「日本の安全保障政策」の歴史
かどもり隆氏ブログ転載
http://d.hatena.ne.jp/kadomori/
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2011-01-22 「日本の安全保障政策」の歴史
「日本の安全保障政策」の歴史
国防の基礎知識
今回は、勉強のため、国防に関する基礎知識を、箇条書きで書いてみます。
まずは、「戦後日本の安全保障政策の歴史」について、戦後から昨年2009年前半までの歴史的な流れを書き連ねてみたいと思います。
ポイントは大きく4つの区分に分けてみます。
具体的には、1「戦後」2「冷戦後」3「9・11テロ後」4「防衛省昇格」移行に、時系列を分けて考えて、戦後の安全保障について考えてみたいと思います。
○1.戦後
・1950年、「警察予備隊」創設。この時、日本国内における兵力の不足を受けて連合国軍総司令官および国連軍総司令官であるダグラス・マッカーサーは、首相の吉田茂に対して警察予備隊の創設を指示した。
・1952年、総理府の外局として、「保安庁」が発足。その後、警察予備隊も移管。
・1954年7月1日、「防衛庁」に移行。
・戦後、冷戦期中の日本の安全保障政策の2本柱は、1.防衛目的に限定した漸進的整備と2.日米同盟の堅持だった。
・そのため、「自衛の最小限軍事力・専守防衛」の原則の下、様々なことが「違憲」とされていた。例えば、集団的自衛権の行使や、海外派兵、武力を伴う国際共同行動、ICBM(大陸間弾道ミサイル)・攻撃型空母などの保有等。
・更に、日本の自主的制約も採用された。例:非核三原則、武器輸出三原則。
・その基本的枠組みは、1976年10月29日「防衛計画の大綱(昭和52年度以降に係る防衛計画の大綱)」に確立。
・当時の基本的な考えは「日米同盟の枠内での自衛への専念」。
○2.冷戦後
・冷戦後、日本に対し「経済力相応の安全保障上の貢献」を求める国際世論が高まる。
・1990年8月2日勃発の「湾岸戦争」が冷戦後構造の転機。その時は、財政支援のみだった。(※政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル(さらに、為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドル追加)もの多額の資金援助を行った)
・しかし、この財政支援に対し、アメリカを中心とした参戦国から“金だけ出す姿勢”を非難された。
・1991年4月に、海上自衛隊掃海部隊のペルシャ湾派遣決定。これは初の「自衛隊の海外派遣」。(※この時は、自衛隊法第99条を根拠に海上自衛隊の掃海部隊(ペルシャ湾掃海派遣部隊)の派遣が決定。)
・1992年6月、「国際平和協力法(PKO協力法、または国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)」成立。これによって、国連平和維持活動(PKO)などへの自衛隊派遣が可能になった。
しかし、この法律では、自衛隊は他国のPKO要員などが攻撃されても武器使用が出来ず、国際的な批判が少なくなかった。
・1995年、「新防衛大綱」施行。これは、1994年11月28日に安全保障会議および村山内閣の閣議で決定され、旧大綱は平成7年度(1994年)限りで廃止された。1976年から何と約20年ぶりとなる改定。内容は、専守防衛の原則の再確認と日米同盟の重要性の再認識。
・1996年4月「日米安保共同宣言」。日米同盟の再定義。
・1997年9月「新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)」。日米の有事対応については、共同計画策定をも含めて協力する旨が謳われた。
○3.2001年「9.11テロ」以降
・2001年11月2日、「テロ対策特別措置法」施行。(※この法律は、2001年9月11日に発生した「アメリカ同時多発テロ事件」を受け、2001年10月5日に政府が法案を提出し、同月29日に成立・制定された。施行・公布は2001年11月2日で、2年間の時限立法だった。)
・これにより、海上自衛艇がインド洋での米軍支援を行った。これは、自衛隊初の「戦時下における海外での本格的活動」となった。
・2001年12月、「国際平和協力法・改正」。これにより、他国要員や国連職員などの防衛や武器・弾薬の防護が可能になった。しかし、まだPKO活動への妨害に対する武器使用が許されず、目的や任務に武力行使を伴う活動への自衛隊参加も認められない状態。
・2002年、自衛隊の東ティモールへの派遣決定。これは、日本が国際平和協力法に基づいて、国際連合東ティモール暫定行政機構(UNTAET、2002年5月20日以降は国際連合東ティモール支援団 UNMISET)への協力のために、陸上自衛隊を中心に東ティモールへ派遣したこと。陸上自衛隊は現地の平和維持部隊唯一の施設部隊として首都ディリのほかマリアナ、スアイ、オクシに展開し、道路の補修や橋梁の架設、人材育成などの国づくりを支援した。
・2003年6月13日、ついに「有事法制(武力攻撃事態対処関連3法)」が成立。かねてから、有事への対処を優先するために私権を制限することや憲法の平和主義との整合性で長年にわたり論議があったが、今回、武力攻撃事態対処関連3法が成立し、「有事法制の基本法」である「武力攻撃事態対処法」が施行されたことで法制の枠組みが整備された。
・2003年7月26日、「イラク特別措置法」成立。これは、イラク戦争後のイラクの非戦闘地域で、積極的に人道復興支援活動・安全確保支援活動を行うことを目的とした法律。イラクのような危険地域に自衛隊を派遣するのは戦後初の出来ごとだった。(※4年間の時限立法として2003年7月26日未明に成立したが、2007年7月の期限切れを2年延長することを2007年3月30日の閣議で決定した。)
・2004年12月10日、「新たな防衛大綱」が、安全保障会議および第2次小泉改造内閣の閣議で決定され、旧大綱は平成16年度(2004年)限りで廃止された。
この約10年ぶりとなる防衛大綱・改定では、大量破壊兵器の拡散や国際的テロリズムの激化など、前回の改定に比して国際環境の変化に応じ、「抑止重視」から「対処重視」に転換し、「国際貢献活動」を主体的・積極的に取り組めるよう基本任務に含まれる事が明示され、基盤的防衛力の有効な部分は維持したまま多様な事態に対応する事が求められ、「即応性、機動性、多目的性」を備えた防衛力を整備する事となった。
・上記「防衛大綱」により、今までの安全保障2本柱(?日本自身の防衛努力?日米同盟による安全確保)から、3本柱(?日本自身の努力?日米同盟?国際社会との協力)に組みかえられた。
○4.2007年「防衛省昇格」後
・2007年1月9日、防衛庁から「防衛省」へ移行。(※1954年7月1日以来、防衛庁として総理府・内閣府の外局だったが、50年以上の時を経て、2007年1月9日に防衛省へ移行し、内閣の統括の下に独立した行政機関である省の一つとなった。)これに伴い、自衛隊の海外活動が、従来の「付随的任務」扱いから、「本来任務」化された。
・2009年3月14日、海上警備行動を発令し、海上自衛隊の護衛艦2隻をソマリアに向けて出航。(※実は、2007年ごろからソマリア沖やアデン湾にて海賊行為が頻発していた。2008年9月25日にウクライナの貨物船「ファイナ」号が襲撃された。この船には戦車を含む武器が多数積載されており、荷物の行き先がダルフール紛争の続くスーダンであったため、単なる海賊事件ではなく安全保障上の事態として重大視したアメリカ合衆国、EU、ロシアはこのファイナ号事件を境に対策を強化していた。)
・2009年6月19日、「海賊対処法(海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律)」成立。
昨年2009年後半から本年2010年については、またの機会に書いてみたいと思います。
「日本の安全保障政策」の歴史
国防の基礎知識
今回は、勉強のため、国防に関する基礎知識を、箇条書きで書いてみます。
まずは、「戦後日本の安全保障政策の歴史」について、戦後から昨年2009年前半までの歴史的な流れを書き連ねてみたいと思います。
ポイントは大きく4つの区分に分けてみます。
具体的には、1「戦後」2「冷戦後」3「9・11テロ後」4「防衛省昇格」移行に、時系列を分けて考えて、戦後の安全保障について考えてみたいと思います。
○1.戦後
・1950年、「警察予備隊」創設。この時、日本国内における兵力の不足を受けて連合国軍総司令官および国連軍総司令官であるダグラス・マッカーサーは、首相の吉田茂に対して警察予備隊の創設を指示した。
・1952年、総理府の外局として、「保安庁」が発足。その後、警察予備隊も移管。
・1954年7月1日、「防衛庁」に移行。
・戦後、冷戦期中の日本の安全保障政策の2本柱は、1.防衛目的に限定した漸進的整備と2.日米同盟の堅持だった。
・そのため、「自衛の最小限軍事力・専守防衛」の原則の下、様々なことが「違憲」とされていた。例えば、集団的自衛権の行使や、海外派兵、武力を伴う国際共同行動、ICBM(大陸間弾道ミサイル)・攻撃型空母などの保有等。
・更に、日本の自主的制約も採用された。例:非核三原則、武器輸出三原則。
・その基本的枠組みは、1976年10月29日「防衛計画の大綱(昭和52年度以降に係る防衛計画の大綱)」に確立。
・当時の基本的な考えは「日米同盟の枠内での自衛への専念」。
○2.冷戦後
・冷戦後、日本に対し「経済力相応の安全保障上の貢献」を求める国際世論が高まる。
・1990年8月2日勃発の「湾岸戦争」が冷戦後構造の転機。その時は、財政支援のみだった。(※政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル(さらに、為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドル追加)もの多額の資金援助を行った)
・しかし、この財政支援に対し、アメリカを中心とした参戦国から“金だけ出す姿勢”を非難された。
・1991年4月に、海上自衛隊掃海部隊のペルシャ湾派遣決定。これは初の「自衛隊の海外派遣」。(※この時は、自衛隊法第99条を根拠に海上自衛隊の掃海部隊(ペルシャ湾掃海派遣部隊)の派遣が決定。)
・1992年6月、「国際平和協力法(PKO協力法、または国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)」成立。これによって、国連平和維持活動(PKO)などへの自衛隊派遣が可能になった。
しかし、この法律では、自衛隊は他国のPKO要員などが攻撃されても武器使用が出来ず、国際的な批判が少なくなかった。
・1995年、「新防衛大綱」施行。これは、1994年11月28日に安全保障会議および村山内閣の閣議で決定され、旧大綱は平成7年度(1994年)限りで廃止された。1976年から何と約20年ぶりとなる改定。内容は、専守防衛の原則の再確認と日米同盟の重要性の再認識。
・1996年4月「日米安保共同宣言」。日米同盟の再定義。
・1997年9月「新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)」。日米の有事対応については、共同計画策定をも含めて協力する旨が謳われた。
○3.2001年「9.11テロ」以降
・2001年11月2日、「テロ対策特別措置法」施行。(※この法律は、2001年9月11日に発生した「アメリカ同時多発テロ事件」を受け、2001年10月5日に政府が法案を提出し、同月29日に成立・制定された。施行・公布は2001年11月2日で、2年間の時限立法だった。)
・これにより、海上自衛艇がインド洋での米軍支援を行った。これは、自衛隊初の「戦時下における海外での本格的活動」となった。
・2001年12月、「国際平和協力法・改正」。これにより、他国要員や国連職員などの防衛や武器・弾薬の防護が可能になった。しかし、まだPKO活動への妨害に対する武器使用が許されず、目的や任務に武力行使を伴う活動への自衛隊参加も認められない状態。
・2002年、自衛隊の東ティモールへの派遣決定。これは、日本が国際平和協力法に基づいて、国際連合東ティモール暫定行政機構(UNTAET、2002年5月20日以降は国際連合東ティモール支援団 UNMISET)への協力のために、陸上自衛隊を中心に東ティモールへ派遣したこと。陸上自衛隊は現地の平和維持部隊唯一の施設部隊として首都ディリのほかマリアナ、スアイ、オクシに展開し、道路の補修や橋梁の架設、人材育成などの国づくりを支援した。
・2003年6月13日、ついに「有事法制(武力攻撃事態対処関連3法)」が成立。かねてから、有事への対処を優先するために私権を制限することや憲法の平和主義との整合性で長年にわたり論議があったが、今回、武力攻撃事態対処関連3法が成立し、「有事法制の基本法」である「武力攻撃事態対処法」が施行されたことで法制の枠組みが整備された。
・2003年7月26日、「イラク特別措置法」成立。これは、イラク戦争後のイラクの非戦闘地域で、積極的に人道復興支援活動・安全確保支援活動を行うことを目的とした法律。イラクのような危険地域に自衛隊を派遣するのは戦後初の出来ごとだった。(※4年間の時限立法として2003年7月26日未明に成立したが、2007年7月の期限切れを2年延長することを2007年3月30日の閣議で決定した。)
・2004年12月10日、「新たな防衛大綱」が、安全保障会議および第2次小泉改造内閣の閣議で決定され、旧大綱は平成16年度(2004年)限りで廃止された。
この約10年ぶりとなる防衛大綱・改定では、大量破壊兵器の拡散や国際的テロリズムの激化など、前回の改定に比して国際環境の変化に応じ、「抑止重視」から「対処重視」に転換し、「国際貢献活動」を主体的・積極的に取り組めるよう基本任務に含まれる事が明示され、基盤的防衛力の有効な部分は維持したまま多様な事態に対応する事が求められ、「即応性、機動性、多目的性」を備えた防衛力を整備する事となった。
・上記「防衛大綱」により、今までの安全保障2本柱(?日本自身の防衛努力?日米同盟による安全確保)から、3本柱(?日本自身の努力?日米同盟?国際社会との協力)に組みかえられた。
○4.2007年「防衛省昇格」後
・2007年1月9日、防衛庁から「防衛省」へ移行。(※1954年7月1日以来、防衛庁として総理府・内閣府の外局だったが、50年以上の時を経て、2007年1月9日に防衛省へ移行し、内閣の統括の下に独立した行政機関である省の一つとなった。)これに伴い、自衛隊の海外活動が、従来の「付随的任務」扱いから、「本来任務」化された。
・2009年3月14日、海上警備行動を発令し、海上自衛隊の護衛艦2隻をソマリアに向けて出航。(※実は、2007年ごろからソマリア沖やアデン湾にて海賊行為が頻発していた。2008年9月25日にウクライナの貨物船「ファイナ」号が襲撃された。この船には戦車を含む武器が多数積載されており、荷物の行き先がダルフール紛争の続くスーダンであったため、単なる海賊事件ではなく安全保障上の事態として重大視したアメリカ合衆国、EU、ロシアはこのファイナ号事件を境に対策を強化していた。)
・2009年6月19日、「海賊対処法(海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律)」成立。
昨年2009年後半から本年2010年については、またの機会に書いてみたいと思います。