生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。(続き-2-)
shikanneiko
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(※註 記載致しました内容に就きまして…。)
何たる不謹慎と警戒心-憎悪感情を御抱き?滅亡-絶滅イコール悪-わるい、の先入観念。否、思考の囚われ-構え-かたさ-強張りであります。全くの拙文で御座いますが、よく御覧になってみて下さい。(※逆問致しますが、私の提言内容以外に救済策など果たしてあるとでも…?)
(尚、付言致しますと、以下に御示しさせて頂きます用語に御留意頂いた上で、本文を御閲覧下さりますと、助かります。
当方が個人的に注目致しております用語群の一部でも御座います。)
人類 地球 絶滅 滅亡 道徳 倫理 哲学 生きる意味 自我 提言 提唱 人間扱い 徳 道義 正義 人道 存在価値 消滅 消失 人間 ヒト 生きる意義 自然環境 生態系 生物の権利 生命の尊厳 いのちの尊重 概念的考察 正道 思い遣り 全人類 原理的思考 被害者 実体験 追体験 真理 らしさ 主体性 節度 罪悪感 罪障感 領分 分際 自分がされたら 虐待 大量虐殺 大量殺戮 思い上がり 独善 傲慢 実験台生物 犠牲 限界性の自覚 集団妄想 羞恥心 自責の念 食肉・肉食の思想 諸悪の根源 形骸化 我慢 人権思想の限界 民主主義の限界性 人間ヒト優先優越思想 他生物たちの権利 思考の囚われ 形式主義 本音と建前 対象化 優先事項 謙譲 人間中心主義 「領土」思想 「領土」概念 「境界」思想 「線引き」意識 「縄張り」の明確化-実体化 地球返還 自然(環境)の償還 自戒 自律 自制 「解答」(?)までの最短距離の探索 法のための法 法規律の為の法規律 マニュアル主義 「論理」が全てかという問題性 「論理」への偏向 自己目的化した哲学 「証拠・実証・根拠」といったものに偏向する在り方の是非 生物多様性に対する独善的暴力 専門分化の既存-既定-前提 人間社会の癌ガン細胞(及びその動態)との酷似 もはや統制統御統合不可能 原点への遡行 諸科学者の冷徹になる余りの冷酷への帰着 記法・述法・結構様式・諸表現展開・…、の画一化 神格化-「伝説」化の興隆・流行 法規律の絶対化 「原則」の絶対化 「私」「我」「個」の具現としての「国家」「社会」(という、集団-集合体-組織体-構成具象) 実体験と追体験との圧倒的な歴然たる落差 分画を生きるだけの在り方 「原則」の本分
生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。
(続き-2-)
shikanneiko
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(前記事からの続きで御座います。)
(2ページ目)
更には、(各方面に於いて)悩む事・苦悩・憂慮する事自体を目的化-正当化し、これが人間というものの本質であるとする、結局は居直り-開き直りにしか見えない意見。
(「知」を存分に漫遊-満喫するのには、別段異議は無いです。
但しそれは、外界に悪影響を及ぼさない限りに於いてであります。
「知」に取り組む事への「原則」「マナー」「行儀作法」(?)のようなものを履き違えたやからは、誤って「知」を高貴尊尚なものとして決め付け、果ては神聖化-神格化の如くに定置し、それに関与する程度の、小さい-低い~無い者たちを、侮辱蔑視する方向へと次第に傾斜していくのでは御座いませんか?
軽んじられる対象者即ち、迫害される者として、無論それは内輪の人間界に限った事でない事は言うまでも無い事でしょう…。)
某当該者(ヒト)それぞれが悠長に-お気楽に「なやんで」いるその「同時」に、刻一刻と世界のどこかで貴重な生命(他生物)群が何らかのかたちでおびやかされている、というのに…。
何という、「おめでたさ」…。
「知」を愛するなどというと、いっけん聞こえはいいですが、かかる概況を鑑みるにあたり、私に言わせればそれは単なる一種の強欲であるだけであると思う次第です。
人は間違いや失敗をしながら成長をして行くもの、だから必要悪として仕方が無いのである…、というのも身勝手な述懐にしか聞こえない。
当該世代の失態の過程を、更にそのまた次の世代が繰り返すという、連鎖的構図に於いて、又してもそのとばっちり・災厄・負債を、被る-背負わされる-転嫁されるのは人類以外です。
各世代の惹起した悪弊害の総集累計は、時間の経過とともに計り知れないものになるのはこれまた自明の理です。
遊び半分・面白半分・興味本位の試行-実験、などのていたらくでやられては、たまったものでは無い。
(例えば、往々にして「いくらでも失敗・挫折をしてもいいからね…」「次があるから…」などとの諭しの常套シーンがありますが、易々と勝手に保証(「失敗は成功の基」の濫発)しておいて、実際はその安請け合い・無断契約の迷惑・損害の連発に巻き込まれる(債務を負わされる)のは他でも無い人間社会以外の側なのです…。
認容許可同意一切無しの連帯責任の強要。
「いい」筈が無いです…。)
人間側がもし何者かの身代わり-犠牲にされたらどういう気分でしょうか?
(ヒトだけが熱弁してやまぬ風情がある)自己生物種至上主義とでもいうのでしょうか?
これに就いてだけは、人間世界全体で奇妙な事に一致している観があります。
以上に加えて「お前こそが(模範を示すべく-率先して)死を選べ!…云々」などとの要旨もかなり多数あり…。
この↑乱暴野蛮痴劣な文句。
蓋し、怒り任せ…。
「ha…?」の一言。
(どうも、大概の人は勘違いをしているようなのですが、私は「自殺せよ」だの「集団自決せよ」だの「~を殺せ」だの、の類いを言及致した事は一度たりとも無いです。
まっとうに伝わっていない悔やしさのひとつです…。
「(自分を)誹謗中傷されている!」「(わたしが)攻撃されている!」とでも、直感的浅慮で以て感じたのでしょうか…?
このような方々(フィーリングの世界の住人)に、再度前記事内容をよくよく御覧じろ、と申し上げたいです。)
とんだ感情論的かつ浅薄幼稚・陳腐常套な、そしてお粗末で貧しい文言としか言いようがありません…。
(勿論これ以外にも、おおかた私の記事をざっと見て適当にかいつまんで、気に食わぬ所の、揚げ足取りをしたり、熱心に粗探しをしてくる-きたような内容の「回答」も沢山ありました…。)
そこには何の論理的説得性が微塵にも垣間見る事が出来ないです。
まじめに-真摯に問題に向き合う-直視する、姿など感じられぬ…。
その意向を前提としても、ならば、道義性・合理性・正当性を踏まえた上での説明を以てしての、その意思の歴たる理由・根拠を示してくれればよいものを、それさえ示さず揶揄皮肉悪口暴言だけ吐いてそれっきりトンズラ…。
蓋しまったくお気軽にして卑劣、私のこころのなかでは脱力的な「アハハハッ…」であります…。
本気-正気で物申しているのでしょうか?
そんな誰でも容易に気付く-思い付く、のが出来よう初歩的な事柄、いやしくもこの私が今まで、考えなかった-苦悩してこなかったとでもお思いか?
直観的に内容を大雑把にとらえ、軽薄短慮な気持ちでの侮辱蔑視意思の伝達目的、或いは性急に興奮-激昂してのほぼ悪意だけを突き付ける目的、としての発言に違いないでしょう…。
更に、主張と矛盾している(「絶滅-滅亡-消失を提唱しているおまえ自身が何故生存しているのか!?」「言行不一致だ!」とか。)とでもお思いなのでしょうか?
それでは、私が生まれてきた意味は何になってしまうというのでしょう。
「死」という事実に到る事、即ちすべてに先行する自我というものが存在しなくなれば、元も子も無いとしか言いようがない…。
包み隠さず申します、「私は生きたい」。
加えて、直截に言わせて貰えば、辛い・苦しい・痛い、思いをするのは「もう」懲り懲りウンザリで嫌であります…!
主体性を充全に発揮して、私らしくあるがままに生きたいのです。
(※野放図な我が儘を地で行くのとは全く以て違います、何卒誤解無きよう…。)
なぜか?
私の存在の意義を探求しその本懐を遂げんが為です。
(「意味」ではありません、「意義」であります)
(※では、その「本懐」とは?
ここでは敢えて申し述べたりは致しません…。
大変リスキーに過ぎますゆえに…。
おそらくは推知出来よう事ですし、ストレートに歯に衣着せずに記述しようものなら、その結果の極めて惨憺たる事は、まさしく自明の理であるからで御座います…。)
ひとまず現時点での総括で御座います…。
以上を鑑みました上でも、やはり私の内面でどうしても動かしがたい最終結論で御座います…。
少なくとも「理性」というものを以て文明を築き上げて来た、全人類・ヒトという生物種、は同じくその「理性」を以てその人類史というものに、罪悪感・責任感・謙虚な謝罪の念・犯罪行為の決然たる自覚、を以ていさぎよく終止符を打つべきであると思います。
(「(発展的な)幕引き」「栄誉ある譲歩辞世」等として考え直す(最低限には、再考や思考転換を試みる)のは如何がでしょうか。)
「哲学は、死ぬる-滅する、事と見つけたり」
(※註。
以下のように思うのです。
「我、思ふ。
哲学とは(その行き着く先、究極には)死ぬる-滅する事と見つけたり」
と…。)
他生物にしてみればジャマモノの存在が消え失せた事など、認知~認識されないかも知れないし、知覚ですらさえもされないかも知れない。
然しそれはそれでよいのではないでしょうか…。
それこそ人間・全人類の「自己満足」的・独善的・耽美的な自身への打ち止め-けじめ付け、であっても、その結果は他者存在を配慮・尊重するという事に連関するのであり、大いに、ほまれ・誇り・大義・名誉、のある事なのであるとわきまえた方が、(逆説的かも知れませんが)かえってその実(相)は、(ヒト総体の意思としては)いさぎよく「幸せ」と呼べるものなのでは…?
これこそ「有終の美」では御座いませんか…?
「いやそれはおかしい」「そんな筈は無い、お前は間違っている!」などの異論・反論・駁論・持論をお持ちの方よ。
おのれの信念・矜持とするところや、積み重ねて来た薀蓄・(多年の)経歴上の功績や実歴・「武勇伝」を披露したくてうずうずしている御仁達よ。
勝ち負け・勝敗という次元にひどく固執拘泥頓着する衒学者様方よ。
このままでは私のひとり舞台であります。
口惜しいならば、諭してみて下さい。
諫めてみて下さいよ。
さあ、たしなめてみて下さい。
どうぞ、咎めてみて下さいな。
我こそはと思う方、どうぞ喝破でも論破でもしてみて下さい。
いままで論駁し倒された覚えは一度たりとも・一切無し、というのが私の正直な実感です。
((もし「生意気!」「大言壮語を!」「バカの分際で!」と御聴こえならば、)御留意頂きたいのですが、別に尊大ぶっているわけでは御座いませんし、(奇)妙な自己陶酔に浸かっているのでもありません。
記事内容に就いて自慢や誇示をするような性分でも無いですし、「上には上が存在する」事を考えれば、みだりに軽率な発言など出来ようもありません…。
(現代に於いては蓋し稀有と思われるその様な勇気の要る事、「何と畏れ多くも…」「滅相な…」という謙虚の情(裏を返せば利己保身的な自己防衛心理)が働いてしまい、結局は遂行に到らないというのは私だって同じです…。
つまりは、いわゆる「小心者」にしか過ぎません…。)
やけくそに、居直ったり・開き直っているわけでもないです。
勝ち誇っているような勝利感、優越感、或いは誇大妄想的自信のようなものとも全く以て違います。
ましてや自覚的に、自身単独の世界で虚勢を張っていたり、自尊孤高を決め込んでいるのでは断じて御座いません…。
(前述のように他者との交流・コミュニケーションの意欲は大いに御座います。)
御理解頂ければ幸いです。)
斯様な事を、不器用この上なく具申する私という者に就いて。
「何を気宇壮大な事を…!」「誇大妄想か?」「一愚民の分際で何を生意気な…!」との思いも御在りで御座いましょう。
(そんな事すらも重々自認はして御座います。)
しかし敢えて申し上げます。
少なくとも私の人生は一回きりしか保証されていない、という事を。
即ち、スケールの大き過ぎる夢物語であろうと、何とかこの与えられた一度だけのチャンスに、我が本懐を遂げねばならぬという事です。
(※註。
上記から類推~邪推して、何か物騒な事をしでかすのでは、とかの誤解或いは曲解はしないで戴きたいもので御座います。)
私自身の問題としてのみならず他の方々にも言える事と思いますが、個別事象に逐一いちいち拘泥しているようでは、命がいくつあってもとても足りやしない事は自明な事でありましょう。
世界-社会に溢れる、膨大な些細な事象諸々にとらわれていては、限られた人生(人生ゲーム)という制限時間-タイムリミットの冗費、であるに相違ない筈。
あれもこれもに、構っていようものなら-関わりを持とうとすれば、瑣末な事への執着の連鎖ばかりですべてが終わってしまう…。
(無残な「バッドエンド」、むなしき「ゲームオーバー」…。)
由って、可能な限り挙動の無駄を省いて、情報受容摂取や自身入力や自己発信などに於いて、出来るだけ適切な当該種類の取捨選別を要求される事は必定の理でありましょう。
(世の中に山積している-し続ける、「ナゼ?何故?」「謎」の類いへ積極的に関わりをもち、思索や問題解決処理に励む事。
或いは、多種多様な因果関係の究明に勤しみ明け暮れる事。
これらを、過剰多大に~すべてに於いて、我が一身に背負う-抱え込むような事をしてしまったら、全く一向にきりが無い……、これは考えるまでも無く当然である事とは思いませんか?
ただ何となく生きて、ハイ、それで終り…。
それでも良いのですか…?)
判じ得易いよく似た具体的例としては、いわば、ハードル走競技のテクニックのようなイメージでしょうか?
即ち、障害物を跳び越える際に、ただ高いだけの跳躍では非ずに、出来るだけ最小限の飛躍を以てして、スタミナ-体力の温存節約及びタイムの縮減を、用意周到に計る-打算するという感じの…。
「万骨」として枯れ果て埋没する事無く、如何に首尾よく自己実現を完遂させるか。
すべてはおのれの技量次第…。
ところで尚、衒奇趣味に基づく無責任な軽々しい気まぐれや、ガセネタ(を)スキャタリング本位での所思表明でもないし、私自身が不断からそれを地で行く人間であるという訳でも御座いません。
個人的には私自身に、自己顕示欲求や他者による自己承認願望が存する事は、どうしても否定は出来ません…。
しかし敢えて申し上げたいのですが、私のそれは決して、いわゆる興味本位とか(享楽的な)趣味とか金銭的経済的利得営利欲求とかの意味合いで、意見・主張の提起・運動をしているわけでは無い事です。
表現に難航しますが、苦行・執念・ノルマ的作業感覚・義務感・緊迫感・絶望感・使命感(バカみたいですか?)をもって臨む…とかそんなニュアンスで取り組んでおります次第です。
ふざけ-面白-遊び半分などでは断じて御座いません、これでも「真剣勝負」でやっているつもりなのです…。
深刻な状況を鑑みての私の個人的な想いを緊急性を以て伝えなくてはならない、という責務(?)を痛切に感じるからこそ、敢えて自己顕示をするので御座います…。
由りまして、歓喜の情・幸福感・快楽感-悦楽感・充実感-充足感・カタルシスとかいったものとは、およそ縁遠いものであり殆ど楽しくなんか無いです…。
むしろ、気持ちが著しく塞ぎ、落ち込み、暗澹として、滞り、進退窮まるといったところで、もがき喘いでいます…。
「希望の光」や将来への明るい展望-期待、などは全く見えて来はしません…。
常に強い抑鬱感情・閉塞の念に苛まれておりますのが実情で御座います…。
(例えばですが貴方は、社会生活において、何かしらの、よからぬ邪悪な得体の知れぬ、支配・抑圧・拘束・統制・捕縛を被っている(将来被る事になる)ような茫漠とした憂慮-憂鬱の感覚-情念みたいなものは、御感じになったりはしませんか?)
更には、無力感から由来する自己嫌悪の念の積もり積もる事甚だし…。
(これに付随して内心に於いて、(私の言うところの)「他者」をなんら救う事の出来ていない厳然たる事実を踏まえ、苛立ち・良心の呵責・罪悪感も当然の事ながら日増しに膨張してきているのは御判りで御座いましょうか…。)
然しあれやこれやと、考えあぐねる事を幾たびも繰り返し、思いを致した挙句、次のように(暫定的に?)自己納得するようになりましたので御座います。
即ちそれは、抑鬱状態でいる事の方が「まとも」であり、むしろ平然-平素-平気の風情をしている図太い神経の持ち主のほうこそがおかしいのではないか、と(いささかの自信を以て)考えるようになりました次第です。
(この事は、せいぜいが悪しき妥協の産物・開き直り・居直りにしか過ぎぬ、のでありましょうか?)
何しろ、世の中というものは、不安・心配・不快・不平不満の念・抑鬱感情を惹起する事象のオンパレードでありますし、絶えず様々色々な苦悩すべき問題・ストレッサー・難問-難題を我々に投げ掛けてきます。
そして暗黙裡に、打開策を講じよ、解決処理をせよと要求してきているようでもあります。
謎解きの輪の中に、それとなく誘導しているようにも見えます。
これをきちんと((殆ど)完璧さを以て)解決・整理出来ている人の方がある意味で、異常(者)の様に思えるのですが…。
(それとも、世の人ほぼ全員が、三面六臂の如くの活躍を見せる「超人」「神業の使い手」という事ですか?)
快活さ・充実感・充足感・自信に満ちた感情・(真の)自尊心、をもって生きよ、というほうが時代背景などを鑑みましても、もはや無理があるのではないのでしょうか…?
「他人の好奇趣味・猟奇心を煽る様なキャッチーさを狙った、扇情目的、或いは、「目立ちたがり屋」本位-根性などとも、とられかねない-誤解or曲解されかねぬ、テーマ・提題及びその内容に就いて…。」
滅亡・消失のススメなど感情的になるのは判らぬでもないです。
「何という不謹慎な事を…!」と。
然し冷静になって考えてみて下さい…。
肝腎かなめの「生きる意義」を、ないがしろ・なおざりにして、解明無くして、の「生」は所詮は惰性に過ぎぬという事を。
解明が未然であるのに、それを通り越して-飛躍して-超越して-すっ飛ばして、いるようではこの人間社会というものは幻想-虚飾の産物に過ぎぬことを意味しはしまいか?
(逆に言えば、基礎在ってはじめての「社会」「法規律」「政治」「経済」「共同体・帰属対象」「諸知学識体系」「産業」…等々の創出・派生となる筈では?)
ところで当案件を(これに限らない事ですが…)、先入観念・固定化且つ形骸化してしまった考え方・様々な形式的になってしまった方法論諸々・スキーマ・ヒューリスティック依存・ルーティン思考・パラダイム信仰・…、等々を前提とする前に、ふと・ひとたび立ち止まって、落ち着いて冷静に、これらをそもそもの根底から疑ってみる懐疑的な態度で、思考察をして頂きたいのです。
例えば、人間-ヒト中心思想や全人類至上主義に就いて、
「「全世界人類教」という名の宗教集団-団体・宗教的なものに、洗脳された-受洗を被っているのだろうか…?教化されたのだろうか…?」、
或いは「(自分は)集団妄想にとりつかれた一員であるのか…?」と考えてみるとか、
「思い込みへの囚われ」を検討するとか、
「初歩的な手品のトリックのようなものに引っ掛かっているのではないのか?」とうたがってみるとか…etc.。
以上の挙例やそれ以外等々を出来得る限り充全に鑑みた上で、自身の本来の主体的な思考方法が縛られているのかも知れない…、と随時考え直してみるのはどうでしょうか?
(私は(もはや月並みな文言内容かも知れませんが…)「ひとたび・ふと、立ち止まって落ち着いて冷静にものごとを考えてみる事」の重要性を猶も提起したいのです。)
「多種多様多元多極各人各様に存在する「現実」という概念に就いての戸惑い…。」
(その一つの例です…。)
形而上学的領域(?)・マスメディア系・(特に)文語的形式で表現をする世界、などで語られている「現実」と、身近な余りに平素過ぎる-平和安穏無事(?)に過ぎゆく(ように見える)日常の「現実」との、その圧倒的なギャップ・ずれ・差異に戸惑う-迷妄的になってしまう人々が大部分ではないでしょうか…。
私も御多分に漏れぬそのひとりですが、手掛かりとして「確からしさ」から鑑みるに、両者はやはりどこかでつながっている-相通じている…。
であるならば、これを「別世界」「異次元」「他空間」「特別事象」の事として切り離して、自己を納得させ割り切ってしまうのは、それこそ「現実逃避」している事に他ならないのではないでしょうか?
「「信頼関係」が基礎・根幹・前提である筈の人間社会で、あろう事か「人間不信」を示唆的・婉曲的に「教養」として刷り込み・教え込み、教え込まれ-身に付け、ることの本末転倒さ、そしてその事がごく自然な常識として定着しつつあること。」
これでは、もう既にその社会はみかけ-かたちだけのものであり、その内実-実相は破綻-崩壊してはいやしませんか?
常に鋭敏に四方八方に間断無く警戒センサーを張り巡らさねばならない、油断も隙も無い世相。
いついかなる時でも神経を研ぎ澄まさせておかざるを得ない(交感神経(を)働かせ続け、の状態)、否応の無い神経戦-頭脳戦を強いられる…。
周り中が、トラップ・罠・敵だらけで一寸先は闇の緊張感に満ち満ちた冷酷非情な世界像。
そして、相互の腹の探り合いや、騙し欺く事・騙され欺かれる事が既定の前提となった社会。
そこで、このような過酷な環境に於いては、巧みに生き残るために知識偏重という事が、いよいよ過大評価され続けて行く…(のでは?)。
(場を精神世界に移行しての「戦争」でしょうか…?
おおかたは、(何らか各種の)知学識(系)という「武器」を、持って-持たされて、「(重)武装」をし、社会という「戦場」へ、駆り出して行く-駆り出されて行く…、といったイメージの。)
これが人類社会の、遠い過去からようやくにして到達し得てきた答え(ヒト社会の導き出した最終結論?限界点?)だったとでもいうのでしょうか…?
こうした情勢-趨勢に対し、なにかの非常にいびつなものを感じるのは私だけですか…?
気のせいでしょうか?
(「ところで…」
私の言わんとしている事は何(の領域)に分類されるのだろう?
然し、この際どう呼称されようが構わない-余り気にしたりはしない。
この場合に於いて、形式・様式・名義・分類項目名称、等はさして重要性をもたない。
内実・私の思い-考え、が伝わればそれでいい。
私は私なのだから…。)
(齢38歳の際の作。日本人)
shikanneiko
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(※註 記載致しました内容に就きまして…。)
何たる不謹慎と警戒心-憎悪感情を御抱き?滅亡-絶滅イコール悪-わるい、の先入観念。否、思考の囚われ-構え-かたさ-強張りであります。全くの拙文で御座いますが、よく御覧になってみて下さい。(※逆問致しますが、私の提言内容以外に救済策など果たしてあるとでも…?)
(尚、付言致しますと、以下に御示しさせて頂きます用語に御留意頂いた上で、本文を御閲覧下さりますと、助かります。
当方が個人的に注目致しております用語群の一部でも御座います。)
人類 地球 絶滅 滅亡 道徳 倫理 哲学 生きる意味 自我 提言 提唱 人間扱い 徳 道義 正義 人道 存在価値 消滅 消失 人間 ヒト 生きる意義 自然環境 生態系 生物の権利 生命の尊厳 いのちの尊重 概念的考察 正道 思い遣り 全人類 原理的思考 被害者 実体験 追体験 真理 らしさ 主体性 節度 罪悪感 罪障感 領分 分際 自分がされたら 虐待 大量虐殺 大量殺戮 思い上がり 独善 傲慢 実験台生物 犠牲 限界性の自覚 集団妄想 羞恥心 自責の念 食肉・肉食の思想 諸悪の根源 形骸化 我慢 人権思想の限界 民主主義の限界性 人間ヒト優先優越思想 他生物たちの権利 思考の囚われ 形式主義 本音と建前 対象化 優先事項 謙譲 人間中心主義 「領土」思想 「領土」概念 「境界」思想 「線引き」意識 「縄張り」の明確化-実体化 地球返還 自然(環境)の償還 自戒 自律 自制 「解答」(?)までの最短距離の探索 法のための法 法規律の為の法規律 マニュアル主義 「論理」が全てかという問題性 「論理」への偏向 自己目的化した哲学 「証拠・実証・根拠」といったものに偏向する在り方の是非 生物多様性に対する独善的暴力 専門分化の既存-既定-前提 人間社会の癌ガン細胞(及びその動態)との酷似 もはや統制統御統合不可能 原点への遡行 諸科学者の冷徹になる余りの冷酷への帰着 記法・述法・結構様式・諸表現展開・…、の画一化 神格化-「伝説」化の興隆・流行 法規律の絶対化 「原則」の絶対化 「私」「我」「個」の具現としての「国家」「社会」(という、集団-集合体-組織体-構成具象) 実体験と追体験との圧倒的な歴然たる落差 分画を生きるだけの在り方 「原則」の本分
生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。
(続き-2-)
shikanneiko
「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
(前記事からの続きで御座います。)
(2ページ目)
更には、(各方面に於いて)悩む事・苦悩・憂慮する事自体を目的化-正当化し、これが人間というものの本質であるとする、結局は居直り-開き直りにしか見えない意見。
(「知」を存分に漫遊-満喫するのには、別段異議は無いです。
但しそれは、外界に悪影響を及ぼさない限りに於いてであります。
「知」に取り組む事への「原則」「マナー」「行儀作法」(?)のようなものを履き違えたやからは、誤って「知」を高貴尊尚なものとして決め付け、果ては神聖化-神格化の如くに定置し、それに関与する程度の、小さい-低い~無い者たちを、侮辱蔑視する方向へと次第に傾斜していくのでは御座いませんか?
軽んじられる対象者即ち、迫害される者として、無論それは内輪の人間界に限った事でない事は言うまでも無い事でしょう…。)
某当該者(ヒト)それぞれが悠長に-お気楽に「なやんで」いるその「同時」に、刻一刻と世界のどこかで貴重な生命(他生物)群が何らかのかたちでおびやかされている、というのに…。
何という、「おめでたさ」…。
「知」を愛するなどというと、いっけん聞こえはいいですが、かかる概況を鑑みるにあたり、私に言わせればそれは単なる一種の強欲であるだけであると思う次第です。
人は間違いや失敗をしながら成長をして行くもの、だから必要悪として仕方が無いのである…、というのも身勝手な述懐にしか聞こえない。
当該世代の失態の過程を、更にそのまた次の世代が繰り返すという、連鎖的構図に於いて、又してもそのとばっちり・災厄・負債を、被る-背負わされる-転嫁されるのは人類以外です。
各世代の惹起した悪弊害の総集累計は、時間の経過とともに計り知れないものになるのはこれまた自明の理です。
遊び半分・面白半分・興味本位の試行-実験、などのていたらくでやられては、たまったものでは無い。
(例えば、往々にして「いくらでも失敗・挫折をしてもいいからね…」「次があるから…」などとの諭しの常套シーンがありますが、易々と勝手に保証(「失敗は成功の基」の濫発)しておいて、実際はその安請け合い・無断契約の迷惑・損害の連発に巻き込まれる(債務を負わされる)のは他でも無い人間社会以外の側なのです…。
認容許可同意一切無しの連帯責任の強要。
「いい」筈が無いです…。)
人間側がもし何者かの身代わり-犠牲にされたらどういう気分でしょうか?
(ヒトだけが熱弁してやまぬ風情がある)自己生物種至上主義とでもいうのでしょうか?
これに就いてだけは、人間世界全体で奇妙な事に一致している観があります。
以上に加えて「お前こそが(模範を示すべく-率先して)死を選べ!…云々」などとの要旨もかなり多数あり…。
この↑乱暴野蛮痴劣な文句。
蓋し、怒り任せ…。
「ha…?」の一言。
(どうも、大概の人は勘違いをしているようなのですが、私は「自殺せよ」だの「集団自決せよ」だの「~を殺せ」だの、の類いを言及致した事は一度たりとも無いです。
まっとうに伝わっていない悔やしさのひとつです…。
「(自分を)誹謗中傷されている!」「(わたしが)攻撃されている!」とでも、直感的浅慮で以て感じたのでしょうか…?
このような方々(フィーリングの世界の住人)に、再度前記事内容をよくよく御覧じろ、と申し上げたいです。)
とんだ感情論的かつ浅薄幼稚・陳腐常套な、そしてお粗末で貧しい文言としか言いようがありません…。
(勿論これ以外にも、おおかた私の記事をざっと見て適当にかいつまんで、気に食わぬ所の、揚げ足取りをしたり、熱心に粗探しをしてくる-きたような内容の「回答」も沢山ありました…。)
そこには何の論理的説得性が微塵にも垣間見る事が出来ないです。
まじめに-真摯に問題に向き合う-直視する、姿など感じられぬ…。
その意向を前提としても、ならば、道義性・合理性・正当性を踏まえた上での説明を以てしての、その意思の歴たる理由・根拠を示してくれればよいものを、それさえ示さず揶揄皮肉悪口暴言だけ吐いてそれっきりトンズラ…。
蓋しまったくお気軽にして卑劣、私のこころのなかでは脱力的な「アハハハッ…」であります…。
本気-正気で物申しているのでしょうか?
そんな誰でも容易に気付く-思い付く、のが出来よう初歩的な事柄、いやしくもこの私が今まで、考えなかった-苦悩してこなかったとでもお思いか?
直観的に内容を大雑把にとらえ、軽薄短慮な気持ちでの侮辱蔑視意思の伝達目的、或いは性急に興奮-激昂してのほぼ悪意だけを突き付ける目的、としての発言に違いないでしょう…。
更に、主張と矛盾している(「絶滅-滅亡-消失を提唱しているおまえ自身が何故生存しているのか!?」「言行不一致だ!」とか。)とでもお思いなのでしょうか?
それでは、私が生まれてきた意味は何になってしまうというのでしょう。
「死」という事実に到る事、即ちすべてに先行する自我というものが存在しなくなれば、元も子も無いとしか言いようがない…。
包み隠さず申します、「私は生きたい」。
加えて、直截に言わせて貰えば、辛い・苦しい・痛い、思いをするのは「もう」懲り懲りウンザリで嫌であります…!
主体性を充全に発揮して、私らしくあるがままに生きたいのです。
(※野放図な我が儘を地で行くのとは全く以て違います、何卒誤解無きよう…。)
なぜか?
私の存在の意義を探求しその本懐を遂げんが為です。
(「意味」ではありません、「意義」であります)
(※では、その「本懐」とは?
ここでは敢えて申し述べたりは致しません…。
大変リスキーに過ぎますゆえに…。
おそらくは推知出来よう事ですし、ストレートに歯に衣着せずに記述しようものなら、その結果の極めて惨憺たる事は、まさしく自明の理であるからで御座います…。)
ひとまず現時点での総括で御座います…。
以上を鑑みました上でも、やはり私の内面でどうしても動かしがたい最終結論で御座います…。
少なくとも「理性」というものを以て文明を築き上げて来た、全人類・ヒトという生物種、は同じくその「理性」を以てその人類史というものに、罪悪感・責任感・謙虚な謝罪の念・犯罪行為の決然たる自覚、を以ていさぎよく終止符を打つべきであると思います。
(「(発展的な)幕引き」「栄誉ある譲歩辞世」等として考え直す(最低限には、再考や思考転換を試みる)のは如何がでしょうか。)
「哲学は、死ぬる-滅する、事と見つけたり」
(※註。
以下のように思うのです。
「我、思ふ。
哲学とは(その行き着く先、究極には)死ぬる-滅する事と見つけたり」
と…。)
他生物にしてみればジャマモノの存在が消え失せた事など、認知~認識されないかも知れないし、知覚ですらさえもされないかも知れない。
然しそれはそれでよいのではないでしょうか…。
それこそ人間・全人類の「自己満足」的・独善的・耽美的な自身への打ち止め-けじめ付け、であっても、その結果は他者存在を配慮・尊重するという事に連関するのであり、大いに、ほまれ・誇り・大義・名誉、のある事なのであるとわきまえた方が、(逆説的かも知れませんが)かえってその実(相)は、(ヒト総体の意思としては)いさぎよく「幸せ」と呼べるものなのでは…?
これこそ「有終の美」では御座いませんか…?
「いやそれはおかしい」「そんな筈は無い、お前は間違っている!」などの異論・反論・駁論・持論をお持ちの方よ。
おのれの信念・矜持とするところや、積み重ねて来た薀蓄・(多年の)経歴上の功績や実歴・「武勇伝」を披露したくてうずうずしている御仁達よ。
勝ち負け・勝敗という次元にひどく固執拘泥頓着する衒学者様方よ。
このままでは私のひとり舞台であります。
口惜しいならば、諭してみて下さい。
諫めてみて下さいよ。
さあ、たしなめてみて下さい。
どうぞ、咎めてみて下さいな。
我こそはと思う方、どうぞ喝破でも論破でもしてみて下さい。
いままで論駁し倒された覚えは一度たりとも・一切無し、というのが私の正直な実感です。
((もし「生意気!」「大言壮語を!」「バカの分際で!」と御聴こえならば、)御留意頂きたいのですが、別に尊大ぶっているわけでは御座いませんし、(奇)妙な自己陶酔に浸かっているのでもありません。
記事内容に就いて自慢や誇示をするような性分でも無いですし、「上には上が存在する」事を考えれば、みだりに軽率な発言など出来ようもありません…。
(現代に於いては蓋し稀有と思われるその様な勇気の要る事、「何と畏れ多くも…」「滅相な…」という謙虚の情(裏を返せば利己保身的な自己防衛心理)が働いてしまい、結局は遂行に到らないというのは私だって同じです…。
つまりは、いわゆる「小心者」にしか過ぎません…。)
やけくそに、居直ったり・開き直っているわけでもないです。
勝ち誇っているような勝利感、優越感、或いは誇大妄想的自信のようなものとも全く以て違います。
ましてや自覚的に、自身単独の世界で虚勢を張っていたり、自尊孤高を決め込んでいるのでは断じて御座いません…。
(前述のように他者との交流・コミュニケーションの意欲は大いに御座います。)
御理解頂ければ幸いです。)
斯様な事を、不器用この上なく具申する私という者に就いて。
「何を気宇壮大な事を…!」「誇大妄想か?」「一愚民の分際で何を生意気な…!」との思いも御在りで御座いましょう。
(そんな事すらも重々自認はして御座います。)
しかし敢えて申し上げます。
少なくとも私の人生は一回きりしか保証されていない、という事を。
即ち、スケールの大き過ぎる夢物語であろうと、何とかこの与えられた一度だけのチャンスに、我が本懐を遂げねばならぬという事です。
(※註。
上記から類推~邪推して、何か物騒な事をしでかすのでは、とかの誤解或いは曲解はしないで戴きたいもので御座います。)
私自身の問題としてのみならず他の方々にも言える事と思いますが、個別事象に逐一いちいち拘泥しているようでは、命がいくつあってもとても足りやしない事は自明な事でありましょう。
世界-社会に溢れる、膨大な些細な事象諸々にとらわれていては、限られた人生(人生ゲーム)という制限時間-タイムリミットの冗費、であるに相違ない筈。
あれもこれもに、構っていようものなら-関わりを持とうとすれば、瑣末な事への執着の連鎖ばかりですべてが終わってしまう…。
(無残な「バッドエンド」、むなしき「ゲームオーバー」…。)
由って、可能な限り挙動の無駄を省いて、情報受容摂取や自身入力や自己発信などに於いて、出来るだけ適切な当該種類の取捨選別を要求される事は必定の理でありましょう。
(世の中に山積している-し続ける、「ナゼ?何故?」「謎」の類いへ積極的に関わりをもち、思索や問題解決処理に励む事。
或いは、多種多様な因果関係の究明に勤しみ明け暮れる事。
これらを、過剰多大に~すべてに於いて、我が一身に背負う-抱え込むような事をしてしまったら、全く一向にきりが無い……、これは考えるまでも無く当然である事とは思いませんか?
ただ何となく生きて、ハイ、それで終り…。
それでも良いのですか…?)
判じ得易いよく似た具体的例としては、いわば、ハードル走競技のテクニックのようなイメージでしょうか?
即ち、障害物を跳び越える際に、ただ高いだけの跳躍では非ずに、出来るだけ最小限の飛躍を以てして、スタミナ-体力の温存節約及びタイムの縮減を、用意周到に計る-打算するという感じの…。
「万骨」として枯れ果て埋没する事無く、如何に首尾よく自己実現を完遂させるか。
すべてはおのれの技量次第…。
ところで尚、衒奇趣味に基づく無責任な軽々しい気まぐれや、ガセネタ(を)スキャタリング本位での所思表明でもないし、私自身が不断からそれを地で行く人間であるという訳でも御座いません。
個人的には私自身に、自己顕示欲求や他者による自己承認願望が存する事は、どうしても否定は出来ません…。
しかし敢えて申し上げたいのですが、私のそれは決して、いわゆる興味本位とか(享楽的な)趣味とか金銭的経済的利得営利欲求とかの意味合いで、意見・主張の提起・運動をしているわけでは無い事です。
表現に難航しますが、苦行・執念・ノルマ的作業感覚・義務感・緊迫感・絶望感・使命感(バカみたいですか?)をもって臨む…とかそんなニュアンスで取り組んでおります次第です。
ふざけ-面白-遊び半分などでは断じて御座いません、これでも「真剣勝負」でやっているつもりなのです…。
深刻な状況を鑑みての私の個人的な想いを緊急性を以て伝えなくてはならない、という責務(?)を痛切に感じるからこそ、敢えて自己顕示をするので御座います…。
由りまして、歓喜の情・幸福感・快楽感-悦楽感・充実感-充足感・カタルシスとかいったものとは、およそ縁遠いものであり殆ど楽しくなんか無いです…。
むしろ、気持ちが著しく塞ぎ、落ち込み、暗澹として、滞り、進退窮まるといったところで、もがき喘いでいます…。
「希望の光」や将来への明るい展望-期待、などは全く見えて来はしません…。
常に強い抑鬱感情・閉塞の念に苛まれておりますのが実情で御座います…。
(例えばですが貴方は、社会生活において、何かしらの、よからぬ邪悪な得体の知れぬ、支配・抑圧・拘束・統制・捕縛を被っている(将来被る事になる)ような茫漠とした憂慮-憂鬱の感覚-情念みたいなものは、御感じになったりはしませんか?)
更には、無力感から由来する自己嫌悪の念の積もり積もる事甚だし…。
(これに付随して内心に於いて、(私の言うところの)「他者」をなんら救う事の出来ていない厳然たる事実を踏まえ、苛立ち・良心の呵責・罪悪感も当然の事ながら日増しに膨張してきているのは御判りで御座いましょうか…。)
然しあれやこれやと、考えあぐねる事を幾たびも繰り返し、思いを致した挙句、次のように(暫定的に?)自己納得するようになりましたので御座います。
即ちそれは、抑鬱状態でいる事の方が「まとも」であり、むしろ平然-平素-平気の風情をしている図太い神経の持ち主のほうこそがおかしいのではないか、と(いささかの自信を以て)考えるようになりました次第です。
(この事は、せいぜいが悪しき妥協の産物・開き直り・居直りにしか過ぎぬ、のでありましょうか?)
何しろ、世の中というものは、不安・心配・不快・不平不満の念・抑鬱感情を惹起する事象のオンパレードでありますし、絶えず様々色々な苦悩すべき問題・ストレッサー・難問-難題を我々に投げ掛けてきます。
そして暗黙裡に、打開策を講じよ、解決処理をせよと要求してきているようでもあります。
謎解きの輪の中に、それとなく誘導しているようにも見えます。
これをきちんと((殆ど)完璧さを以て)解決・整理出来ている人の方がある意味で、異常(者)の様に思えるのですが…。
(それとも、世の人ほぼ全員が、三面六臂の如くの活躍を見せる「超人」「神業の使い手」という事ですか?)
快活さ・充実感・充足感・自信に満ちた感情・(真の)自尊心、をもって生きよ、というほうが時代背景などを鑑みましても、もはや無理があるのではないのでしょうか…?
「他人の好奇趣味・猟奇心を煽る様なキャッチーさを狙った、扇情目的、或いは、「目立ちたがり屋」本位-根性などとも、とられかねない-誤解or曲解されかねぬ、テーマ・提題及びその内容に就いて…。」
滅亡・消失のススメなど感情的になるのは判らぬでもないです。
「何という不謹慎な事を…!」と。
然し冷静になって考えてみて下さい…。
肝腎かなめの「生きる意義」を、ないがしろ・なおざりにして、解明無くして、の「生」は所詮は惰性に過ぎぬという事を。
解明が未然であるのに、それを通り越して-飛躍して-超越して-すっ飛ばして、いるようではこの人間社会というものは幻想-虚飾の産物に過ぎぬことを意味しはしまいか?
(逆に言えば、基礎在ってはじめての「社会」「法規律」「政治」「経済」「共同体・帰属対象」「諸知学識体系」「産業」…等々の創出・派生となる筈では?)
ところで当案件を(これに限らない事ですが…)、先入観念・固定化且つ形骸化してしまった考え方・様々な形式的になってしまった方法論諸々・スキーマ・ヒューリスティック依存・ルーティン思考・パラダイム信仰・…、等々を前提とする前に、ふと・ひとたび立ち止まって、落ち着いて冷静に、これらをそもそもの根底から疑ってみる懐疑的な態度で、思考察をして頂きたいのです。
例えば、人間-ヒト中心思想や全人類至上主義に就いて、
「「全世界人類教」という名の宗教集団-団体・宗教的なものに、洗脳された-受洗を被っているのだろうか…?教化されたのだろうか…?」、
或いは「(自分は)集団妄想にとりつかれた一員であるのか…?」と考えてみるとか、
「思い込みへの囚われ」を検討するとか、
「初歩的な手品のトリックのようなものに引っ掛かっているのではないのか?」とうたがってみるとか…etc.。
以上の挙例やそれ以外等々を出来得る限り充全に鑑みた上で、自身の本来の主体的な思考方法が縛られているのかも知れない…、と随時考え直してみるのはどうでしょうか?
(私は(もはや月並みな文言内容かも知れませんが…)「ひとたび・ふと、立ち止まって落ち着いて冷静にものごとを考えてみる事」の重要性を猶も提起したいのです。)
「多種多様多元多極各人各様に存在する「現実」という概念に就いての戸惑い…。」
(その一つの例です…。)
形而上学的領域(?)・マスメディア系・(特に)文語的形式で表現をする世界、などで語られている「現実」と、身近な余りに平素過ぎる-平和安穏無事(?)に過ぎゆく(ように見える)日常の「現実」との、その圧倒的なギャップ・ずれ・差異に戸惑う-迷妄的になってしまう人々が大部分ではないでしょうか…。
私も御多分に漏れぬそのひとりですが、手掛かりとして「確からしさ」から鑑みるに、両者はやはりどこかでつながっている-相通じている…。
であるならば、これを「別世界」「異次元」「他空間」「特別事象」の事として切り離して、自己を納得させ割り切ってしまうのは、それこそ「現実逃避」している事に他ならないのではないでしょうか?
「「信頼関係」が基礎・根幹・前提である筈の人間社会で、あろう事か「人間不信」を示唆的・婉曲的に「教養」として刷り込み・教え込み、教え込まれ-身に付け、ることの本末転倒さ、そしてその事がごく自然な常識として定着しつつあること。」
これでは、もう既にその社会はみかけ-かたちだけのものであり、その内実-実相は破綻-崩壊してはいやしませんか?
常に鋭敏に四方八方に間断無く警戒センサーを張り巡らさねばならない、油断も隙も無い世相。
いついかなる時でも神経を研ぎ澄まさせておかざるを得ない(交感神経(を)働かせ続け、の状態)、否応の無い神経戦-頭脳戦を強いられる…。
周り中が、トラップ・罠・敵だらけで一寸先は闇の緊張感に満ち満ちた冷酷非情な世界像。
そして、相互の腹の探り合いや、騙し欺く事・騙され欺かれる事が既定の前提となった社会。
そこで、このような過酷な環境に於いては、巧みに生き残るために知識偏重という事が、いよいよ過大評価され続けて行く…(のでは?)。
(場を精神世界に移行しての「戦争」でしょうか…?
おおかたは、(何らか各種の)知学識(系)という「武器」を、持って-持たされて、「(重)武装」をし、社会という「戦場」へ、駆り出して行く-駆り出されて行く…、といったイメージの。)
これが人類社会の、遠い過去からようやくにして到達し得てきた答え(ヒト社会の導き出した最終結論?限界点?)だったとでもいうのでしょうか…?
こうした情勢-趨勢に対し、なにかの非常にいびつなものを感じるのは私だけですか…?
気のせいでしょうか?
(「ところで…」
私の言わんとしている事は何(の領域)に分類されるのだろう?
然し、この際どう呼称されようが構わない-余り気にしたりはしない。
この場合に於いて、形式・様式・名義・分類項目名称、等はさして重要性をもたない。
内実・私の思い-考え、が伝わればそれでいい。
私は私なのだから…。)
(齢38歳の際の作。日本人)