書くということ。
読むことが、呼吸するならば、
書くということが自分にとってどういうことなのか?
考えてみました。
自己表現
簡単にいえば、そういうことなのかなぁ・・・・
とも思います。
日記やブログに関して言えば、ほぼ、そうだと言える。
そのとき思ったことや考えていることを書いているから。
ただ、小説やマンガに関しては・・・・
ん~、ちょっと違うかなぁ~とも思う。
自己表現という、一面は否定しないが、
『物語』に関しては、私の想像であって想像ではないからだ。
話つくりは人によって違うと思いますが、
私は映画のように、脳内にある日突然映像が生まれます。
こういうお話が書きたい、とか、書こうではではなくて、
『ぽん』て湧いてくるのです。
脳内で勝手に映画が流れ出し、
俳優達が勝手に台詞を紡ぎ、
物語はどんどん進んでいきます。
私がすることは、ただ鑑賞するだけです。
オリジナルに関して言えば、
台詞で悩んだことは、実はほとんどないです。
悩むのは、脳内の状況をいかに正確に伝えられるかです。
背景や歴史、人間関係、風景、香りや手触り・・・・・
どれだけ正確にかつ、わかりやすく他人に伝えられるかです。
はっきりいって、私の脳内映画は
かなり!!面白いです!!
すげー、おもしろいの
だって脳内映画で泣けちゃうくらいだよ
私が書きたくてしょうがないと思うのは
その面白くてしょうがない話が、
脳内に溢れているから。
な自分が紙面で物語として、読みたいから。
そして、どうせ読むなら独りよがりではなく、
物語として、ちゃんとした形で読むたいからこだわってしまいます。
残念なのは私自身のボキャブラリーの少なさから、
表現力が落ちてしまうこと。
私自身が生きてる世界と違いすぎるためにどう表現したらよいのかわからないものもあるということです。
階級制度などもそのひとつです。
脳内では階級制度がきちんとあって、
誰が偉いか、どういうつながりになっているのか、
ちゃんと分かれているのに、
私自身が詳しくないために、
表現するさい、他人でもわかるようにする「名称」がわからない・・・・
なんで私がわからないのに、階級制度などが脳内映画で見れるかは謎
だから実際は私の書く物語の何十倍も脳内はおもしろいです。
私が勉強不足なために・・・・・ううううう。
こんな妄想をいつから見ているかというと・・・・
わかりません。
を読むという行為と一緒で物心が付く前からだったようです。
小さい頃から独りが好きな子でした。
『ぼー』としている時間が多い子でした。
嘘のようですが、とても内気だった私です。
それもこれも、たんに常に脳内映画が放映されており
その鑑賞に忙しかっただけと、思われます。
自分を登場人物にするのではなく、
自分が物語の登場人物になりきって
よく人形遊びや独りおままごとをしていました。
ええ。危ない奴です。
の近所の野原をぼーと何時間でも散歩しているのが好きでした。
かなり、変わった子だったようです。
『こういう子だ』と、そのまま受け止めてくれた家族に感謝です。
ただ、その映像を紙におこす(書く)という行動をするようになったのは結構大きくなってからです。
初めは起こしたくても、まず手段を知りませんでした。
知ってからは自分の持っている腕では
全然、ちっとも表現できないという自覚があったからです。
今でも表現しきれず、いらいらします。
絵を書くのは、ほとんどの子供がそうなように小さい頃から好きでした。
文章を書くのがと自覚したのは小学に入ってからです。
みんなが「ぶーぶー」言う、
作文や詩、感想文を書くのが嫌どころか、楽しかったからです。
特に詩を書くのが好きだった思い出があります。
もちろん、今でも一番好きな形式です。
小さな自慢ですが(自慢かよ)
作文も感想文も詩も全国コンクールなどで
それなりに賞はいただいたりなんかしてるんですよ。
なんで文才はちょっとくらいはあると、
思い上がっていたのですが、それでも脳内映像には勝てない
それでも、紙におこし始めたのは
こんなおもしろい話を忘れたくなかったからです。
映画鑑賞しても何年かしたら、記憶が怪しくなってしまうでしょう?
脳内映画も同じことがおきると気付いた時から
頑張って紙面におこすようにしています。
自分の考えをまとめるように長々と書いてきましたが
結局のとこ、
私の書くということは読みたいから
ということらしいです。
私はしょせん、私という、とてもらしい結論。
読むことが、呼吸するならば、
書くということが自分にとってどういうことなのか?
考えてみました。
自己表現
簡単にいえば、そういうことなのかなぁ・・・・
とも思います。
日記やブログに関して言えば、ほぼ、そうだと言える。
そのとき思ったことや考えていることを書いているから。
ただ、小説やマンガに関しては・・・・
ん~、ちょっと違うかなぁ~とも思う。
自己表現という、一面は否定しないが、
『物語』に関しては、私の想像であって想像ではないからだ。
話つくりは人によって違うと思いますが、
私は映画のように、脳内にある日突然映像が生まれます。
こういうお話が書きたい、とか、書こうではではなくて、
『ぽん』て湧いてくるのです。
脳内で勝手に映画が流れ出し、
俳優達が勝手に台詞を紡ぎ、
物語はどんどん進んでいきます。
私がすることは、ただ鑑賞するだけです。
オリジナルに関して言えば、
台詞で悩んだことは、実はほとんどないです。
悩むのは、脳内の状況をいかに正確に伝えられるかです。
背景や歴史、人間関係、風景、香りや手触り・・・・・
どれだけ正確にかつ、わかりやすく他人に伝えられるかです。
はっきりいって、私の脳内映画は
かなり!!面白いです!!
すげー、おもしろいの
だって脳内映画で泣けちゃうくらいだよ
私が書きたくてしょうがないと思うのは
その面白くてしょうがない話が、
脳内に溢れているから。
な自分が紙面で物語として、読みたいから。
そして、どうせ読むなら独りよがりではなく、
物語として、ちゃんとした形で読むたいからこだわってしまいます。
残念なのは私自身のボキャブラリーの少なさから、
表現力が落ちてしまうこと。
私自身が生きてる世界と違いすぎるためにどう表現したらよいのかわからないものもあるということです。
階級制度などもそのひとつです。
脳内では階級制度がきちんとあって、
誰が偉いか、どういうつながりになっているのか、
ちゃんと分かれているのに、
私自身が詳しくないために、
表現するさい、他人でもわかるようにする「名称」がわからない・・・・
なんで私がわからないのに、階級制度などが脳内映画で見れるかは謎
だから実際は私の書く物語の何十倍も脳内はおもしろいです。
私が勉強不足なために・・・・・ううううう。
こんな妄想をいつから見ているかというと・・・・
わかりません。
を読むという行為と一緒で物心が付く前からだったようです。
小さい頃から独りが好きな子でした。
『ぼー』としている時間が多い子でした。
嘘のようですが、とても内気だった私です。
それもこれも、たんに常に脳内映画が放映されており
その鑑賞に忙しかっただけと、思われます。
自分を登場人物にするのではなく、
自分が物語の登場人物になりきって
よく人形遊びや独りおままごとをしていました。
ええ。危ない奴です。
の近所の野原をぼーと何時間でも散歩しているのが好きでした。
かなり、変わった子だったようです。
『こういう子だ』と、そのまま受け止めてくれた家族に感謝です。
ただ、その映像を紙におこす(書く)という行動をするようになったのは結構大きくなってからです。
初めは起こしたくても、まず手段を知りませんでした。
知ってからは自分の持っている腕では
全然、ちっとも表現できないという自覚があったからです。
今でも表現しきれず、いらいらします。
絵を書くのは、ほとんどの子供がそうなように小さい頃から好きでした。
文章を書くのがと自覚したのは小学に入ってからです。
みんなが「ぶーぶー」言う、
作文や詩、感想文を書くのが嫌どころか、楽しかったからです。
特に詩を書くのが好きだった思い出があります。
もちろん、今でも一番好きな形式です。
小さな自慢ですが(自慢かよ)
作文も感想文も詩も全国コンクールなどで
それなりに賞はいただいたりなんかしてるんですよ。
なんで文才はちょっとくらいはあると、
思い上がっていたのですが、それでも脳内映像には勝てない
それでも、紙におこし始めたのは
こんなおもしろい話を忘れたくなかったからです。
映画鑑賞しても何年かしたら、記憶が怪しくなってしまうでしょう?
脳内映画も同じことがおきると気付いた時から
頑張って紙面におこすようにしています。
自分の考えをまとめるように長々と書いてきましたが
結局のとこ、
私の書くということは読みたいから
ということらしいです。
私はしょせん、私という、とてもらしい結論。