志ん朝 『そば清』 rakugo
古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう)は、東京の落語家の名跡。3代目の死去に伴い、現在は空席。3代目は志ん朝の名跡を大きくしたため、一般的に志ん朝と言えば3代目を指す。
この名前は5代目古今亭志ん生門下より生まれた名前であり、これまで名乗った3人は全員5代目志ん生を師匠に持っていた(初代と3代目は実子)。
初代古今亭志ん朝 - 後の10代目金原亭馬生。3代目志ん朝は実弟。
2代目古今亭志ん朝(生没年不詳) - 戦後まもなく志ん生に入門し古今亭志ん一から1948年3月に志ん朝と改名。1949年5月まで落語協会の名簿に見えるが7月にはなくその頃廃業したと思われる。通称「魚屋の志ん朝」。本名は金田 睦男。一部資料ではこの志ん朝については触れず、美濃部強次の志ん朝を2代目とすることもある。
3代目古今亭志ん朝。本項にて詳述。初代志ん朝こと10代目馬生は実兄。
3代目 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、1938年3月10日 - 2001年10月1日)は、東京都文京区本駒込出身の落語家である。本名、美濃部 強次(みのべ きょうじ)。5代目古今亭志ん生の次男で、10代目金原亭馬生の弟、姪は女優池波志乃(義甥は俳優中尾彬)。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。
7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、5代目春風亭柳朝(柳朝が病に倒れた後は8代目橘家圓蔵が称されることも)と共に、『江戸落語四天王』と呼ばれた。他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称される。
強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている。
獨協高等学校でドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、毎年、弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。亡くなるまでドイツ語の辞書を大事に所持しており、棺にも納められたという逸話もある。
父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に8代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに上方噺家の6代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、押しも押されもせぬ「江戸落語の名人」として名実共に人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、寄席を何よりも重んじた。独演会のチケットはすぐに完売するほどであり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。
同業者からの評価が非常に高く、毒舌で自尊心の高い7代目立川談志をして「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけだ」と言わせしめている。また、父志ん生のライバル8代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と志ん生に述べた。圓朝とは江戸後期以後、現在の古典落語を確立した噺家であり、落語界ではこの名は誰も継げない止め名とされており、文楽はそれほど志ん朝の芸を愛したと言われている。また、5年目での真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。
ファンや後輩芸人からは「朝(チョウ)様」と慕われ、父志ん生の破天荒さとは違う正統派の江戸前落語を得意とした。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。
落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。しかし前者に関しては父志ん生から「車なんざ買うこたぁねぇ」と猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」・「長屋住まいを続け金に執着しない8代目林家正蔵(後の林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現・林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。
一方では、名古屋大須観音前の大須演芸場を守る足立席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。「日本一客の入らない演芸場」で「日本一客を呼べる落語家」が公演をするという男気は、斯界の美談の一つとされる。
道頓堀の角座に初めて出演した時、落語が受けないので次の日漫談でごまかしたら大いに受けた。気をよくしていたら、支配人から「あんさんは、落語してもらうために呼んだんでっせ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。だが大阪の客に江戸前落語が受け入れられるまで5年かかった。しかし志ん朝は大阪の街を心から愛するようになったという。
落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は・・・」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。
二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は鰻断ちするよう勧められた。しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。1994年、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に「始めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、晩年「ニュースステーション」に出演の際には(「最後の晩餐」コーナー)、「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。癌による死を前に、食べたいものを聞かれたときも「鰻が食べたい」と語ったという。
晩年、時間がないときなどは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。
所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望を集めたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、実際のところは58歳から亡くなるまでの5年間副会長職を務めたのみであった。
父、兄同様に酒をこよなく愛し、死の直前まで日本酒を手放さなかったが、最期は肝臓癌のため、家族、弟子に見守られる中、自宅にて眠るように静かに息を引き取った。
古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう)は、東京の落語家の名跡。3代目の死去に伴い、現在は空席。3代目は志ん朝の名跡を大きくしたため、一般的に志ん朝と言えば3代目を指す。
この名前は5代目古今亭志ん生門下より生まれた名前であり、これまで名乗った3人は全員5代目志ん生を師匠に持っていた(初代と3代目は実子)。
初代古今亭志ん朝 - 後の10代目金原亭馬生。3代目志ん朝は実弟。
2代目古今亭志ん朝(生没年不詳) - 戦後まもなく志ん生に入門し古今亭志ん一から1948年3月に志ん朝と改名。1949年5月まで落語協会の名簿に見えるが7月にはなくその頃廃業したと思われる。通称「魚屋の志ん朝」。本名は金田 睦男。一部資料ではこの志ん朝については触れず、美濃部強次の志ん朝を2代目とすることもある。
3代目古今亭志ん朝。本項にて詳述。初代志ん朝こと10代目馬生は実兄。
3代目 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、1938年3月10日 - 2001年10月1日)は、東京都文京区本駒込出身の落語家である。本名、美濃部 強次(みのべ きょうじ)。5代目古今亭志ん生の次男で、10代目金原亭馬生の弟、姪は女優池波志乃(義甥は俳優中尾彬)。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。
7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、5代目春風亭柳朝(柳朝が病に倒れた後は8代目橘家圓蔵が称されることも)と共に、『江戸落語四天王』と呼ばれた。他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称される。
強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている。
獨協高等学校でドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、毎年、弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。亡くなるまでドイツ語の辞書を大事に所持しており、棺にも納められたという逸話もある。
父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に8代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに上方噺家の6代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、押しも押されもせぬ「江戸落語の名人」として名実共に人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、寄席を何よりも重んじた。独演会のチケットはすぐに完売するほどであり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。
同業者からの評価が非常に高く、毒舌で自尊心の高い7代目立川談志をして「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけだ」と言わせしめている。また、父志ん生のライバル8代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と志ん生に述べた。圓朝とは江戸後期以後、現在の古典落語を確立した噺家であり、落語界ではこの名は誰も継げない止め名とされており、文楽はそれほど志ん朝の芸を愛したと言われている。また、5年目での真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。
ファンや後輩芸人からは「朝(チョウ)様」と慕われ、父志ん生の破天荒さとは違う正統派の江戸前落語を得意とした。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。
落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。しかし前者に関しては父志ん生から「車なんざ買うこたぁねぇ」と猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」・「長屋住まいを続け金に執着しない8代目林家正蔵(後の林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現・林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。
一方では、名古屋大須観音前の大須演芸場を守る足立席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。「日本一客の入らない演芸場」で「日本一客を呼べる落語家」が公演をするという男気は、斯界の美談の一つとされる。
道頓堀の角座に初めて出演した時、落語が受けないので次の日漫談でごまかしたら大いに受けた。気をよくしていたら、支配人から「あんさんは、落語してもらうために呼んだんでっせ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。だが大阪の客に江戸前落語が受け入れられるまで5年かかった。しかし志ん朝は大阪の街を心から愛するようになったという。
落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は・・・」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。
二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は鰻断ちするよう勧められた。しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。1994年、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に「始めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、晩年「ニュースステーション」に出演の際には(「最後の晩餐」コーナー)、「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。癌による死を前に、食べたいものを聞かれたときも「鰻が食べたい」と語ったという。
晩年、時間がないときなどは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。
所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望を集めたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、実際のところは58歳から亡くなるまでの5年間副会長職を務めたのみであった。
父、兄同様に酒をこよなく愛し、死の直前まで日本酒を手放さなかったが、最期は肝臓癌のため、家族、弟子に見守られる中、自宅にて眠るように静かに息を引き取った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます