信じられないくらい悲惨だった李斯朝鮮時代の刑罰

支那には南京虐殺事件の資料館があり、朝鮮には日帝支配資料館があります。
写真は、韓国「大韓民国独立記念館」にある、日本人による韓国人への拷問の様子を等身大の蝋人形です。
ちゃんとハングル文字で解説もつけられていて、要するに、日本帝国主義者が我ら同胞にこのような非道をしたから、自分たちはたちあがり、民族の独立を図ったと書いてあります。
要するに韓国の独立記念館には、日本官憲による独立運動家に対する拷問の光景を再現した蝋人形が展示され、日本人は残虐な民族だという強烈な印象を訪問者に植え付けているわけです。
残酷な仕打ちをしているのは、日本統治時代の憲兵や警察官であり、殴られているのは朝鮮人だと書いてあります。
ところが不思議な事に、責めている官憲の顔は、どれも典型的なエラの張った朝鮮顔、責められている側は日本人顔です。
蝋人形をつくった人は、ちゃんとわかっていたのでしょうね。
それにしても韓国では、この記念館が小中学生の修学旅行の定番コースとなっています。
http://hosyusokuhou.jp/archives/37606931.html 沈んだ韓国船 対馬仏像盗難の浮石寺のそばの反日高校。修学旅行の行き先は済州島の抗日記念館で日本に対し謝罪と賠償を求める予定だった
当然、ここにやってきた韓国の小中学生たちは、日本への恐怖と憎しみをかきたてられる、ということなのですが、そもそもこういう残酷なものを小中学生に見せようとする神経が、そもそも異常です。
実際には、憲兵も警察官も、地域の防犯を担いますから、言葉や地理に詳しい現地人を採用せざるをえません。
つまり日本は朝鮮半島の統治にあたり、現地の朝鮮人を補助員として大量に採用していたのです。
そして犯人を捜し、検挙し、尋問するのは、かれら現地採用の朝鮮人の役割でした。
なぜそうなるかというと、言葉が通じないのです。
ですから直接の取調べは、言葉の判る朝鮮人にやらせるしかない。
つまり、この資料館で拷問をしている蝋人形は、日本人ではなく、朝鮮人です。
日本は、明治四十三(1910)年の日韓併合のとき、韓国の警察制度の近代化を図りました。
警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化しています。
なぜ軍の憲兵と警察の一元化を図ったかというと、朝鮮人官憲による横暴、拷問、暴力、強姦が、あまりに無差別に行われていたからです。
さらに事情があります。
当時「義兵」などと称して朝鮮人達が行った山賊団による犯行、親日派韓国人へのテロ行為が盛んに行われていたのです。
これらによる被害を防ぐためには、断固とした措置が必要でした。
そのためやむを得ず、普通ではあり得ない、警察力と軍事力(本来両者は全くの別物)との融合を、日本は半島で行っています。
そして憲兵・警察の補助要員として、韓国人を大量に募集しました。
日韓併合当時、日本が朝鮮半島に派遣した日本人憲兵は1,007人でした。
彼らは現地人を採用し、そこで韓国人「憲兵補助員」(あくまで補助員です)が1,012人誕生しました。
その後の増員によっても、日本人の巡査は2,265人、韓国人の巡査補助員は3,428人でした。
日本は、法律で、李氏朝鮮時代にはあたりまえのように行われていた拷問を禁止しました。
ところが、法で禁止したにもかかわらず、法の執行を行うべく採用した朝鮮人補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らそうとしました。
そして同胞であるはずの朝鮮人たちに、過酷な暴行をはじめたのです。
これが冒頭の蝋人形館の実際の姿です。
今村鞆(いまむらとも)といえば、明治41(1908)年に渡韓し、朝鮮半島内の警察部長や警察署長などを歴任し、その博学を活かして半島文化の啓発に貢献した人として知られる人です。
その今村鞆は、著書の「歴史民俗朝鮮漫談」(昭和三年刊)で、次のように書いています。
「朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、
下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、
後の日本に対する悪感情を生んだ。
いかに横暴だったか驚くべき事例を沢山知っており、
一冊の本ができる」
その「横暴」とはいったいどのようなものであったのか。
スウェーデンのジャーナリスト(アーソン・グレブスト)が、1904年に朝鮮国内を旅行取材した『悲劇の朝鮮』に、朝鮮の監獄内を彼自身が自分の眼で見たムチ打ち刑と、チュリの刑の光景が記載されています。
チュリの刑というのは、拷問してから殺す(死刑にする)という刑です。
何をするかというと、
死刑囚の脚の間に棒をはさみ、
死刑執行人がその端に体重をかけて
死刑囚の脚の骨を砕きます。
悲鳴をあげる死刑囚に、
追い打ちをかけるように腕と肋骨を折る。
そして最後に絹紐で首を絞めて殺す、
そしてそれを大勢で見物する、
というものです。
近代以前というより、もはや文明以前の鬼畜の姿です。
マッケンジーの『朝鮮の悲劇』(原著1908年)には次の記載があります。
ここでは、死刑囚でない単なる禁固刑の者も、監獄の都合で殺害してしまうのが、朝鮮の刑務所の常識であった事実が記されています。
「監獄は呪詛のまとであり、
拷問は自由に行われ、
周期的な監獄清掃に際しては
一時に数十名の囚人を絞首してしまい、
裁判は売買された」
シャルル・ダレの『朝鮮事情』には、次のように書かれています。
「死刑に際して面耳それぞれに矢じりを突き刺して首を刎ねるし、
首を切り落としたあと手足をバラバラに切断したりする」
実際、福澤諭吉など多くの日本と親交の深かった朝鮮人の金玉均は、1894年3月に上海で暗殺されたあと、翌年4月、朝鮮政府によって、遣体に対して
「首を刎ね、四肢を切断する」と
いう刑罰が科せられました。
しかも胴体は漢江に遺棄し、頭や四肢は京畿道の竹山に廃棄しています。
ムチ打ち刑も日本ではまるで考えられないものです。
そもそもムチ打ちは、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた朝鮮半島の伝統的な刑罰です。
旧韓国(日本統治直前韓国)の「刑法大全」(1905年)にも定められています。
この刑は、主に姦通罪の女性に対して行われていたものです。
長さ三尺五寸(106cm)、厚み二分七厘(8.2mm)といいますから、これはもうムチではなく、杖です。
この杖で罪人の臀部を打ち据えました。
叩くムチは、その長さが長く、厚みがあるほど酷いものとなります。
この長さと厚みでは、罪人は皮膚のみならず、肉も裂け、腰骨の骨折までもひき起こしてしまう。
刑務所(監獄)も酷いものです。
その不潔と残酷さは言語に絶するもので、食事はおかずなしの雑穀のみ。
大小便は垂れ流しで、もちろん風呂もない。
獄舎は狭く、一坪(畳二枚分)のスペースに、十五〜六人が収容されていたというですから、酷い話です。
そして収容しきれない囚人数を滅らすために、獄吏が勝手に囚人を殺して、「処理」をしていました。
国分三亥(こくぶさんがい、1908年に旧韓国の検事総長、のち統監府・総督府高等法院検事長)は、朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったとして、次のように回想しています。
「(京城の)鐘路監獄のごときさえも、
未決・既決の区別はほとんどなく、
獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、
乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました」
(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』友邦協会)
柿原琢郎(1920~22年の総督府監獄課長)も実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、次のように思い出しています。
「狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、
ただ無理押しに押し寵めてゐました。
一坪(畳二枚分)に十五、六人も押込むありさまで、
在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので一日に)を
三、四回交替にて横臥せしめてゐた。
作業上の設備も被服交換の準備なく、
終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、
監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした」
(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』友邦協会)
刑事事件の被告人や収監者だけではありません。
李氏朝鮮の時代の半島では、なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問するという不条理まで行われています。
こうした朝鮮にもとからあった、政府による極めて残酷かつ凄惨な無法行為に対し、服役囚にも人権を認め、人として処遇するように取り払ったのが日本です。
明治43(1910)年、条約に基づいて朝鮮半島を併合した日本は、この年の末には、まず「首チュリの刑」を全面廃止するとともに、すべての朝鮮の監獄での一坪当りの収監者数を三分の一の「約五人以内」に下げています。
さらに京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)をはじめ、半島内の全ての刑務所施設を、近代的刑務所に改善し、大正2(1913)年には、全道の獄舎において、獄舎一坪あたりの収監者数を約2.9人にまで大改善しました。
これにより、立ったままで横になることさえもままならなかった収監者たちが、「畳二枚に三名」、つまり少なくとも寝ることができるまでに大改造を施しています。
収監者たちにとって、これはまるで地獄が天国になったようなものであったといわれています。
またムチ打ちについても明治44(1912)年には「笞刑令施行規則」を定め、この第一条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断すること、および笞を小さくして、執行中に受刑者に飲水を与えることを定めています。
さらにこの法の第五条では、女性や16歳未満の男児への笞刑も禁止とし、さらにムチの長さも、従来の半分の一尺八寸(55cm)、厚みは二分五厘(7.6mm)と薄くし、痛みをそれ以前の朝鮮笞刑の数分の一に下げています。できるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのです。
ちなみに、朝鮮笞刑令について、その第13条に「朝鮮人に限り之を適用す」とあることから、一部の学者は、これを、
「朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するために制定した」
「異民族弾圧法であった」
などとデタラメを述べています。
完全に間違いです。
ムチ打ち刑は、李氏朝鮮の後にできた旧韓国の「刑法大全」(明治38(1905)年にも定められています。
李氏朝鮮時代から続く、韓国に古くからある刑罰です。
これを日本は、まず女子供へのムチ刑執行を禁止し、さらにムチそのものを軽く小さなものにし、半島人がある程度の経済力をつけたとみなされた大正9(1920)年には、日本は、完全に全廃したのです。
刑罰の中にムチ打ちを残したことにも明確な理由があります。
当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4〜5名が、月5円あれば1ヶ月食べていくことができました。
1円がそれほどまでに高額なものだったのです。
そしてその1円が、ムチ1回で済むのなら、その方が良いと考える収監者が後を絶たなかったし、そうすることで収監者は、家族を救うことができたのです。
要するに日本が朝鮮でムチ打ち刑を残したのは、刑罰を温情的に軽滅するためのことに他なりません。
しかも日本はわずか八年後には、ムチ打ち刑を全廃しているのです。
ところが、せっかくこうして法を定め、施設や食事を改良し、刑執行時における残虐性を排除して近代化を押し進めようとしても、日本人の下で補助員として働く朝鮮人の憲兵や警察官、刑務官などは、日本人から隠れてまで、同国人に対して酷い振る舞いを止めませんでした。
裁判所も同じで、日本ではたとえ刑事事件といえども、裁判所の法廷内で被告人に対して拷問や暴行が行われるなどおよそ考えられないことですが、朝鮮では、裁判所自体が被疑者を平気で拷問するということが日常的に行われていいました。
旧韓国政府の首席「法務補佐官」であった中村竹蔵は、次のように書き遺しています。
「平理院では法廷の取調の際に
しばしば拷問を行ふことがあつたから、
たびたび院長(李允用。李完用の兄)に対して
之を廃止するよう厳重に要求すると、
院長は午後遅くなって出勤するようになつた。
私が退庁するのをまつて
夜中に依然拷問行ふことが判り・・・」
(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』友邦協会)。
いやはやなんともすさまじい限りです。
最後にもうひとつ、謝永光さんが書いた『日本軍は香港で何をしたか』という本の抜粋をご紹介します。
香港で実際にあった出来事です。
最初の数日間は平穏無事で、
日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、
突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、
麻雀をしていた四人の女優を強姦した。
前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、
この男達は朝鮮人であった。
香港占領期間中、
多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、
一般の日本人よりも背が高く、
日本の正規軍よりも凶暴だった。
この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、
殆ど日本人の手先となって
悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも
朝鮮人を激しく憎んだ。
要するに彼ら朝鮮人は、当時の日本という虎の威を借りて、好き放題の横暴を働いていたということです。
そして戦後、日本がおとなしくなる(=弱くなる)と、途端に手のひらを返したように日本人への暴行を始め、さらには自分たちが行った悪辣非道な振舞を、全部日本人がやったこととして宣伝しはじめました。
いまの日本に、韓国や北朝鮮が居丈高になり、竹島を勝手に領有宣言したり、日本人を拉致したり、領海を越えてゴミの不法投棄をしたり、児童公園を勝手に横取りしたり、日本人の土地を奪って駅前でパチンコ屋を営んだり、政治を壟断しようとしたりするのは、要するに、
「日本人は弱い」
「日本人は恫喝すれば、すぐに言うことを聞いて金を出す」
「日本人はやさしいから、何をやっても許される」
等と思われているからです。
支那人や朝鮮人が、なぜ西洋人には媚びたのか。
それは彼らが徹底的に「報復」をする民族であることを、支那人や朝鮮人に、行動をもって教え込んだからです。これはかつてのジンギスカンの元帝国の統治手法と同じです。
おもしろいもので、虎の威を借りるタイプの者は、自分より弱い者には必ず居丈高になり、自分より強い者には、いやらしいほど卑屈になります。
これは獣(けもの)と同じ習性です。
やさしさはとても大切なことです。
しかし力のないやさしさは、身近な人の犠牲を伴うものであることを、日本人は歴史からしっかりと学ぶべきなのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2010年1月の記事のリニューアルです。
関連情報
http://hinode.8718.jp/photo_korea_torture.html
https://matome.naver.jp/odai/2139572308797938101
福岡一家4人殺害事件(ふくおかいっかよにんさつがいじけん)とは、2003年6月20日に福岡市東区で起きた、中国人留学生3名による強盗殺人事件
Mさん宅に押し入った中国人留学生グループ(中国人留学生だった王亮(ワンリャン 当時21歳)、楊寧(ヤンニン 当時23歳)、魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)の3人が犯人とされているが謎が多い)の内、
一人が最初に風呂場で入浴中だった奥さんのC子さんを強姦。
C子さんは当然必死に抵抗したが、顔や上半身を殴打したうえ、
髪を掴んで何度も壁や床に打ちつけた。
C子さんは気を失って座りこんだ。
H子ちゃんは顔を2、3発殴った後、軽く首を絞めて失神させただけで止めた。
他の二人が室内を物色中に長男のK君(11才)を見つけた。
大きな声をあげて抵抗したため顔や頭を殴打したあと、頚椎を折って殺害。
K君は発見後、顔が腫れあがっており、随所に青痣ができていた。
http://ameblo.jp/usausa2000/entry-10673472319.html
夫が帰宅するまでの間、暇つぶしとしてに奥さんを「拷問」 した。
その時、カード等の暗証番号を聞きだした。
「拷問」とは中国で『凌遅刑』と呼ばれ「生きたまま苦痛を与えつつ、順番に肉を刃物で切り取っていく」という陰惨なものである。
死亡した時、最後に肉を切り取った人間には罰ゲームがある。 その罰ゲームとは「8歳の娘のひなちゃんを殺す役」 そこで最終的に奥さんに致命傷を与えた男が娘の ひなちゃんを殺すことになった。
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
・南京大虐殺にすり替えられた通州事件とは? 更新
・【矢板明夫のチャイナ監視台】北京から帰国時に私の給与口座は「資産凍結」された 嫌がらせか、外貨流出阻止か 「改革開放は終わった」
・米中の経済摩擦、激化の恐れ 「市場経済国」認定めぐる攻防
今後の韓国で起きそうな事、日本人が注意しないといけない事
大荒れになるであろう来年の日韓関係と韓国の不幸