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関所破り

2013年10月16日 18時36分52秒 | 春日部千円カット
●江戸時代という長い間に、堂々と関所のど真ん中を突破したとんでもない人間が一人いる。幕末の長州藩士・高杉晋作である。いわゆる“学生ゲバルト”だったわけで、文久2年12月、伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)ら同士たちと、品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼き討ち。小塚原・回向院に墓標もないまま埋葬されていた、師である吉田松陰の遺体を掘り起こし、世田谷の長州藩別邸に改葬(現在の松蔭神社)。この途中、将軍しか通ることが許されていなかった上野寛永寺の神聖な御成橋を、番士の制止を槍で排除しながら、強引に馬で通ってしまった。

▼この過激派を、江戸に放っておいたら、何をするかわかったものではないと、国許の政庁では高杉に帰国を命令。文久3年(1863年)、江戸を出発した高杉は、その帰路、箱根の関所を、駕籠(かご)に乗り打ちして刀を振り回し、人夫たちを励ましながら、強行突破してしまったのだ。司馬遼太郎の『世に棲む日々』によれば、「ここは天下の大道である。幕法こそ私法である。私法により人の往来を妨げるは無法である」と怒号したそうだ。いずれの「事件」も長州の危険分子によるものだということは幕府方に知れていたが、不問に付された。260年間、江戸時代を通じて、関所を正面突破した男はこの人物だけである。

▼この男、よほど変わっている。京都では、折りしも徳川将軍家茂が上洛中だった。賀茂神社へ行幸する天皇に供奉していのだが、その長い行列の間、当然ながらみんな路肩に平伏して頭を上げずにいた。高杉は将軍が目の前を通る段になると、いきなり表を上げ(これだけで、「打ち首もの」であった)、あたかも芝居の役者に向かって声をかけるように、「よおうっ、征夷大将軍!」と叫んだそうだ。高杉も、いっしょにいた伊藤たちも、蜘蛛の子を散らすかのごとく、尻に帆をかけて一目散に逃げたそうだが。いたずらにしても命がけだ。

▼当時すでに、幕府の権威は音を立てて崩れつつあったとはいえ、とんでもないことをする男である。国定忠治が、碓井関所を破った罪で磔刑に処せられてから、高杉の箱根関所破りまでわずか14年。時代はあっと言う間に変わる。当時、高杉は24歳。

▼関所という、日本の近世を象徴するこの存在を、衆目の真っ只中で、ものの見事に破壊して見せたこの男は、まさに道を近代に切り開く革命のために生まれてきたのかもしれない。その後、高杉はあまりにも凝縮された老年を送り、肺結核で逝くまで、その命はあとわずか4年しか残されていなかった。