手にプレッシャーをかけないよう、無言という形で激励してくれた指揮官の思いに応えようと右腕を振り続け、守護神の座をものにした。
07年に初めてセーブ王のタイトルを獲得し、10年には日本人最速で通算150セーブを達成した。球界を代表するクローザーとしてWBCにも2度(06年と09年)出場。11年の開幕直前には最愛の母・孝子さんが亡くなったが、悲しみを乗り越えてパ・リーグ連覇に貢献。寡黙に第一線を歩む姿は誰からも手本にされた。
右肩の手術をはじめ、度重なる故障を乗り越えてきた。12年を1軍登板なしで終えると、そのオフにはフリーエージェントでソフトバンクに移籍した寺原の人的補償でオリックスに移籍。「1年投げてない投手を獲ってくれた。意気に感じる」と粉骨砕身してきたが、酷使してきた体の悲鳴を止めることはできなかっった。
今後については、まずは家族との時間を大事にしながら決めていくつもりだ。歴代7位の通算182セーブ。一日一日を全力で生きた男が、潔くボールを置く。
◆馬原の故障と苦闘の歴史
▽08年3月12日 横浜とのオープン戦(平塚)前の練習で右肩の張りを訴え、右肩筋の炎症と診断された。7月に実戦復帰を果たすと10月6日の楽天戦(Kスタ宮城)に日本人最速となる通算178登板目での100セーブを記録。
▽11年7月18日 西武戦(ヤフーD)後に右肩の違和感を訴え、右肩関節の大円筋断裂と判明。球宴を辞退し1軍復帰は9月15日の西武戦(ヤフーD)までずれ込んだ。
▽12年2月28日 前年の右肩痛が完治せず、右肩けん板および関節唇のクリーニング手術を受けた。シーズンは実戦登板なし。
▽13年3月5日 オリックスに移籍後、ヤクルトとのオープン戦(京セラD)に登板したが、右腕の脱力感を訴え降板。右鎖骨下における腕神経叢(わんしんけいそう)の炎症と診断され、9月28日の日本ハム戦で実戦復帰した。
▽15年5月2日 不振で出場選手登録抹消。同24日のウエスタン・リーグ、中日戦(丹波)での調整登板で左膝を痛め、リハビリを続けたが実戦復帰ならず。
◆馬原のWBC 06年の第1回大会は、左肩痛で代表を外れた石井弘寿(ヤ)に代わり、2次リーグから緊急合流も登板なし。09年の第2回大会は1次ラウンド2試合、2次ラウンド2試合に登板し、合わせて4回を無失点。準決勝の米国戦で2点を失ったものの、すべてリリーフで計5試合に登板、5回を2失点で日本代表の連覇に貢献した。
◆馬原 孝浩(まはら・たかひろ)1981年12月8日、熊本県生まれ。34歳。熊本市立高(現必由館高)から九州共立大を経て、2003年のドラフト自由獲得枠でダイエー(現ソフトバンク)入団。06年に第1回WBC日本代表に選出。07年に38セーブを挙げ最多セーブ投手。09年の第2回WBCでは計5試合に登板し世界一に貢献。13年に寺原のFA移籍に伴う人的補償でオリックスに移籍。14年には自己最多の55試合に登板し33ホールドポイントを記録。通算385試合で23勝31敗182セーブ、防御率2・83。181センチ、80キロ。右投右打。家族は妻と1女。
馬原投手お疲れ様でした。
本当にありがとう。
故障がなければまだまだ投げられたと思います。
Hawksの功労者です。
本当は現役を続けたかったと思います。
ありがとうございました。
ありがとう!!
いい選手でした。
残念ですね。
帰ってきてくれるのかな
と、思っていました。
馬原選手
おつかれさま。
ありがとうございます。
・・
よくがんばってくれました。
Hawksで引退してほしかったです。
寂しいです
ホークスでもっと活躍してほしかったです