しゃくしな漬け好きよん!

しゃくし菜漬は秩父地方の伝統的な漬物です。でもやっぱりタコが好き!
ほんで、タコ焼き作りまんねん♪

普通の日常の平和な日々

2013-02-26 16:42:09 | 日記

普通の日常の平和な日々

 

今日も どこかで
小田和正

作曲  小田和正
作詞  小田和正

気づかないうちに 助けられてきた
何度も 何度も そして これからも

数え切れない やさしさに 出会ってきた
なつかしい 笑顔が 浮かんでは 消えてゆく

誰かが いつも 君を 見ている
今日も どこかで 君のこと 想ってる

巡り会って そして 愛し合って
許し合って 僕らは つながってゆくんだ

透きとおる 光が 分け隔てなく
すべての人たちに 朝を運んでくる

その一歩を もう ためらわないで
誰かが きっと 受け止めてくれる

いちどきりの 短いこの人生
どれだけの人たちと 出会えるんだろう

ほんとうに 大切な人たちと
かけがえのない その人と この広い 空の下で

降り続く雨は やがて 上がる
かくれてた 青い空は どこまでも 広がってく

誰かが いつも 君を 見ている
今日も どこかで 君のこと 想ってる

巡り会って そして 愛し合って
許し合って 僕らは つながってゆくんだ

 


旅の記憶 東へ

2013-02-26 13:44:15 | 日記

旅の記憶 東へ

 

君と歩いた道

作曲:浜田省吾
作詞:浜田省吾


もし 15才のあの夏に戻って
そこからもう一度やり直せたら
どんな人生送るだろう?

今よりも若く強い体
学んだ知恵 活かして
曲りくねった道を行こうと 迷わない

過ちや躓きを繰り返すことなく
夢の段階 真っ直ぐに駆け上がってゆく

<a href="http://www.3131.info/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E7%9C%81%E5%90%BE/%E5%90%9B%E3%81%A8%E6%AD%A9%E3%81%84%E3%81%9F%E9%81%93/">君と歩いた道 歌詞<a> - <a href="http://www.3131.info">J-POP 歌詞<a>

若過ぎて思いやりもなく傷つけ 別れた人達
また出逢えたら 心の絆 失わない

だけど もしも君とどこかですれ違って
出逢うこともなくて愛されないのなら 悲劇さ

もし 15才のあの夏に戻って
そこからもう一度やり直せても
この人生を選ぶだろう

君と歩いた道をもう一度歩くだろう


水曜どうでしょう 好きっちゃ

2013-02-25 23:44:36 | 日記


『水曜どうでしょう』(すいようどうでしょう、How do you like wednesday?[1])は、北海道テレビ放送(HTB)他地域で放送されているバラエティ深夜番組。通称は「どうでしょう」・「水どう」・「どうリタ(リターンズ)」・「どうクラ(Classic)」など。シンボルキャラクターは福助人形。

北海道のローカル番組ながら旅をメインとしたさまざまな企画を行い口コミやインターネットなどでファンを拡大させ、現在では各地で番組の放送が行われている。レギュラー放送は2002年9月に終了したが、再放送である『どうでしょうリターンズ』・『水曜どうでしょうClassic』(水曜どうでしょうシリーズ参照)、そしておよそ数年に1回のペースで『水曜どうでしょう』自体の新作が現在でも順次放送されている。また、番組を再構成・再編集したDVD『水曜どうでしょうDVD全集』も発売されている。

1996年10月9日に放送を開始。レギュラー出演者は鈴井貴之(以下「鈴井」)と大泉洋(以下「大泉」)、ロケ同行ディレクターは藤村忠寿(以下「藤村D」)と嬉野雅道(以下「嬉野D」)。基本的にこの4人が無謀な旅をし、その模様を放送する。放送開始当時は固定の出演者・企画を設定せずに、前身番組である『モザイクな夜V3』の延長線上の番組としてさまざまな企画を行っていたが、そのうちの一つである「鈴井・大泉による旅メインの企画」が人気となったことから、1997年後半には旅企画へと一本化し、現在のスタイルとなった。番組初期に放送された「鈴井・大泉の旅企画」以外の企画については初期企画の項を参照されたい。

番組の放映開始当初から「低予算」「低姿勢」「低カロリー」の「3低」をモットーにしている。初期は数回分の製作予算での国内での移動が多かったが、後期になると数か月分の制作予算を一気に使って行く国外への旅がメインとなった。

2002年9月25日にレギュラー放送を終了。その際に「今後、一生続けられるペースで『水曜どうでしょう』をやっていく」と宣言(いわゆる『一生どうでしょうします』宣言)。現在は不定期での新作放送や、過去に放送された企画の再放送・DVD化が行われている。また、テレビ放送以外の形でファンを楽しませる事を目的として、『どうでしょう本』の制作や『水曜天幕團』による演劇公演などさまざまな番組関連企画が行われている。

『水曜どうでしょう』は北海道外でも放送されており、この成功を機に、大泉が出演している『おにぎりあたためますか』、『1×8いこうよ!』(STV)など、北海道で制作されるバラエティ番組が道外で放送されるようになった。

第1回目に放送された「東京でのアンルイスへのインタビュー企画」の撮影が終り、「せっかく東京に来たのにそのまま帰ってはもったいない」ということで、鈴井が考えた「サイコロの出た目で次の行き先と手段を決定し、東京から北海道まで帰る」という「サイコロの旅」という企画を行なった。実質的にこれが『水曜どうでしょう』の始まりとなり、これをきっかけとして「特殊な旅番組」というひとつのスタンスが生まれた。撮影にはディレクターがソニーの家庭用ビデオカメラで撮影した[3]。

旅番組としての要素が盛り込まれているものの、当初は低予算を逆手にとり、移動には「深夜バス」[4]などを利用。その道中に繰り広げられるタレントとスタッフのケンカ、罵り合い、座席や料理をめぐる醜い争い、愚痴などをそのまま放送したところ、口コミなどで「面白い番組」という噂が広がっていった。また、愚痴や罵り合いには企画の詰めの甘さ(無さ)に起因することもあり、鈴井や大泉の説教や、インチキ(ヤラセ)を計画・実行しようとする様子もそのまま「ネタ」として放送する。こうした、移動先に焦点を当てずに「移動中の車内での様子」を中心に放送するため、番組初期に大泉の親から「移動番組」と言われた。

ディレクターの藤村が会話に加わるようになり、大泉と藤村の会話が中心になった事で、鈴井の心境に変化が生じ、番組の作風も様変わりした。ミスターのいいじゃないか!運動として大泉と藤村のトークのネタになっている。

http://www.htb.co.jp/suidou/

田中正造というひと

2013-02-25 23:11:34 | 日記
◆地方自治こそ国家の基本◆


◆ 田中正造は、天保12(1841)年11月3日に栃木県佐野市小中町(旧旗川村)で、旗本六角家の名主である富蔵、サキ夫妻の長男として生まれた。名主になった正造は、不正をはたらく領主と対立するなどの苦難を乗り越え、明治10年代には自由民権運動家として、また栃木県議会の指導者となっていった。
 明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、そのころ農作物や魚に大きな被害を与えていた足尾銅山の鉱毒問題を繰り返し国会でとりあげ、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力した。しかし国の政策に改善が見られず、ついに明治34(1901)年12月10日、天皇に直訴した。
 その後、鉱毒事件は社会問題にまで広まったが解決せず正造は悲痛なおもいで谷中村に住み、治水の名のもとに滅亡に追い込まれようとした谷中村を救おうと、農民とともに村の貯水池化に反対し再建に取り組んだが、大正2(1913)年9月4日に71歳10か月で世を去った。

◆ 地方自治は国家の基礎である
 地方自治こそ国家の基本にいならなければならないということを正造は言ってます。「日露戦争たけなわの時にあたりて国家の基礎団体たる町村を破壊することを為す。すなわち谷中村は日露戦争に際して無法に自治体を破壊されたるなり」、これは「建白書」(明治45年~大正元年)のなかで述べています。常に地方自治体を基礎にして国のあり方を考えなければいけないという思想を田中正造は述べています。

http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/index4.html