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「多様性の罠」:「みんな違ってみんな良い」の危険性とは何か? 【吉崎富士夫氏寄稿】
2025.01.26 The Liberty Web抜粋
過激な逆差別の傾向も生み始めた「多様性」
そもそもこの「多様性」という用語は、本来、地球環境問題が叫ばれる中で、
地球上に存在する多種多様な生物種を保護するという意味で
「生物多様性(バイオダイバーシティ)の保護」という概念で登場し、その後
「多様性」というところだけが、あらゆる場面で使用され、価値観として
独立した意味を持ち始めたと言えます。
多様性の罠にはまらない方法:神仏の視点を持てるか
そもそも神に創られた人間として、仏性相等しきを神から祝福された尊厳ある存在として
「みんな違ってみんな良い」とするならば、神の下の民主主義として一定の理解はできます。
それこそ、この地上での判定のみならず、死後の世界も含めれば、その価値判断に必ず
正邪の判定が下りますので、多様な価値観に基づく意見の相違や、その賛否についても
まずは両極端を排して、はじめから一方的に決めつけない姿勢は求めていくべきだと思います。
その上で、この地上世界の中で、社会的なルールに則って、社会規範を形成していく以上、
やはり一定の社会的合意を得るための秩序だった選択が必要になり、すべてが常に
同列にただ併存しているだけで良いと言うわけにもいかないはずです。
それが証拠に、本欄の過去記事にもあるように、最近は、社会制度の中で、
行き過ぎた「多様性」への保護や配慮が、社会的不公平を生み出すとの認識が共有され出して、
見直す動きも出てきており、社会的な揺り戻しも起きているように思います。
やはり、自らの心の中で、世に存在する多種多様な価値の中から、
本来、神仏の視点に立って許される価値とはどのようなものなのか。現代社会にある
多様な価値の中から、一つひとつ選び取っていくことが、智慧の介在でもあり、魂の成長になる。
これこそが現代社会の中に仕掛けられた価値観の「多様性の罠」
にはまらない方法とは言えないでしょうか。