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戦後韓国はどうやって竹島を奪ったか―竹島問題の現位置

2015年09月07日 11時40分34秒 | 歴史・動画 

戦後韓国はどうやって竹島を奪ったか―竹島問題の現位置

『別冊正論』  別冊正論「総復習『日韓併合』」より一部抜粋 
藤井賢二(島根県竹島問題研究顧問)http://ironna.jp/article/1771?p=1

韓国の竹島不法占拠

「我々は、いま島根県の一角を韓国の暴力によって侵されようとしているのだ。武力なき平和国家が理解なく善意なき武力によって脅かされつつある。これは(略)わが国にとって決定的な重大問題である」
「島根県」を「沖縄県(東京都でもよい)」に、「韓国」を「中国」に置き換えれば、まるで現在の日本の危機を描いたかのようなこの文章は、60年以上も前の昭和28年7月15日に島根県の地元紙山陰新報(現山陰中央新報)に掲載された社説「韓国船の発砲と竹島の脅威」の一節である。この社説は7月12日に竹島で起きた巡視船「へくら」への銃撃事件に衝撃を受けて、不法占拠への警鐘を鳴らしたものであったが、その訴えは届かなかった。
 翌29年8月23日には巡視船「おき」への銃撃事件、同11月21日には巡視船「へくら」「おき」への砲撃事件が起き、日本人の竹島への上陸は不可能になっていく。竹島での日本人の漁労は、29年5月3日に隠岐島五箇村久見漁業協同組合の組合員が島根県漁業取締船「島風」に乗船して実施して以来行われていない。

7月12日の銃撃事件の前に「へくら」に乗り込んできた韓国人警官は境海上保安部長に「李ライン、マッカーサーラインで見ても韓国領土であるだけでなく、第二次世界大戦終結後日本講和条約まで何も言わずに今さら日本領土というのは韓国領土に対する侵略行為ではないか」と、竹島が韓国領であることを主張したという(『獨島問題概論』)。

韓国政府外務部政務局刊
「獨島問題概論」

 この主張がまったくの誤りであることは言うまでもない。李承晩ラインは、27(1952)年1月18日の「隣接海洋に対する主権に関する宣言」いわゆる李承晩ライン宣言で韓国が設定し、竹島をこの海域に含めたものであるが、一方的に公海上に線を引いて主権を及ぼす行為が認められるはずがない。

 占領軍が竹島への日本人接近・上陸を禁じたマッカーサーラインは日本人の漁業の限界線を定めたもので領土の最終決定とは関係がないことは、マッカーサーラインを布告した指令(SCAPIN-1033))にも明記されていた(韓国が根拠の一つにする竹島を行政上一時的に日本から分離したSCAPIN-677も同様)=地図A
 日本の領土の最終決定は日本が戦勝国である連合国との間で結ぶ対日講和条約で行われた。韓国は連合国=戦勝国ではなかったが、26年7月19日に竹島を日本領土から除くことを、講和条約作成を進めていた米国に要求した。

 米国は調査した上で、8月10日に「独島すなわち竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことは決してない。1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われない」と記した文書(「ラスク書簡」)で韓国の要求を拒否。26年9月8日に調印され27年4月28日に発効するサンフランシスコ平和条約では、竹島の日本領としての地位に変化がなかった。これは東海大教授、塚本孝氏の研究でよく知られている事実である。
竹島は朝鮮の領土であったことはなく、島根県の一部であると記した「ラスク書簡」
 
 サンフランシスコ平和条約第二条a項「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」の文言だけを見て、竹島の名前はないが「含む」のだからここに記されていない他の多くの島々と同様に竹島も日本が放棄したのだという主張があるが、そうではない。

 なぜなら、条約解釈の基本ルールとしてウィーン条約法条約第三二条があり、そこでは、条約の意味を確認するため、または不明確な意味を決定するため「解釈の補足的な手段、特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情に依拠する」とされる。対日講和条約作成の過程で竹島に関する韓国の要求を米国が拒否したことは、これに当たるからである。

 また、サンフランシスコ平和条約には韓国の要求で追加されたり韓国が対日外交を進める上で利用したりした条文があったにもかかわらず、韓国はこの条約の署名国ではなかった(韓国は戦勝国として対日講和条約に署名することを米国に要求したがこれも拒否された)のだから、この条約に拘束されないという主張がある
さらには、この条約第二一条に韓国は第二条による「利益」を享有することができるとあるのだから「損害」を被ることはできない、よって竹島は日本の領土ではないという主張もある。だが、竹島が連合国との関係では日本領になったが、韓国との関係では日本領ではないということはあり得ない。サンフランシスコ平和条約では、竹島の日本領としての地位に変化がないことを否定しない限り、これらの主張は成り立たない。
日本の被占領期、マッカーサーラインによる規制以外にも在日米軍の爆撃訓練場とされたこともあって、日本人は竹島に近寄れなかった。この間に韓国人が竹島で密漁をしていた。先の韓国人警察官の主張は、竹島領有の根拠を国際条約ではなく、日本人がいない間に韓国人が竹島で行った不法漁労に求める誤ったものであった。

韓国による竹島の「聖地化」

昭和28~29年の竹島不法占拠の時期に、日韓両国は竹島の領有をめぐって計6通の口上書の応酬を行い、そして不法占拠を正当化する主張を韓国は作り出した。

27年1月28日に日本政府が送った李承晩ライン宣言への抗議文や、2月12日の韓国政府反論文(これらが国際法的な領土紛争の開始を意味する)では、漁業問題が主で竹島問題には文面の六分の一程度しか割かれていなかったが、この時期に論争は全面的なものになった。
28~29年に韓国は竹島を自国領とするさまざまな「根拠」を持ち出す。あいまいさの拭えない朝鮮古文献にある「三峯島」「可支島」に代わり、「于山島」を竹島と主張するようになった(ただし「于山島」を竹島と証明することも韓国はできていない)。それまでの韓国の主張では欝陵島までしか行っていなかった安龍福が、1696(元禄9)年に「独島に至って『ここも我が領土であるのを知らないのか』と」日本人を一喝したとなり(崔柄海「光復された独島の領有権を主張する」『国防』二六 国防部政訓部1953年)、韓国の根拠の一つになった。そして、明治38年(1905)年の竹島の日本領編入を侵略として激しく非難するようになったことが重要である。
 昭和28~29年に日韓間で応酬された口上書のうち最後の29年10月28日の韓国の口上書で「独島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国の領土であった」という主張が登場する。竹島は明治38年1月28日、島根県隠岐島司の所管とすることを明治政府が閣議で決定し、同2月22日(平成17年に島根県はこの日を「竹島の日」と定めた)に島根県知事がこれを告示した(「島根県告示第四〇号」)。

韓国はこの告示と、その五年後の明治43年の日韓併合とを結び付けた。この口上書は「韓国国民にとって独島は東海の果てにある一個の小島であるだけでなく、それは日本と相対する韓国主権の象徴であり、韓国主権の保全を試験する実例だ」と続く。こうして、竹島は日本海に浮かぶ岩だらけの小島ではなく、韓国そのものになっていった。竹島の「聖地化」が始まったのである。
しかし、「独島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国の領土」という主張は事実ではない。この主張が成立するには、明治38年以前に、李氏朝鮮や大韓帝国など朝鮮半島にあった政府が竹島を領有していたことを示さねばならないが、韓国にはそのような証拠はないからである。
 とりわけ、韓国政府が同年以前に竹島を「欝島郡」(欝陵島)の管轄にしたとする、1900(明治33)年10月25日の「勅令第四一号」について、勅令の「石島」が竹島だという韓国の主張を証明する文献は見つかっていない。「現在、私たちは『石島=独島』説を立証する作業の他に、1905年以前の我が国の実効支配を立証しなければならない二重の課題を抱えている」(『独島研究ジャーナル』二六号 韓国海洋水産開発院2014年)と研究者が述べざるをえない状況に韓国はある。

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明治39年3月の島根県の竹島視察で撮影された竹島。左が五徳島、中央の直立した岩が観音岩(今岡ガクブチ店提供)
 
 にもかかわらず「独島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国の領土」という主張は、呪文のように幾度も日本に対して発せられる。平成23年8月に欝陵島(竹島ではない)視察を計画して韓国の金浦国際空港に到着した3人の日本の国会議員の入国を拒否した際も、24年8月10日の李明博大統領の竹島上陸に対して日本政府が行った竹島問題の国際司法裁判所への付託等を求める提案を拒否した際も、そして26年1月28日の学習指導要領解説(中学、高校の社会科)の一部改定への抗議の際も、そうであった。

 文部科学省の「中学校学習指導要領解説社会編〔地理的分野〕改定では、日韓間に「竹島をめぐって主張に相違がある」から、竹島は「我が国の固有の領土であるが」「韓国によって不法に占拠されている」と、強くかつ明確な表現に変わった。
 これに対して韓国政府は「日本帝国主義の侵奪の最初の犠牲物である独島に対して、日本政府が誤った主張を続けてこれを子孫にまで教えようとするのは、日本がまだ歴史歪曲と過去の帝国主義に対する郷愁を捨てられないことを克明に見せるもの」だと非難したのである(同年1月28日付中央日報電子版)。

不法占拠の正当化

 昭和27年12月4日、韓国は「ラスク書簡」を再確認する書簡を米国から受け取った。駐韓米国大使館が韓国政府外務部に送ったその書簡には「大使館は、外務部の書簡にある『独島(リアンクール岩)は…大韓民国の一部である』という言明に注目します。合衆国政府のこの島の地位に対する理解は、ワシントンの韓国大使に宛てたディーン・ラスク国務次官補の1951(昭和26)年8月10日付書簡において述べられています」と記されていた(『独島資料Ⅱ 米国編』韓国国史編纂委員会2005年)
 「外務部の書簡」とは、昭和27年9月15日に起きたという米軍機竹島爆撃事件についての11月10日付の米国への抗議文のことである。
韓国政府外務部政務局が昭和30年に刊行した『獨島問題概論』にもこの書簡は収録されている。この本の序文に、関連する外交文書は「原文通りに掲載」と記されているが、驚くことに上記「大使館」以下の部分が「etc」としてそっくり削除されているのである(この事実は島根県竹島問題研究会の山佳子氏が発見=「韓国政府による竹島領有根拠の創作」『島根県竹島研究会第二期最終報告書』 平成24年)
 「獨島問題概論」の序文に「本概論は公表を目的としたものではなく、各在外公館長が本問題を正しく理解して日本人の不当な宣伝に対応するのに参考となるよう考えて発刊」とあるが、これではサンフランシスコ平和条約で竹島が日本領として残った事実が「正しく理解」できない。

「ラスク書簡」の存在を隠蔽しようとするこのような韓国政府の対応でわかるように、竹島不法占拠は国際条約に反して強行された韓国の失態であった。韓国の「在外公館長」にすら知らされていなかったこの重大な事実を一般の韓国人が知っていたとは考えにくい。「独島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国の領土」であったが「解放とともに独島は再び我々の胸に抱かれた」という主張を韓国人は声高に叫ぶようになった。
この主張は、日本人を非難する以上に、韓国人を納得させ高揚させることに効果がある。領土紛争においては占拠している側は静かにしているという常識に反し、日本の動きに何かあると反応せずにはいられなくなり、結果として竹島が紛争地域であるという印象を世界に発信する韓国の不思議な行動も、この主張の行き過ぎた効果であろう。
 平成24年の李明博大統領の竹島上陸に際し、野田佳彦首相は8月24日に次のように述べた。竹島問題の本質を的確に表現している。

 「竹島は歴史的にも国際法上も、日本の領土であることは何の疑いもありません。(略)一九〇五年の閣議決定により竹島を島根県に編入し、領有の意思を再確認しました。韓国側は我が国よりも前に竹島を実効支配していたと主張していますが、根拠とされている文献の記述はあいまいで、裏づけとなる明確な証拠はありません。戦後、サンフランシスコ平和条約の起草の過程においても韓国は日本による竹島の放棄を求めましたが、米国はこの要請を拒否しています。こうした経緯があったにもかかわらず、戦後、韓国は不法な李承晩ラインを一方的に設定し、力をもって不法占拠を開始したのです。竹島問題は、歴史認識の文脈で論じるべき問題ではありません。戦後の韓国政府による一方的な占拠という行為が国際社会の法と正義にかなうのかという問題であります」

 竹島問題で日本がなすべきことは、「独島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国の領土」という主張、すなわち「歴史認識の文脈で論じる」韓国に粘り強く反論すること。そして、サンフランシスコ平和条約で竹島が日本領と決定したにもかかわらず、韓国が不法占拠した事実を発信し続けること、すなわち「国際社会の法と正義」を貫くことである。
 
 
中略

竹島問題の現状

 島根県の「竹島の日」条例制定は韓国を刺激し、平成24年の李明博韓国大統領の竹島上陸という事態を招いた。この結果国民の関心も高まり、日本政府も竹島問題への取り組みを強めつつある。

 日韓条約が結ばれた昭和40年、佐藤首相は「竹島問題が解決しないかぎりそのほかの日韓懸案を進めないというわけにはいかない事情なので、この点を地元でもよく理解してほしい」と島根県知事に述べて(同10月8日付島根新聞)、竹島問題は「寝た子」にさせられた。

 53年には島根県は鳥取県と共闘して竹島近海での日本漁船安全操業をめざしたが、かなえられなかった。しかし今、竹島問題は国民的課題になっており、島根県は過去の限界を越えつつあるように見える。
ただし、現在の竹島問題に関する言説には懸念されるものが多い。

 まず、日韓友好のために竹島を共有しようという主張が日本人の間にある。背景にあるのが次のような考え方である。「日韓両国の言い分はそれぞれあって、どっちが百点という話じゃないだろう。どちらにも言い分はあり、日本政府の主張にもおかしな部分があるのは間違いない」(「領土という病―国境ナショナリズムへの処方箋―」平成26年)。これは17年3月27日付朝日新聞で、日本が竹島を譲るかわりに韓国が「周辺の漁業権」を譲ることを提案した元朝日新聞主筆の若宮啓文氏(当時は論説主幹)の発言である。

 このような日韓主張のどちらにも瑕疵があるから双方とも譲歩すべきだという「相殺論」に説得力はない。韓国は現在の日本の領土を最終決定したサンフランシスコ平和条約に反して竹島を不法占拠した。根拠のある日本の主張にも間違いがあるとすれば、韓国の主張には根拠自体がないのであり、根拠のあるものとないものを同等に扱うことはできない。

 この竹島領有根拠「相殺論」は日本の主張に疑問を抱かせ、その結果韓国を助けているのである。

 次に、朝鮮半島にあった政府が竹島を自国領土として支配していた根拠を示さないまま、もっぱら日本と竹島の関わりを問題視して日本を動揺させようとする主張がある。

 とりわけ、明治10年に明治政府が出した「竹島ほか一島のことは本邦と関係がないものと心得よ」とした太政官指令で、竹島は日本領から除外されたのだという論者は多い(この主張に対しては「太政官指令『竹島外一島』の解釈手順」(http://ironna.jp/article/700)で説得力のある反論が行われている)

 しかし、これは日本政府内部におけるやりとりであって、日本政府が対外的に表明したものではない。仮に日本政府がこの時点で竹島の領有意志を持っていなかったとしても、後に領有することが認められないということはない。そもそも、相手国の領土主張を否定するだけでは自国領土であることにはならない(塚本孝「元禄竹島一件をめぐって―付、明治十年太政官指令」『島嶼研究ジャーナル』二巻二号)。

 明治10年の太政官指令をめぐる論議は、「日本領からはずされたならば朝鮮領になったのではないか」という錯覚を利用して日本を揺さぶろうとするもので、竹島問題の本質とは関係ない。竹島問題の本質に迫るためには、韓国は、明治38年以前に朝鮮半島にあった政府が竹島を自国領土として支配していた根拠を示し、その上で戦後韓国が国際条約に反して竹島を不法占拠したという主張に根拠を持って反論せねばならない。

 そして、竹島は古来欝陵島と一体だったという「属島論」がある。韓国の新聞が竹島を「独島」として報道し始めた昭和22年以降、韓国はこの主張を繰り返してきた。17世紀末の日朝間の外交交渉は欝陵島をめぐるものであって竹島ではなかったにもかかわらず、江戸幕府の欝陵島渡航禁止令で竹島は欝陵島とともに朝鮮領になったなどという主張もそうである。近年の韓国では「欝陵諸島」という言葉まで飛び出している(獨島研究保全協会二〇一三年学術大討論会)。
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竹島全景。手前が西島、後方が東島(昭和29年1月、産経新聞社機から撮影)
 
 日本統治期(明治43~昭和20年)についても、大正14年に欝陵島在住の島根県出身者がアシカ猟以外の漁業権を買い取って竹島で漁業をしたこと、その使用人の朝鮮人が竹島で密漁したらしいこと。これらから、日本統治期の竹島経営は欝陵島の一部の日本人漁業者が独占し、戦後日本人に雇われていた欝陵島の朝鮮人が「主体的に」渡航を行うようになった。さらには、日本統治期に竹島は隠岐島の「属島」から欝陵島の「属島」へと変化し、それによって解放後の朝鮮人の「実効支配」に繋がる基礎が形成されていったとまで書く論者が現れた。

 竹島の漁業権は本来島根県が隠岐の人々に許可したものであることや、竹島の行政権が朝鮮総督府に移った事実はないことを無視してここまで書く勇気には驚くが、大きな流れとして、韓国は昭和28~29年に「島」を奪い、53年に「海」を奪い、そして今日本とのつながりの「記憶」を奪おうとしている。

 以上三つの論点は、今後竹島に関する領土教育が進められる中で、教育現場でも避けることのできない問題となるであろう。

昭和28年夏の竹島

 2枚の写真がある。昭和28年に島根県と海上保安庁が共同で竹島調査を行い、6月27日に、島根県職員、海上保安官、島根県警察官総勢30人が竹島に上陸して、不法入国していた6人の韓国人を事情聴取しているものである。
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竹島に不法侵入して野営していた韓国漁民を事情聴取する島根県職員、同県警捜査員、海上保安官(昭和28年6月27日)
 
 県職員は報告書で次のように記す。彼らは欝陵島の漁民で6月9日に来島して海草を採取していたが、時化で母船が来ないため食料が無くなって困っていた。一昨日隠岐高校水産練習船鵬丸の乗員から米を与えられて救われた。自分たちを鬱陵島に送ってほしいと希望を述べた。彼らに対しては母船が到着次第速やかに退去するよう勧告した(『獨島問題概論』には、この時海上保安庁巡視船は米国旗で偽装し、昭和23年の米軍機竹島爆撃事件で亡くなった韓国人の慰霊碑を壊したという、信じがたい記述がある)。

 この事件に対応して、7月8日に韓国国会は「大韓民国の領土である独島に日本官憲が不法侵入した事実に対し政府が日本政府に厳重抗議」を求める建議文を採択した。そこでは主権侵害を防止するため「積極的な措置」をとることが記され、韓国はそのとおり実行した。冒頭に書いたように、7月12日に海上保安庁巡視船「へくら」が竹島から数十発の銃撃を受け、一発が船体に命中する事件が起きるのである。

 日本では、7月8日の衆院予算委員会で岡崎勝男外相は、韓国人は竹島にはすでにいないとして「韓国側も特に事を荒立てるという気持はないよう」なので「軍艦を派遣するとか何とかいうことは、さしあたり考えられない」と述べた。

 8月4日の衆院水産委員会では、5月28日に竹島に30人もの韓国人がいると島根県の報告がありながら1カ月放置した責任、発砲事件や韓国が竹島に要塞を築くという情報への対応を問う質問があった。

 岡崎外相は、最近の報告では竹島には異常はないとして「要塞云々のことは何かうわさで、間違いであろう」「国際紛争解決に武力を行使しないということは憲法の示すところ」
なので竹島問題の解決は「平和的手段によるべきもの」と答弁した。

 8月10日の同委員会では、竹島問題に日米安全保障条約が適用されるかという質問に対し、現在は「向こうの方は来ていないというような実情」なので「今ただちに竹島問題について駐留軍の行動を促すというような措置は、差し控えるべき」だという政府答弁があった。日本政府は紛争回避を優先し、竹島不法占拠を強行する韓国の意図を見誤った。

 6月30日に柳泰夏駐日韓国代表部参事官が外務省を訪問して「報道によれば竹島で韓国船が日本側に拿捕され、韓国漁民が拉致されたというが、これは本当」かと質問した。七月七日の韓国国会では、この報道は誤報であって「独島を日本人が占拠している事実はない」という駐日代表部の報告が読み上げられた。

 竹島に上陸した韓国人に対する措置が逮捕ではなく退去勧告にとどまったこと、公務員常駐など竹島の管理強化をしなかったこと、これらの日本の対応は韓国を増長させた。

 写真でわかるように、昭和28年6月27日の竹島は日本が管理していた。「日本船舶の不法領海侵入と彼らの脅迫的な態度と言動で純真な韓国人漁労者たちは、不安と恐怖で漁労を中断する」(『獨島問題概論』)状況が同日直後の竹島にはあった。なぜこの状態を日本が維持できなかったかを考えねばならない。
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昭和28年6月27日の島根県と海上保安庁の共同調査では「島根県穏地郡五箇村(現・隠岐郡隠岐の島町)竹島」の行政区域標柱が設置された(海上保安庁提供)
 たしかに、貧弱な装備で韓国と対峙せざるを得なかった当時の海上保安庁の苦境は察する必要があろう。

 28年7月12日に巡視船「へくら」に乗り込んで来た韓国警備官は「へくらが自分等の船より大きいのと、武装しているのではないかと内心おそれているようであったが、へくらに機関銃一つ、小銃一つないのを見てとると急に態度が大きくなった」(『キング』28年11月号)、「警備船程度の装備しかない海上保安庁では実力をもって韓国官憲に対し対抗することは難しく、外務省としては警備隊の実力を行使することなく平和的に解決したい方針である」(28年7月14日付毎日新聞東京本社夕刊)とある。

 翌年海上自衛隊になる警備隊の竹島防衛への出動という選択肢は日本政府にはなかった。この年の夏、警備隊が行ったのは、韓国による竹島不法占拠阻止ではなかった。6月28日から7月10日まで実施された、関門トンネルも水没して通行不能になるほどの西日本各地の水害に対応して行った海上自衛隊史上初の災害派遣であった。

 竹島問題は、米国の庇護の下で対外摩擦を避けてきた戦後日本の象徴であるかのように私には思われる。昭和27年に日本は本当に独立したのか、それが今問われている。
 
 
ふじい・けんじ 昭和30年島根県生まれ。54年広島大文学部卒。55年から兵庫県の公立高校で地歴公民科(社会科)を教えつつ近現代の日本と朝鮮半島の関係史に関心を持ち続ける。島根県など山陰沖で激化した韓国漁船操業問題をきっかけに兵庫教育大大学院で本格的な研究に取り組む。平成13年修士課程修了。修士論文は「日韓漁業問題の研究―李承晩ラインとは何だったのか」。日本統治時代の朝鮮で水産業に従事し、戦後引き揚げた人たちを追った「朝鮮引揚者と韓国―朝水会の活動を中心に」(崔吉城・原田環編「植民地の朝鮮と台湾―歴史・文化人類学的研究」第一書房)など地道な聞き取り調査をも重視した実証的な研究を続け、21年に島根県竹島問題研究会委員に起用される。24年から島根県竹島問題研究顧問。近く「戦後日韓海洋紛争史」(ミネルヴァ書房)を刊行予定。
 
 
 

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1 コメント

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Unknown (泣き虫ウンモ)
2015-09-07 21:10:58
日本人の感覚に、支配権を及ぼしている=所有権という思考が根底にあるならば、危険なんですよね。

特に、資本主義の洗礼にさらされていない方々が権力や肩書きを所持して行使しようとした時に生じる不利益ですかね。

まぁ、何故に5~10年のうちに獲り返せなかったのかという意味では、反省の道しるべとして有用な意見であり研究だと思いますね。
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