「龍馬暗殺」150年目の真相 追悼特集① 暗殺した責任者は?日本史最大のミステリー
2017/11/12 http://888ichigo.blog.fc2.com/blog-entry-96.html 「安田一悟の異次元歴史ミステリー」さんより
「明治維新」へ大詰めの朝廷工作が岩倉具視や大久保利通などによって押し進められていた 11月15日の夜に、「薩長連合」と「大政奉還」を斡旋した坂本龍馬と中岡慎太郎が、何者かによって京都河原町の醤油商近江屋で暗殺された。それが「どのような真相であったのか?」これまで多くの本が出され、諸説があるも現在に至るまで謎のままである。調べてみると、この「龍馬暗殺」は、迷宮入りの謎になるような要素が多いが、真相を特定できないことはない。
まず勝海舟の日記によれば「松平勘太郎から聞いた。
龍馬の暗殺は、佐々木只三郎をはじめとして今井信郎らの輩が乱入したと。
佐々木には、上よりの指示があったのであろう。
あるいは榎本対馬か?」と記してある。
松平勘太郎というのは、幕末時代には大隅守信敏といい、「近江屋事件」の当時は大目付であって、
その配下には目付だった榎本対馬守道章がいたことから「指示したのは、あるいは榎本対馬か?」
と記しているが、これはあくまでも勝による推測である。
より正確には「佐々木や今井による『龍馬暗殺』は、上からの指示によるものであろう。
その指示したものが松平大隅守信敏の配下であった榎本対馬守道章かも知れない?」である。
しかし、この勝海舟の日記は「龍馬暗殺」の犯人の重要な手掛かりであることは間違いない。
なぜならば維新後の箱館戦争で捕えられた「元京都見廻組」の「今井信郎」の供述によって、
さらに詳しい情報がもたらされたからである。それによると「龍馬暗殺の刺客団は、
『京都見廻組』で、本人(今井信郎)の他に、佐々木只三郎、桂隼之助、渡辺吉太郎、
高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の7名」だったという。
今井は、リーダーの佐々木只三郎から「これは御指図である」と言われたという。
「御指図」とは幕府の重職者からの命令である。
元京都見廻組 今井信郎
それまでは「龍馬暗殺は『新選組』が首謀者であろう」と思われていたのが、
この今井の証言で「京都見廻組犯人説」が有力となった。
しかし今井自身は「自分は見張りをしていただけで、手を下していない」と主張した。
龍馬らを暗殺した「京都見廻組」の者は、今井以外は、すでに戊辰戦争で戦死していたので官軍は、
それ以上、追及することができなかったために、今井の身柄を静岡藩に預けて、
明治5年に特赦によって釈放されている。
今井信郎は「最後の剣客」と呼ばれた榊原鍵吉の門下生で、20歳で免許皆伝を得て、
講武所の師範代になっている。
維新後は、自由民権運動の「三養社」にかかわり、キリスト教に帰依して、
榛原郡初倉村(現在の島田市)の村長まで勤めている。
この今井信郎の「龍馬暗殺」の「京都見廻組犯人説」を裏付けるような大川隆法総裁の『龍馬降臨』
という「霊言」本が発刊されている。
この中で質問に答える形で、霊人になっている龍馬自身が「暗殺の真相」を語っている。
それによると「当時も名刺っていうもんがあった。そら、名刺っていうのは人を騙せるもんだな。
気いつけんといかんで、名刺を見て相手を信じたらいかん。だから、わしん時も、名刺というか、
木札みたいなもんで名乗ってきたので、(顔を)上げたら、やられた」
「相手は小太刀しか持ってなかったんじゃ。小太刀だけ持ってくる場合には、武士にとっては
『戦わない』という意味だからな。『話に来たのか』と思った。それもだなあ、小太刀も、普通は、
こう、左から右に抜くだろう?だけど右手でもってきてたんじゃ、小太刀をな。
だから、これ普通は『抜けない』と思うだろ?ところが左利きやったんじゃ、相手が。
左手で小太刀を抜いたんじゃ。その一瞬、ほんの一、二秒の油断だったな。そこは相手も考えたな。
計略に引っかかったんだ、実は。ちょっと知力戦だな」 と、相手が龍馬を完全に欺いてから、
一瞬の隙を見て小太刀を左手で抜いて襲いかかってきたと言うのである。
「一撃目は、横斬りできた。だから、わしの額、横に斬られたんだ。
ああ、この一撃で、最初、ちょっと機動力を失ったな。その後、床の間に走って刀を取りに行ったんだけど、
抜く前に、次、縦に斬ってきよったからな。この二擊目がなあ、脳の中にズバッと入りよってな、
この二擊目で、わしぁは、動けんようになってしもうたんじゃ。
そのあと三擊目が来たと、確か思うがな」と、暗殺された様相をリアルに語っている。
龍馬は「斬られたら痛いぜよ。犯人は、あえて言えば『見廻組』だろうなとは思うが…」
と証言している。
「見廻組」とは、幕府が「新選組」を設置した翌年の1864年4月に京都守護職の配下として
組織された特殊治安維持部隊で、その任務は「新選組」とほぼ変わらない。ただ「新選組」が
浪士結社であるに対して、「見廻組」は幕臣の次男と三男をもって結成された400名からなる組織で、
それぞれ200名ずつ、2組に分かれていた。その1組の与頭が佐々木只三郎である。
佐々木は、神道精武流を学び「小太刀日本一」と称され、もとは幕府講武所の剣術教授方をしていた
幕臣きっての剣客で清河八郎を麻布一ノ橋付近で不意打ちにて暗殺した居合の達人でもある。
以上の「今井の証言」と「龍馬の霊言」から「龍馬暗殺」の当日の真相を再現すると、こうである。
幕府の京都所司代が、配下の伏見奉行が寺田屋で龍馬を取り逃がしたことから、血眼になって
龍馬の行方を探索していたところ、幕府側の諜吏の増次郎という者が、近江屋に逗留していることを
突き止めた。しかし龍馬が、あまりにも大物であったので、腕の立つ「京都見廻組」に任された。
[見廻組」の与頭・佐々木只三郎は、特に腕の立つ者たちを集めて刺客団を編成して、暗殺の日の
昼過ぎに上京区智恵光院の松林寺に集結させて打合せをした。まず桂隼之助を十津川郷士になりすませて、
近江屋を訪問させて「才谷先生は、ご在宅でしょうか?」と尋ねさせている。これに近江屋の主人
井口新助が何の警戒もせずに「いま他行中です」と答えてしまったのである。これで刺客団は、
龍馬が近江屋に逗留していることを確認して、その夜の9時過ぎに、佐々木只三郎が客を装って
近江屋の戸を叩いた。元力士で護衛の山田藤吉が応対に出て「すでに本日の商いは終わりましたが」
と告げたが、なおも佐々木只三郎は、松代藩士と書いた偽名の木札を差し出して
「坂本先生に、至急お目通し願いたい」と申し入れた。
京都見廻組与頭・佐々木只三郎
仕方なく藤吉が、龍馬に取り次ごうとして2階に上がったので、かねての手はずの通り、
今井信郎、桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎らが近江屋の勝手口から入り、そのまま2階へ駆け上がり、
藤吉の背後を一刀のもとに袈裟懸けに斬り伏せた。その叫び声と階段を転げる大きな音が、
悪ふざけをしている声に聞こえたので、龍馬が思わず「ほたえな」(土佐弁で、騒ぐな)と
声を発したので、所在していた二階の部屋が、ほぼ特定されたのであろう。
もしこの時、藤吉の声が、ただならぬものと龍馬が気がついたならば歴史は変わっていただろう。
でもそうはならなかったのである。
一行は何食わぬ顔で、龍馬らがいた八畳の部屋に入り、「坂本先生、お久しぶりです」と、
手をついて挨拶をした。「はて、どなたでしたかな?」と、龍馬が出された松代藩と書いた木札を確かめた、
その一瞬の隙をついて、左手で小太刀を抜刀して、横一閃に薙ぎったのである。
龍馬は、すぐさま床の間に走って刀を取り、ひるがえして刀を抜く前に、次に縦に振り下ろしてきた刀を
鞘ごと受け止めたが、その鞘を削って、龍馬の額に刀がズバッと入ってきた、この二撃目の刀が致命傷となった。
残る暗殺団のリーダーの佐々木只三郎は、2階の上り口に、今井信郎らは、表口と裏口を見張っていた。
しばらくして桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎らが2階から下りてきて
「龍馬の他に合宿している者(中岡慎太郎)がいたが、手に余ったので、龍馬を打ち取り、他2名も
斬りつけ傷を負わせたが、生死の程は分からない」と報告した。
与頭の佐々木只三郎が「それならば仕方ない」として、早々に近江屋からの引き揚げを命じたので、
すぐさま引き揚げた。
こうして坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺は、瞬時にして行われたのであった。
中岡慎太郎は、全身十数箇所メッタ斬りにされて意識が混濁しながらも2日間生き延びて、
駆け付けた土佐藩士の谷干城に暗殺現場のことを語った。
それによると、刺客は二人で、松代藩の木札を出すや、「こなくそ」と言って襲撃してきたという。
龍馬が絶命状態に斬られた後に、刺客の一人が慎太郎にとどめを刺そうとすると、もう一人が
「もうよい、もうよい」と言ったので、とどめは刺されなかったという。
また北白川から駆け付けた陸援隊の副長である田中光顕の証言では「賊は、松代藩と名乗った。
ものも言わず斬りかかってきた」と証言しており、谷の証言とは食い違っているのである。
最後に中岡は「早く倒幕の挙を実行しなければ、却って敵のために逆襲される。
同誌の奮起を望む」と、切実な遺言をして息を引き取っている。享年30であった。
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その中で『龍馬暗殺の真相』があります。関心があれば、どうぞごらんください。
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