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父母のの思い出

2020-05-09 17:08:43 | 日記

令和2年3月16日の俺の母親が逝ってしまいました。
ホームページに父母の事をそんなに掲載してないので、これから両親の事を思い出しながら載せて行こうと思います。

父母共、戦前に生まれています。
父親は、もう数十年前に逝っています。
親父は、呉で生まれたそうです。母親は、竹原です。二人の出会いは、母さんが元気な時に
聞いたのですが、母親が呉のデパートで働いている頃親父と出会ったそうです。
どんな様子で出会ったのかは聞いてないので分からないです。
親父は、呉の海軍工廠で働いていたそうです。
此処で、どんな作業をしていたのかは聞いてないので分からないです。
親父は、3人兄弟で男、男、女。の2番目だそうです。 母親は、6人兄妹の長女です。


二人が何時頃結婚したのか聞いてないです。
俺の想像ですが、呉が戦争で焼け野原になったので竹原の奥の、田舎に叔母さんが暮らしていたので其処へ疎開するような感じで小さな村に来たのではと思います。



小学校の頃の思い出にも述べたが、俺が産まれたのが小さな田舎で生まれたみたい。
小学校のの頃、怒られた事ないかも。
学校から帰れば何時も優しい笑顔で迎えてくれていたかも。
勉強やりなさいと言われた事も無く、そんなせいか良く外で俺は、遊んでいたかも。
俺が、4年生の頃町に引っ越し。
その頃、母は自転車を乗る練習をしていた。子供用の小さな自転車を買ったのか他所で貰ったのか分からないが中古の自転車でした。
俺もこの頃、自転車に乗る様になる。
俺、小学校4年頃乗る様になったので他の人より遅かったかも。
自転車を、母は乗る様になれば母の妹の子供が小さいのでその面倒を自転車で妹の所まで行っていました。
俺も、学校から帰れば良く其処に行っていましたよ。
時には、妹が此方の方に子供を連れて来る時もありましたよ。
子供は、年子の男の子で二人でした。
町に買い物に行く時、二人の子供をおが車に乗せて押しながら行く乗り物で行っていました。
俺も一緒に行っていましたよ。
お母さんは、簡単な内職もしていた、俺はその手伝いを良くしていたかも。
例えば、手袋を作っていて、その形に縫っているので縫っている所まで鋏で切って行きそれを反対側に裏返しにしたり。
他には、栗の渋をナイフでむいだり。
近所の方と良くお喋りをしていましたよ。

親父は、何処でタイプを覚えたのか知らないがパチンパチンとタイプを打っていました。
この頃は、まだパソコンが出てないで色んな方から文書を書いてこれを印刷してくれと言われ頼まれ場引き受けて
ていた。
活字を見つけてそれをパチンと打って行くのです。
今では、パソコンで簡単に出来るのだが字を探すのが難しいかも。
活字の大きいのは、新たに活字を注文して取り寄せないとよくないです。
パソコンでは、字も直ぐ大きくなるのだが。
打つのが終われば、輪転機で刷っていましたよ。
する時俺も、よく手伝っていました。
小学校、中学の所で述べたが、父母共引っ越しした頃は二人で田舎まで行き米を作りに行ってた。
でも、俺が中学2年頃になると止めたかな。
詳しくは、覚えてないです。

考えて見れば、高校まで両親と一緒に暮らしていたが印象に残った事が浮かばないのでまた思い出せば載せて行こうと思います。

俺高校卒業すれば就職の為現在住んでいる場所の町に来ました。
家を出る時、服を買って貰った事今でもはっきりと覚えています。
就職して、竹原に帰れば食事の時良くビールの指し入れが。俺、アルコールに弱いのだが母が出してくれるので飲んでいましたよ。
他に、車で色んな所に行っていたかも。
東広島の藤棚を5月の連休だったかな。見に行った事がありますよ。
母の、お父さんが病院に入院していた時は、連れて行って上げましたよ。長女なので面倒を見るんだとも思いました。
お家の前に、僅かな庭があったが少しの野菜を植えていましたよ。
そんなの俺が見ていたのか、今は近所の人から土地を借りて菜園をしていますよ。
何時頃だったか忘れたが、親父から連絡があり母さんが大変だから直ぐ戻って来いとの連絡。
早速に帰り、竹原の病院に。
でも、暫くすれば状態が良くなりそんなに慌てる事もなかったです。
時々母は、竹原から福山の病院まで通っていた。
福山に来れば、勤めている会社に電話を入れてくれたこともあった。
偶には、寮にいた頃は、寮に寄り部屋の掃除を、後に俺が借家暮らしになると借家に来て休んでいた。
俺が、借家を借りる時は、二人で色んな店に行家財道具を買うのに殆ど揃えてくれました。
カーテンも、沢山買ってくれました。感謝感謝でしたよ。
なので、俺は寮で持っていた物を運んだぐらいでした。
そうそう、俺寮にいた頃電話を引いたのだがあまり、お家に電話を入れなかったので電話ををしなさいとよく、言われていたかも。
親父は、アパートには、そんなに来る事なかったですよ。


親父が、64歳の頃かな。
腸閉塞になり、呉の病院に入院。
兄貴からの要請で、一日で好いから看病をしてくれと言われ何時頃の日曜日か忘れたが一日中親父の元に付いて看病
した事があります。
何時頃退院したなか忘れましたそれから人口肛門をつけました。
その後、親父の面倒は母親がしたいたそうです。
母さんも、大変だったかも。
やがて、親父はあれから72歳の歳を迎えた頃逝きました。
安らかな眠りでしたよ。
大勢に囲まれて。


親父が亡くなり母親は兄貴のお家に移った。
兄貴の家に移れば、時々其処に行っていましたよ。
母さんは、其処でも庭に僅かな菜園をしていましたよ。
そして、数年すれば母親は兄が住んでいる町の特養老人ホームに入る。
まだまだ、元気なので其処で色んな事をしていましたよ。
其の部屋に電話を取っていましたよ。
母親がそちらに行けば、時々行っていましたよ。
特養老人ホームは、3階で窓から外の眺めも良かったです。






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