皆に愛された「柴原選手」の引退会見です。
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11月9日(水)、柴原洋選手がホークス一筋15年間の現役を引退することを発表し、ヤフードーム内にて会見を行いました。
柴原選手は福岡県北九州市出身で、北九州高校から九州共立大を経て1996年ドラフト3位で福岡ダイエーホークスに入団しました。初出場は1997年4月5日のライオンズ戦(西武ドーム)。2年目の1998年には111試合に出場し、外野の一角に定着。1999年のホークス福岡移転後初優勝にも大きく貢献し、リーグ連覇した2000年と日本一に輝いた2003年には打率3割もマークするなど、走攻守すべてにおいてファンを沸かせるプレーを見せました。また、入団時は背番号「31」でしたが、ともにプレーをしてきた秋山幸二・現監督への憧れから、2004年より「背番号1」を背負い続けてきました。
球団名が福岡ソフトバンクホークスとなった2005年には開幕戦で決勝ホームラン。これが「福岡ソフトバンク1号」の一発でした。2008年にはまたも開幕戦で逆転サヨナラ3ラン。開幕戦での逆転サヨナラ弾は史上2人目の快挙でした。
実働15年で1452試合に出場。打率.282、通算安打は1382本、本塁打54、打点463、盗塁85をマーク。ベストナイン2回(1998年、2000年)とゴールデングラブ賞(2000年、2001年、2003年)にも輝きました。
会見の冒頭で「たくさんの方に支えられた15年間でした」と挨拶した際には言葉に詰まる場面もありましたが、会見中には笑顔も見せるなどこの15年間ですべてを出し尽くした充実感を垣間見ることもできました。
一番の思い出は、という質問には「プロ初安打を福岡ドームで打てたこと」と、1997年4月13日のオリックスブルーウェーブ戦での一打を挙げました。また、「この常勝ホークスの中でプレーさせていただいたことは僕の誇り。その場に居られたことが嬉しかった」と振り返りました。
しかし、ここ数年は腰痛などもあって出場機会が減少。「引退を決断したのはこの1週間くらいの間だったけど、この1年は考えるものがあった。今季終盤に一軍に上がったが、若い選手のガムシャラさを見て、アイツらを上回る気持ちがあるのかと自問自答した。それがないと思ったし、ここ数年は僕の思っている野球、『打って、守って、走る』が揃う野球ができなくなっていた」と現役引退に至った経緯を話しました。
それでも、柴原選手には、いつもヤフードームで大きな声援が飛んでいました。「その声に後押しされたから、ここまでやってくることが出来た。感謝してもしきれないくらいです」と笑顔。「本当は泣きたい。嬉し泣きもしたい。けど、『ありがとう』という言葉で」と話すと、しかし、目には涙が溜まっていました。
今後については未定としながらも「僕自身はまたホークスに帰ってきたい。コーチとして戻ってきたい。今からは、それに向けた野球の勉強をします」とビジョンを明かしました。
柴原選手、15年間本当にお疲れさまでした。そして、たくさんの夢と勇気を、ありがとうございました。
参考 HAWKS HP
2011年11月9日掲載
田尻 耕太郎(ホークスオフィシャルメディア)さま
ありがとうございました。
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11月9日(水)、柴原洋選手がホークス一筋15年間の現役を引退することを発表し、ヤフードーム内にて会見を行いました。
柴原選手は福岡県北九州市出身で、北九州高校から九州共立大を経て1996年ドラフト3位で福岡ダイエーホークスに入団しました。初出場は1997年4月5日のライオンズ戦(西武ドーム)。2年目の1998年には111試合に出場し、外野の一角に定着。1999年のホークス福岡移転後初優勝にも大きく貢献し、リーグ連覇した2000年と日本一に輝いた2003年には打率3割もマークするなど、走攻守すべてにおいてファンを沸かせるプレーを見せました。また、入団時は背番号「31」でしたが、ともにプレーをしてきた秋山幸二・現監督への憧れから、2004年より「背番号1」を背負い続けてきました。
球団名が福岡ソフトバンクホークスとなった2005年には開幕戦で決勝ホームラン。これが「福岡ソフトバンク1号」の一発でした。2008年にはまたも開幕戦で逆転サヨナラ3ラン。開幕戦での逆転サヨナラ弾は史上2人目の快挙でした。
実働15年で1452試合に出場。打率.282、通算安打は1382本、本塁打54、打点463、盗塁85をマーク。ベストナイン2回(1998年、2000年)とゴールデングラブ賞(2000年、2001年、2003年)にも輝きました。
会見の冒頭で「たくさんの方に支えられた15年間でした」と挨拶した際には言葉に詰まる場面もありましたが、会見中には笑顔も見せるなどこの15年間ですべてを出し尽くした充実感を垣間見ることもできました。
一番の思い出は、という質問には「プロ初安打を福岡ドームで打てたこと」と、1997年4月13日のオリックスブルーウェーブ戦での一打を挙げました。また、「この常勝ホークスの中でプレーさせていただいたことは僕の誇り。その場に居られたことが嬉しかった」と振り返りました。
しかし、ここ数年は腰痛などもあって出場機会が減少。「引退を決断したのはこの1週間くらいの間だったけど、この1年は考えるものがあった。今季終盤に一軍に上がったが、若い選手のガムシャラさを見て、アイツらを上回る気持ちがあるのかと自問自答した。それがないと思ったし、ここ数年は僕の思っている野球、『打って、守って、走る』が揃う野球ができなくなっていた」と現役引退に至った経緯を話しました。
それでも、柴原選手には、いつもヤフードームで大きな声援が飛んでいました。「その声に後押しされたから、ここまでやってくることが出来た。感謝してもしきれないくらいです」と笑顔。「本当は泣きたい。嬉し泣きもしたい。けど、『ありがとう』という言葉で」と話すと、しかし、目には涙が溜まっていました。
今後については未定としながらも「僕自身はまたホークスに帰ってきたい。コーチとして戻ってきたい。今からは、それに向けた野球の勉強をします」とビジョンを明かしました。
柴原選手、15年間本当にお疲れさまでした。そして、たくさんの夢と勇気を、ありがとうございました。
参考 HAWKS HP
2011年11月9日掲載
田尻 耕太郎(ホークスオフィシャルメディア)さま
ありがとうございました。
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