沈没寸前の写真。

呉海軍工廠で、装備などを取り付ける艤装(ぎそう)中の戦艦大和=1941年9月撮影
【KSM】昭和天皇「沖縄は救えないのか?」戦艦大和、沖縄救援作戦発動 1945年4月7日鹿児島沖で撃沈
(沈没から70年)戦艦大和の最後を捉えた写真(海外の反応)
太平洋戦争末期の70年前の7日、鹿児島県沖で沈没した旧日本海軍の戦艦大和が建造された広島県呉市で、大和の元乗組員や遺族が参列して追悼式が行われました。 戦艦大和は呉市の旧海軍工廠で建造された世界最大の戦艦でしたが、昭和20年4月7日、沖縄に向かう途中の鹿児島県枕崎市沖でアメリカ軍の攻撃を受けて沈没し、3332人の乗組員のうち3056人が死亡しました。
沈没から70年となる7日、呉市の旧海軍墓地にある「戦艦大和戦死者之碑」の前で追悼式が行われ、大和の元乗組員や遺族などおよそ300人が参列しました。 式では全員で黙とうをしたあと、元乗組員としてただ1人、式に参列した広一志さん(91)が「乗組員の追悼とともに、若い世代に伝承することを通じて平和 な日本の繁栄に貢献することが、英霊の遺託に応える道であると確信する」と式辞を述べました。そして、桜の花が時折散るなか参列した人たちは、慰霊碑の前 に設けられた祭壇に花を手向けて亡くなった乗組員の霊を慰めていました。
広さんは「戦争で亡くなった人たちの犠牲のうえに平和があることを改めて感謝するとともに、大和が沈没したきょうという日が若い人たちに受け継がれていってほしい」と話していました。(NHK)
海外の反応をまとめました。
・大和か姉妹艦の武蔵のことを見てみたかった。
大きさに驚かされる。
・日本が大和型戦艦に関するほとんどの文書を燃やしてしまったことが残念だ。
・大和と超大和型戦艦については、すべて見てみたいよ。
超大和型戦艦(ちょうやまとがたせんかん)は大日本帝国海軍が大和型戦艦の次に計画した戦艦である。計画のみであり、起工されなかった。
アメリカ合衆国が建造を開始した戦艦群に対抗するため、1942年(昭和17年)にマル5計画によって計画された戦艦3隻の内の一隻、第七九七号艦であり、第四次補充計画で建造される第110号艦(信濃として完成)及び111号艦(建造中止)の改良型である。大和型戦艦の装甲が「対46cm砲防御」として厚すぎると判断された結果、大和型の舷側410mm、甲板200mm(最大)に対しそれぞれ400mm、190mmと薄くなる一方、艦底の防御壁は大和型の二重から三重へと強化されている。
改大和型は110号艦を基本設計とし、武装の強化もおこなっている。それまで4基であった副砲のうち舷側の2基を撤去、もしくは全てを撤去のうえ高角砲に換装。舷側の対空火器を40口径12.7cm高角砲から65口径10cm高角砲に強化した。また、主砲も46cm砲ではあるが長砲身である50口径にするという案もあったという。(ウィキペディア)
・祖父がこの戦闘で、飛行した。
彼は大和に命中させたことで、海軍十字章を受け取った。
彼の飛行日誌には、普通の訓練のように記されていたことを興味深いと思った。
・印象に残る戦艦だ。
銃の上に銃がある。
戦艦大和の上部構造の写真に驚愕する海外の反応
・旋回砲塔の上にいる砲側員は、舷側の18インチ砲を発射した際に、どうやって守られていたんだ?
・かなりの弾薬を積んでいたはずだ。
これほど早く沈没したのは、ラッキーだったのか?
・↑最初に横転した。
幸運だったとは言えないと思う。
・↑10発くらいの魚雷と5発くらいの爆弾を受けて、沈没したはずだ。
船体の底を魚雷が直撃したという主張さえある。
・この写真を見るたびに、髪の毛が逆立つ。
・↑大和のことが大好きだった。
素晴らしい戦艦だ。
アメリカ人として、沈没したことを嬉しく思う。
でも戦艦ファンとしては、あのような傑作が無謀に使われたことを悲しく思う。
戦場に赴かなかったとしても、長門のように閃光の中で消えてしまっていただろうけどね。
1946年にアメリカがビキニ環礁で行った核実験の写真を見た海外の反応(海外の反応)
・この沈没に関する記録は他にないのか?
・↑最後の爆発の数日前に撮られた写真だ。
・これは沈没寸前の写真。
・↑誰がこの写真を撮ったんだ?
・↑この写真はすごいな。
・↑この写真を見た時に、俺も大声で同じことを言ったよ。
・驚かされるな。
でも船の大きさを感じられると、もっと驚くよ。
・↑この写真はどこから?
・↑2005年の映画「男たちの大和/YAMATO」のようだ。
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だが私の意見ではこのように終わってほしくなかったと思う。私と同じような考えを持つ人がいるだろうが決して戦争という計り知れない地獄のような領域に身を決して乗り込んだ勇敢な人々を批判しているわけではない