この前、レンタルDVDのまとめ借りをして、一本一本観ていっていました。いいもので最後まで見切ったものが、そうですね、総数10本だとしたらその半数の5本程度で、残りの半分はとても鑑賞に耐えないのでどこかしらで切って見続けるのを諦めました。まだ観たこともない作品ばかりですので当たり外れは仕方ないですね。
そこで見ていて私はある残念な発見をしてしまいました。どのDVDも本作品の前に他のDVD作品のコマーシャルを長々と流すのですが、これって昔からそうでした?なんか今回はしょうもないものを延々と見せられるようで辟易したのですが、そのコマーシャルで私はあるものを見てしまいました。それは中国映画のコマーシャルなのですが、時代もので、つまりコスチュームプレイなわけですが、そこで身に付けられている大方の衣装が日本式の重ね着デザインだったのです。日本でよく知られている着物のいにしえ版である平安王朝の十二単から武家のものを通過して今日のお召し物に至るまで日本には日本独自の重ね着文化があります。それがあろうことか中国の歴史絵巻にそうだとわかるように風俗無視して盗用されているのです。いわばパクリですね。どういう精神をしているのだろう今時の中国人は、脈々と続いていた中華思想はどこへ行ったのかと時代考証を疑いますが、時代考証といえば韓国の時代ものの衣装が日本のアニメにまったき影響を受けたような突飛極まりないものになっているのを前に目にしていて既に私腰を抜かしておったところです。この二国、そういえば食を巡って元祖争いをしていましたね。
ジャニー喜多川と統一教会は歩を同じくしていまいか。統一教会は岸首相時代までさかのぼるが、ジャニー喜多川周辺も相当過去にまでゆき、その根のはびこりよう、深さは両者とも計り知れません。
私に関するすべての不幸は二人のおかま、西部邁と大島渚の私への愛欲と嫉妬に始まりました。
私の周りでは相変わらず類人猿がアインシュタインを冒涜してやみません。アインシュタインは流血など望んでいなかった筈です。彼は私と同胞で平和主義者です。もっとも私は、自分で自分のことを平和主義と名乗る女性を筋肉が衰えていく病の女性を知っていて、その彼女こそが作業所で実にある方への虐待に加担していました。なのでひと事ながら一種トラウマのようにそういう言葉を使うのにはためらいが御座いますが。もとより私はそんな言葉を掲げるほどおこがましくありませんし、小学生じゃあるまいしそんな言葉をモットーとして生きているんだ僕は、なんて人格軽くもありません。また、それを命題にして生きるなんぞももちろんありません、恐ろしいこと、くわばらくわばら。その方は藤根さんとおっしゃる方でもう何decades昔ってな引用話です。
もうその当時のみんなとやらは、死んでいなくともじじばばですね。時からはみ出して時の止まった人がたとえ生じてもそれはいわば分離した論外の人で我々ちまたの者には一人残らずひとえに前へ前へ進む一直線の時間軸しか与えられません。
類人猿は事実本当のひとたちですが、もう一つの雄をなす類人猿に言及する幻声は幻覚というワンステップ踏んだこれまた類人猿という現実です。これ、この幻声がしつこく私の脳を侵蝕して認知操作をはかったかと思えばないものはないと今度は開き直ります。こうやって私の56という現実はなおざりにされたまま時間ばかり盗られ神経は憔悴いたします。そうして私が家でする独り言の私にいつまでもおりのようなものを残すこと残すことでまたしても生活が人生が奪われております。
引っ越してこの方3ヶ月を前にして私の家は自然の宝庫と化しております。
今日も、お金がないというものをクレカに変え自分をごまかし四千六百円ほどを植物4点購入に費やしました。これで最後とも部屋をこれ以上仕切りようもなく心に仕切りをつけて。追々、大きい鉢とかそれに見合う土を買い、苗ビニールから移してやってひとつの和物は光がさんさんと差す玄関に、残りは部屋の中へと動かします。玄関には既に、オリーブ、フィカスと呼ばれるいわゆるゴムの木、コーヒー、月桂樹と四種類が鎮座してます。一方新たに買った残りの3種は用向きを殊更には決めておらずこれまで貯めたプランター7つが置かれてある部屋へ仲間入りさせるかもしれません。リビングダイニングには元々は寄せ植えセット室内バージョンを通販で取り寄せそれらを植えた丸鉢が置かれ、けれど窓際の照度が植物には不十分なため、コンセントから直に引いている導線に付けた裸電球の光をうまい具合に煌々と当ててやっています。裸電球はアルミホイルを簡易に巻き付けシェードとしてますが、この人工光も日中だけ、夜間は消灯させて生き物に自然なタイムサイクルを提供しておる次第です。
目を転じて、居室へと向かうとそこの床の間にはこの夏大きく育った観葉植物のパキラが、地に330円で買った小さな観葉植物と、同様で今度は同根のサボテンの実体がかわいらしくもひしめき現れているものとを引き連れてその存在感を誇っています。こちらが窓際書机を中心にした右側で左側にも植物が置かれ両手に花なことにはそれはシマトネリコであります。右サイドにはまた仕切り棚を置いていてその上段部の各仕切りにはひとつずつ330円均の観葉植物が都合5つ見られます。ガス機器取り付けが主な理由からか裏には小さなベランダがあるのですが、ここには多肉系(セダム)を置いており、横長のプランターへはセダムのバラエティーとサボテンのバラエティーのミックスチュアが、我が家で一番大きな鉢には大きなアロエのカップルが、収まっています。狭いですがこのベランダから望む北摂の景色には毎度お世話になっていてちょっとした旅館に来てるようで癒やされます。
先程今日新しく買ったと私が話した4種類はというとかりそめに玄関前の外廊下に置いたなら、左から右までずずずいーとビオトープ含め植生が並びきりました。ビオトープの瓶は水生ですが、後に詳述します、水生植物、いわゆる水草を多種入れそれが繁茂しますものですから手入れが大変なほど植生ともいえます。
まず引っ越し当日からそのまま持ってきて居付いているのが5鉢の苔と宿根草で寒くなってくると地上部が完全に消え失せてしまい暖かくなってくるとまたにょきにょき生えてくる白斑入りツワブキです。ツワブキはこの夏白くてきれいな花を沢山つけました。私が最初それとなく感づいてたように、苔に関しては裏のベランダが適してるようで、苔は南の夏光ですっかりだめになっているようです。苔には湿気が要り光と陰の絶妙なバランスが大切です。前住んでたマンションのベランダは東向きで雨も当たりそれら条件が揃っていたのでしょう、私は水やり等一切世話をせず尚も美しかったです。こちらに越してきても忙しさもあって最初の考えどおり手を加えずそのままにしておったのです。ですのでこれから暑さもやわらいでいくのに合わせて毎日のようにせめて水やりを欠かさないようにしています。もしかしたら息を吹き返すかもしれません。ツワブキも放っておきましたが、こちらは花咲かせました。
左を見下ろすとセダムとサボテンのそれぞれ大鉢が3つ御座います。サボテン1セダム2です。セダムの一方はひとつこっきり黒法師というもので、てっきり自己増殖するかと思っていたらそれがなかなかそうはなりません。明日にでも葉を3枚ほど切り取り土に差し、それで様子をみてみます、きっとうまくいくでしょう。こちらも長い直径のラウンドプランターにひと株植えのサボテンを紹介しましょう。よくある丸いボディのそれはけれど針や毛が少なくあります。これはでかいものになるのではないかと見立てていたのですがそれが漸進なのかそうなって行っているようには見えません。こうなったら身を何箇所か削ってそれを肉面を下に土の上へとしてやって殖やすなんぞが頭によぎりますが、サボテンの増殖はあくまで子が頭を出してくるに尽きると思うのです。それがないということはこれは単体で私の思惑どおり大きくふくらんでいく類いの種だと、それも何年も時間をかけて、そう確信のように思われます。そっと見守ろうそう思います。セダムのもう片方。半円形で放射状に葉が生えている似たようで違う5種のセダムが円盤鉢に植わっています。
一等右側に行きます。左に深い鉢に植わった直立型のローズマリーが右にそれぞれなえかけた基本形のアイビーと初雪カズラの植わった楚々としたプランターがあります。更に右に今日買った4種類があるという寸法です。実はこれらローズマリー、アイビー、初雪カズラはリビングダイニングの丸鉢に植わっていたものを独立させたのです。他にも観葉の2種を各々移植し別の部屋に置いています。半ば空になったこの丸鉢は他の植物の断片を植えて発根させる命のゆりかごにかくしてなっており、それでも中央がさみしいところ、売れ残りのハーブふた苗120円で買ったものを植えております。売れ残りでも植えるのです。そこがまた命のゆりかごです。これ以上これら草花系をも独立させるのは私の手を掛けない植物栽培の趣旨に反するので死ぬまでそこで見届けてやりたいと考えています。では植物の断片のその後はどうするのかという問いには私は何らの答えも用意していません。ここは命のゆりかご、生命がもったいないから、退避所として設けています。
最後に外廊下の中央部。ここにはまずビオトープ用の水瓶が置かれメダカたちが泳いでいて、その内に水草が繁茂、レイアウト変更の意も手伝って、隣のカルキ抜きしているバケツ水に水草の大分を取り移しました。するとどうでしょう、その水面がホテイアオイで覆われよく中が見通せない隙間に透明でお腹の辺りだけかろうじて暗色ななにかしら動くものを何匹も私は確認しました。稚魚です、子メダカです、移した水草にどうやらメダカの卵がくっついていたようで、それらが孵化したのでしょう。さてメダカの何と何の交雑でしょうか、もっともっと大きくならなければわかりません。このバケツが命のゆりかごとなったからには、ビオトープに補給するカルキ抜き水の確保のため又一つ更に隣にバケツを用意しました。併せて又更なる隣に以前買っておいた虫かごを引っ張りだしその虫かごにスイレンと水を入れたものを置かざるを得ませんでした。スイレンは大きな水面を要します。ですのでこれも移植です。水草は更に増え、移すため新たな補給水用のバケツまで使う始末です、まだ少しの水草なので汲み取りの杓も入ります。そうしているとこのバケツにまで丁度今日稚魚を発見致しました。やれやれバケツリレーのように命のゆりかごが連鎖的に増えていきます。今度ばかりはもう譲れませんので、稚魚入りの杓でもビオトープの水瓶に注いでやります、食べられる心配は稚魚もとても敏捷ですのでないと信じて思い切って。どちらにせよこの先、ビオトープはひとつの水瓶で大丈夫かしらんとこちらの方も心配です。
これが私の新居、自然の宝庫です。
終の住処でこの先ずっと住むことを考えると、傾斜のある土地柄に多少なりとも不安を感じずにはおれませんが、私はこの物件が見つかって良かったと心の底から思います。きっと目には見えない人のえにしのおかげだと私には思われるのです。人と人とはどこかで繋がっているのですね。陰に身を置かれて支えて下さった方たちにたっぷりの温かな日の光がもたらされんことを切に願います。
今午後10時半頃。寝る支度です。シューベルトの交響曲を消し窓を開ける。昼間にエアコン入れてるので私は真夏の折りも寝るときはエアコン消していました。毎年のことです。なぜって私は経済的に最底辺の身ですから。おや、コオロギではないですね、秋の鳴く虫は、郊外の千里山で鳴く虫は、なんですか?涼やかに心軽くせよと言われているようです。みなさん、ここまでお読み頂きありがとう御座いました。
2023年9月26日 石川勝敏
cooked and photographed by Katsutoshi Ishikawa