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いきがい大学

2014-07-04 06:12:03 | フレッツ光
本年2月から始まった学習も終える事になった。
私としては不満が募る。
もっと分かりやすいレポートに・・と感じた。
また建物の名前が多すぎる。
今回のレポートには描く建物名前より他に掲載すべきものがある方が良かった。
ただ時間が無さ過ぎてしまった事だ。
絵を描く時間に班員が多くの時間を費やしたのではないか・・と感じた。
それはそれとして終えてあまりに時間のロスが心残りのつまらない出来事だった。



        モダンでかっこいい建物を描く
美術工芸科 B班

―目次―
1. はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2. テーマの選定について・・・・・・・・・・・・・・
3. 班員が描いた建物一覧と画法・・・・・・・・・・・
4. 対象建築物の現地見学・・・・・・・・・・・・・・
5. 講師の指導を受ける・・・・・・・・・・・・・・・
6. 班員の作品紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・
7. 課題学習を終えて・・・・・・・・・・・・・・・・
8. まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    中根 小林(清) 吉川 戸井田 鶴野   加藤   永村   市川(進)
(編集)(実施報告)(記録)(会計)(班長) (クラス代表)(副班長) (書記)
関川   小林(菊) 横川  奥村    市川(久)  
       (副班長)  (書記) (記録) (会計)   (記録)

1.はじめに
  やっと課題学習発表の機会がきた。時間の早さを痛切に感じた。入学当初からまだ先の話だと全く気に留める事も無かった。
一年を振り返ってみるとデッサン・スケッチ・水彩画等の専門的な講義を学んだ、2月に入って課題学習が本格的に動き始めた。
2.テーマの選定について
テーマの選定にあたって、まず班員13名がひとり1つのテーマを自薦し、その内容や理由についてプレゼンテーションを行いました。技法的には水彩から油彩、彫刻、陶芸にまで及び、内容的には神社仏閣から富士山、巨木、妖怪にまで広がりました。それぞれが個性的で多彩、独創とひらめきがありました。
選定は投票という方法に落ち着き、二度目の投票で最も多数をとった「埼玉県西部地区のモダンでかっこいい建物の表現と歴史的美学的研究」が班のテーマに決定しました。
実に不思議なことでしたが、テーマが決定してから多くの疑問が出てきました。班員自らが選定したテーマにもかかわらず、解釈の曖昧さを克服しなければ前に進めなかったのです。
私たちは最終的にどのようなテーマを掲げるにしても、最初のテーマである「埼玉県西部地区のモダンでかっこいい建物の表現と歴史的美学的研究」を忘れることはできません。このテーマこそ私たちの課題学習を充実した内容に導いてくれたのです。
課題学習のねらいとして「討論等を通じて相手を理解…」すること。「何を学んだか、何ができたか、ということよりも、むしろ取組の過程を重要視…」すること。「集団生活のルールを体得…」すること、などがあげられています。
私たちのテーマは班に議論をもたらしました。そして、それぞれの疑問を検証する中で、相互に理解を深めることができたのです。私たちは、知らないうちに「課題学習のねらい」の、かなめのところに触れていたのでした。
最初に、テーマの長さに異議が出されました。もっと短く簡潔に表現するべきという意見でした。多くの班員が最もだと考えましたが、具体的にどうするのかという点では一致が見られませんでした。
次に「モダン」という言葉につまずきました。何がモダンで、何がモダンでないのか。神社仏閣はモダンでないのか。神社仏閣にこだわりを見せる班員は、神社でもその時代時代のモダンの要素があると主張しました。
私たちは「建物」というわかりきった言葉にさえ疑義をはさみました。建物の一部であるステンドグラスや屋根の形状に着目し、そこを描きたいという人がいました。そこにこそ多くのモダン的要素が含まれていると考えたのでした。
一番議論が沸騰し繰り返されたのは「歴史的美学的研究」というフレーズでした。何が美学的なのか。歴史的とは何か。モダンと歴史的という言葉は相矛盾するのではないか。一人1ページという制限の中で、あるいは数分の発表の中で、研究という言葉にふさわしい内容をまとめることができるのか、端的に言ってしまえば、私たちにそんな力量が備わっているのか、ということでした。
  中々結論が出ない中で、テーマの提出日が迫り、今後の変更も視野に入れながら、「埼玉県西部地区の」という部分を除き「モダンでかっこいい建物の表現と歴史的美学的研究」と修正して提出したのです。
すると県外の施設を描きたいという人が現れました。例えば東京駅はモダンであり歴史的です。この正論に多くの班員は絶句してしまいました。しかし、埼玉県西部地区という文言を外した意図は、西部地区だけでなく少し範囲を広げておこう程度の認識だったのです。そこで再び会議を開催しました。
テーマをめぐる疑問や解釈の相違のため、ある時会議が空転し前に進めなくなってしまいました。
そこで、逆の発想をとりました。抽象から具体へではなく、具体から抽象に迫ることにしたのです。即ち、描く対象を個々人が決定し、その建物が私たちのテーマに合致するかを検討しました。この方法は成功しました。建物を一つ一つ検討する中で、ボンヤリとにじんでいた画像が次第に鮮明になったのです。
モダンとは何か。洋風建築を取り入れた建物と単純化しました。歴史的という範囲について明治・大正・昭和前半と具体的に考えることにいたしました。これらの作業を通して、曖昧だったものが整理され、解釈を一つにまとめることができたのです。
次に描く対象物の視察を行い、全員の共通理解を、更に確かなものにしました。
そして各人が建物を描き、文章の作成をしたのです。
それらの作業が終了して、再びテーマの検討をしました。分かり易いテーマにしようということになりました。振り返ってみると、私たちの課題学習は、ほとんどの時間を、テーマについての議論に費やしたといってもいいくらいです。
議論の過程で相手を知り、自分を知ることが出来ました。意見も述べましたが、他の人の話を聞くことの大切さも知ったのです。多様な考え方を知り、それぞれの視野が広がりました。行動力のある人、まとめる力のある人、ユーモアがある人、様々な個性を持った仲間を知りました。団体のルールも知りました。曖昧だったものが具体化されるにつれて、チームとしての団結や連帯が強まり、班員としての自覚も高まりました。
私たちのテーマは、「モダンでかっこいい建物を描く」に最終決定されました。この表題は特に個性にあふれているとは言えませんが、最初のテーマの考え方を内包しています。そこに至るまでの熱い思いが込められています。研究という言葉は削除しましたが、少しでもそこに近づきたいという心情まで削除したわけではないのです。

3.班員が描いた建物一覧と画法
作 者 名   建  物  の  名  称  画   法
埼玉りそな銀行川越支店 油彩 F8 日本聖公会川越キリスト教会 水彩 F8 埼玉県立川越女子高等学校明治記念館 水彩 F6 旧石川組製糸西洋館 水彩 F1 カトリック入間宮寺教会 油彩 F10号 川口市旧田中家住宅 水彩 F6中根 さいたま市立浦和博物館 水彩 F10号
埼玉県立松山高等学校記念館 水彩 F10号 埼玉県立深谷商業高等学校記念館 油彩 F8号
誠之堂 水彩 F6号 和牛懐石 彩々亭 油彩 F10号
   嵐山町立嵐山幼稚園 油彩 F8号
旧飯能市立南川小学校 水彩 F6号

4.対象建築物の現地見学
4月17日 川越、入間方面
(1)埼玉りそな銀行川越支店(旧第八十五銀行本店本館)
大正7年竣工の洋風建築、緑のドーム屋根とシマシマの付け柱の意匠が美しい。威風堂々とした堅牢な建物は当時の火災を考えて建造された。
(2)日本聖公会川越キリスト教会
大正10年建設の煉瓦造。川越市内の煉瓦建築の中で一番古い。内部は木組みと煉瓦が調和していて温かみのある空間。二重合掌造りの天井。
(3)埼玉県立川越女子高等学校
明治記念館
明治45年建設の切妻造瓦葺平屋建。現存校舎の中で唯一明治期の木造建造物。東西に細長い形式で全体が横目板張り。現在も学生たちの部室や会議室として使用されている。
(4)旧石川組製糸西洋館
大正11年頃建設、2階建ての本館と平屋の寄棟造りの別館から構成。 
アメリカからのバイヤーを迎える ための迎賓館。当時の贅をつくし宮 大工に造らせた。
(5)カトリック入間宮寺教会
明治44年建設、切妻の瓦屋根の和 と尖塔部分の洋の入り混じった教会建築。

5月1日 さいたま市、川口方面
(6)旧田中家住宅
大正12年建設した木造煉瓦造三階
建の洋館と、昭和9年に増築した和館
の和洋折衷の煉瓦館。当時味噌醸造業
と木材商として成功を収めた。
洋館の玄関を入ると帳場と神棚があり、隣には商取引を行う立派な応接室がある、三階にも迎賓のための眺望の良い応接室が配してあり当時の豪商だったことがわかる。
(7)さいたま市立浦和博物館(鳳翔閣)
明治11年建設の洋風建築。(「鳳翔閣」は埼玉県師範学校につけられた名前)
昭和34年に「鳳翔閣」は解体されたが、その後中央部外観を復元し、現在は博物館として種々の展示物を見ることができる
5月8日 東松山、深谷、行田、嵐山方面
(8)埼玉県立松山高等学校記念館
大正12年建設の学校木造建築、旧松山中学校舎の本館一部。平成16年に「教育資料館」として整備開館された。空色の壁と朱色の屋根が美しい。
(9)埼玉県立深谷商業高等学校記念館
大正11年建設木造2階建、校舎はフレンチ・ルネサンスを基調とした和洋折衷で平成23年から25年の修復工事で萌木色の壁が印象的である。
(10)誠之堂
   大正5年、煉瓦造り平屋建。小規模ながら多彩な煉瓦積技法と自由な意匠によって端正かつ雅趣ある建築物。当時は東京の銀行のクラブハウスとして利用されていた。
(11)和牛懐石 彩々亭(足袋御殿)
   昭和初期建設の木造建築、荒井八郎が建てた豪邸で別名「足袋御殿」。調査当日は店のご好意で、食事前に室内を見学させていただいた。 ランチも美味。
(12)嵐山町立嵐山幼稚園(日本赤十字社埼玉県支部旧社屋)
   明治38年建築、木造平屋で基礎部分は煉瓦造り。赤い瓦屋根に水色の下見板の洋館。昭和58年に埼玉県庁敷地内から嵐山町に移築され、現在は幼稚園として大切に使われている。






5月22日 飯能方面
(13)旧飯能市立南川小学校
   昭和13年二階建て136坪の大きさで建築された。
下見板張の木造学校校舎。山間部の小さな学校。平成5年3月に廃校。
   戸井田さんが35年前担任していた思い出の学校です。


5.講師の指導を受ける
「モダンでかっこいい建物を描く」このテーマを決めるにあたりモダン建築
物はどの時期に建てられた物をいうのか・・・等の話し合いが行われた。
そこでこの分野に詳しく見識ある鳩山町在住の大護先生(版画家)に指導をお願いした。
(1)指導いただいた日時
1回 4月27日 10~12時  3回 5月27日 9~11時
2回 4月28日 1~3時   4回 6月10日 9~11時
(2)講義・指導いただいた要旨 
① モダンな建物を表現するにあたり構図の取り方、視点の定め方、遠近感の出し方(一点透視図法・二点透視図等)の指導を受けた。
② 色彩については、色の作り方や配色についてなど、興味深くお教えくださいました。
また美術教師をされていた
奥様からもご指導いただき感謝感謝です。 
先生のご感想
「楽しみながらも納得のいくまで追求する皆さんの姿勢には圧倒されました。若い人に負けないパワーと情熱を感じ、楽しい時間を共有させてもらいました。」・・・・・励ましの評価はやはりうれしいものです。


6.班員の作品紹介
埼玉りそな銀行川越支店を描く
24番 横川登代
蔵の街“川越”は観光都市として宣伝され、多くの観光客がやってくる。土・日はもちろん平日さえ、中央通りは歩行者天国さながらの混雑である。
かつては仲町から札の辻辺りまで、大商店が軒を連ね、黒光りする重厚な日本瓦の蔵が建ち並んでいたそうである。
関東平野の豊かな穀物は、新河岸川を船で一大消費地“江戸”に運ばれ、帰りには江戸文化を満載し、小江戸と呼ばれる程に川越商人を豊かにさせたと聞いている。
毎年10月に行われる川越祭りの山車を、個人で持っていたと聞くとその繁栄ぶりが想像される。
そんな賑やかな大通りに、モダンなブルーグリーンの丸いドームが、ひときわ印象的な埼玉りそな銀行川越支店がそびえ立っている。
大正7年に第八十五銀行本店として建築された。設計者は保岡勝也氏。保岡氏は東京駅を設計した辰野金吾の下で西洋建築を学んだ後、丸の内の三菱ビル8号館から21号館、また数多くの銀行建築を設計されたそうである。中央通りの反対側に建つ旧山吉デパート(今は歯科医院・平成20年復元工事)も、保岡氏の昭和11年の作品でルネッサンス様式の美しい外観が今も見られる。
堂々とした外壁タイルは時代を感じさせ、黒く塗られた蔵壁(戦火を免れる為)の街並みに明るさを添えて、いかにも中核都市川越の中心である事を主張しているようである。
いつもの見慣れたこの建物も、絵に描くとなるとよく見なければならない。行き交う車や人々に邪魔者扱いされながら立ち止まってみる。
付け柱のような縞模様のデザインや窓枠の美しい色合いが、優雅にまたすっきりと白い外壁を彩り、単調にならずに見る目を楽しませるに十分だ。
丸いドーム屋根は夢があって一番大好きだけれど、よく見ると尖塔や飾り窓ふうの工夫がされていて、ブルーグリーンの屋根が空に吸い込まれそうである。
細かい所は描けなかったが建物の美しさが表現できればと思う。

赤レンガ「川越キリスト教会」を描く
                7番 
私は十数年前、川越市内を初めて散策した時、気になる建物が目に入りしばし立ち止まり、じっと見入ったことがあった。このことが今回この聖堂を描くきっかけとなりました。
この建物は1979年日本建築学会「近代主要名建築」全国622の1つに数えられ、2001年には国の「登録有形文化財」になった。
明治以降の西洋への憧れから生まれたこの聖堂は、川越日高線の県道拡幅に伴う変動期にあり、モダンな洋風建築が好まれた時期でもあった。1918年に建てられた池袋の立教大学の煉瓦校舎と同じ建築管理技師ウィリアム・ウィルソン氏の設計で、1921年今の清水建設が施工した。要した費用は現在の貨幣価値で1億3千万円、そのほとんどは当時ニューヨーク大学教授ピーターソン氏夫妻の尽力によるものである。このころの川越には煉瓦の建物がなく、鐘楼上に高く掲げた十字架のある赤煉瓦の建物は、遠くからも人目をひいたという。
外観はイギリスのチューダー様式を模して建立され、急勾配の屋根は尖塔アーチ型の窓の垂直性と共に高さを強調し、全体として中世ゴシック建築を思わせる、モダンでシックな品のよいデザインとなっている。外壁に使用した煉瓦は渋沢栄一氏が設立した日本煉瓦製造の製品である。そしてフランス積みを採用し、単調ではなくところどころに焼きむらがあることが特徴で、それが落ち着いたムードを醸し出し、瀟洒と堅牢の両面を持っている。
内部の天井は二重合掌造りで、屋根を支える梁と柱は三位一体の神を象徴した形をなしている。そして全体が木組みと煉瓦とが調和してあたたかみのある空間である。照明の電球は吊りさがりの丸型カバーで覆われており、ボンボンが礼拝堂の随所を照らしている様で、尖塔アーチ型の窓の垂直性と対比して見事である。
古代以来、我が国は大陸の先進文化を積極的に取り入れ、消化して独自の文化を築いて来た。東アジアの外れに位置する島国が、歴史的・地理的ハンディを抱えながらも近代化への原動力になったのが、W・ウィルソンのような「お雇い外国人」と言われる人々で、彼らが我が国の建築史に残る仕事を果たしてくれたのである。         
「新旧が共存してこそ都市」といわれるが、歴史的建造物の保存の重要性が認識させられた課題学習でした。                                                
また今回の学習は、皆さんと親しく交わりながらグループ学習が進み、洋風な建築物の数々を見る機会にも恵まれ、建物への興味関心が増しました。モダン建築探訪は卒業後の楽しみの一つになり、絵を描く楽しみも湧いてきました。
埼玉県立川越女子高等学校明治記念館           
                             2番 
選定理由:
美術工芸科B班のテーマが、埼玉県の「モダンでかっこいい建物を描く」に決定した時、私は今まであまり知られていない建物を調べたいと思いました。 そんな時、4月1日付の読売新聞の埼玉版で、川越市が県立川越女子高校内にある「明治記念館」を市文化財に指定したという記事と写真を見て、学校側に見学を申し入れました。 翌日、快くご了解いただき、事務長さん自ら30分かけて案内、説明をしてくださり、写真撮影も許可していただきました。 そして明治末期の学校木造建築のやわらかさと、明治、大正、昭和の激動の時代を経てきた凛とした佇まいにモダンでかっこいい魅力を感じました。 現在も学生の皆さんがこの伝統ある建物を部室、会議室等として使用していることに驚き、水彩画でこの建造物の優しさと百余年の歴史が描ければと決めました。 しかし建物を描くのは不得意でどのように描いたらよいのか解らず不安でしたが、大護先生のご指導のもとやっとエスキースに入ることができました。 東西に長い建物でしたので特徴のある南玄関から左側の洋室と、屋根にある六角形をしたゴシック風の排気用尖塔を入れる構図にし、萱ペンで描くことにしました。   
歴史と建物:
 「明治記念館」は明治44年、川越高等女学校が町立から県立に移管されたことに伴い現在地に建築された二棟の木造校舎の一部。 創立当時の校舎配置図によれば様々な校舎が渡り廊下で連結される形式を採用しており、そのうちの一棟であった。
建築年代は明治45年で現存校舎の中では唯一、明治期の建築物。 外観は切妻造桟瓦葦平屋建の細長い形式で、全体が横羽目板張り、ほぼ中央には切妻屋根平入りの玄関が南北に設けられていた。 二つの玄関はほかの校舎と連絡する渡り廊下の出入り口で、屋根には六角形の排気用尖塔が設置され、平面としては、二つの玄関を結ぶ建物中央を境に西側に洋室3部屋、東側を和室に分けられています。 この点に合わせて南側立面では洋室に上げ下げ窓、和室側に縁側に沿って引違ガラス戸を配し、北側側面は、片側廊下形式を採用しているため上げ下げ窓で統一させている。 
平成6年3月に関係者の熱意と協力により修復保存工事完了。 「和室」は書院作りの床の間のある56畳敷きの格式のあるもので、現在は茶道部やその他部活のOG会等に利用され、「洋室」は弓道部、マンドリン部の部室の他に会議室一室があり、同窓会、PTA、教職員の会議室として使用されているそうです。
参考資料:川越女子高等学校「明治記念館」
川越市教育委員会文化財保護課「埼玉県立川越女子高等学校明治記念館」
モダンでかっこいい西洋館にロマン(明治の気概)が!
9番
☆所在地
 狭山から16号で入間河原町交差点に向かって進行、左側に黒須団地(旧石川組製糸跡地)を見ながら信号を過ぎると左側に古い西洋館「旧石川組製糸西洋館」が見えてきます。創始者の石川幾太郎がアメリカの貿易商を招くのに、「豊岡をみくびられてはたまらない。超一流の館を造って迎えよう!」と建設した迎賓館である。
☆何故モダンでかっこいいと思ったか、その歴史・美・国登録文化財H13/11/20
 大正10年(1921)に
迎賓館として上棟。和風
工法による西洋風建造物。
半切妻造、屋根窓を設けた変化のある屋根に特色。洋瓦葺化粧煉瓦張で、軒下には雷電紋が描かれ(内部も連携)玄関も神社仏閣風である。小粒だが胸をはり威風堂々。明治維新後、あらゆる西洋文化が取り入れられたが、無条件で西洋のものを取り入れたのでなく西洋式に和式を融合させる形で官民が近代化を目指したことの証として歴史的ロマン(明治の気概)を感じた。明治の製糸業は女工哀史ばかり伝えられているが、西洋館を創った石川組は利潤追求の結果としての西洋館建設ではなかった事にもロマンを感じた。
☆旧石川組製糸とは
石川幾太郎が創始。明治26年(1893)~昭和12年(1937)に解散。最盛期には、
現在の入間市3工場、狭山市2工場、川越市・福島県・愛知県・三重県などに各1工場を持ち、昭和6年(1931)には生糸の出荷高で全国6位となりニューヨーク五番街にも事務所設置。幾太郎は、弟の和助の影響でキリスト教に入信。一般に製糸業では女工の過酷な労働(映画・野麦峠)が伝えられるが、石川組製糸では女工の積極的な教育に取り組むなど、慈愛に満ちた雇用形態だった。道路反対側の「日本メソジスト教会 豊岡教会」は大正12年(1923)、石川幾太郎が女子従業員の礼拝を目的に、当時のお金1万円と教会用地1,000坪を寄付し完成。
☆どのように建てられたか
設計は室岡惣七(川島町の旧遠山邸も設計)大工は川越の宮大工関根平蔵・川越まつりの幸町「翁の山車」の改修や神社・町家多数。父松五郎は「時の鐘」や「石川組製糸本店工場」の建築の棟梁。入間市博物館の学芸員の方のアドバイスで川越市内にミニ西洋館(関根平蔵が残資材で創った)を見つけた時はまた感激。

カトリック入間宮寺教会
                              1番 
カトリック入間宮寺教会は、素朴な和風木造平屋の建物です。モダンと言えるのは、入り口に十字架をいただいた鐘塔が屹立しているからです。和に洋が組み込まれ、新たな調和を形成しています。
宮寺教会は1911年(明治44年)に建築された埼玉県内で最初のカトリックの聖堂です。切妻屋根の平屋建てで、上部に鐘塔があり、奥に祭壇が設けられています。
内装は、畳敷きのワンルームですが、祭壇が一段上がって板敷になっています。22畳の畳は真ん中の畳を一列だけ縦使いをして、祭壇の中心性を高めているとの説明でした。正面の祭壇に十字架が架かり、左右にキリストとマリア像のステンドグラスが設けられています。
この宮寺教会が、他のモダン建築と著しく相違することは、高名な設計者とか、権威ある建築家などによって建築された建物ではないということです。宮寺教会は、初代神父の献身的な奔走と、近隣の無名な大工の手によって、また多くの信者の労役によって建築されたのです。
建物の素朴な表情は、こうした建築事情に由来します。斬新な建築様式とかについては、宮寺教会は一切無縁です。この教会は庶民の造った、庶民のための建物なのです。
宮寺教会は2011年に100年祭を執り行いました。戦争中、神父が強制収容されるなど苦難の時もありました。近隣に爆撃を受けたこともありました。しかし、それらの時代にも、流れは絶えることなく、細く脈々と続いて現在に至っています。
100年を経て今なお、その役割を果たすべく存在していること自体が、一つの信仰の奇跡であるのかもしれません。
私はこの建物の素朴なたたずまいに魅力を感じて描く対象にしましたが、いざ描き始めてみると、すぐにその困難さに直面しました。この建物の象徴である鐘塔が、構図をとりにくくしているのです。また、建物の素朴な質感をどう表現すればいいのか、試行錯誤いたしました。苦心惨憺し、悪戦苦闘した結果が、左の絵です。
 壮大で華麗な西洋建築の教会ではなく、片田舎に建てられた小さな小さな建物によって、信仰の灯が守られ、引き継がれ、共有され、持続したことに感動を覚えました。ここに集うような人々こそがキリスト教という信仰を、底辺で支えているに違いないと確信しました。
教会の歴史などを説明してくれた信者の方の、穏やかな表情や、優しい言葉遣いなどを思い浮かべつつ、つたない絵を描きながら、どのように歳を重ねればあの信者のように無垢な風貌になれるのだろうか、信仰心とは何だろうか、などと考えたりしたのでした。
地域のランドマークであった旧田中家住宅
                   21番 
旧田中家住宅をモチーフとした理由
  旧鳩ヶ谷市(合併し川口市)から川口工業病院へバスで家族の小児ぜんそく治療のため通院していた頃、国道122号線左側にモダンな建物があり関心を持っていました。今回の課題学習テーマのモチーフとして検討した原点です。
旧田中家住宅の概要
  川口市内の国道122号線「末広交差点」赤羽寄りに煉瓦塀に囲まれた3階建ての洋館がモチーフの旧田中家住宅です。明治時代初期~中期にかけて当地にて麦味噌醸造業・材木商として財を築いた4代目田中徳兵衛が、地域のランドマークとなるようなモダンで立派な洋館を、迎賓のため大正12年に竣工しました。
設計者について
 設計者の桜井忍夫は、東京株式取引所(明治31年竣工)等を設計した佐立建築事務所のもとで洋風建物の建設に関係しています。東京株式取引所の外観は、後に桜井が自身の設計事務所で設計した旧田中家住宅にも生かされたものと思われました。
旧田中家住宅のカッコよさ等について
  モチーフとしての建物は、木造煉瓦造3階建ての洋館です。イギリス式に煉瓦を積んだ壁に暗紫色の化粧用煉瓦を張り、石材等で仕上げ美的で重厚な壁面を表現しています。これに銅板装飾を施した柱頭、ペディメントと窓や建物入口に取付けられた白系統のアーチやスパンドレル、窓枠等が上手くレイアウトされ、建物全体がかっこいいデザインとなっています。これらの外観は同時代の代表的洋館でモダンであった、「旧東京音楽学校奏楽堂」(明治23年竣工、国指定重要文化財)、「帝国図書館」(現在の「国際子ども図書館」で、同館の正面東半分が明治時代後期に工事が完成した部分。東京都選定歴史的建造物)、川越市の「カフェ・エレバート」(大正4年建設、伝統的建造物・川越市指定文化財)にも見られることがわかりました。
国登録有形文化財の内容
  旧田中家住宅は今回のモチーフとした洋館と和館、文庫蔵、表門及び煉瓦塀の構成で平成18年(2006年)3月27日に国の有形文化財に登録されています。
参考文献 ①「旧田中家住宅」(川口市教育委員会)、②「埼玉モダンたてもの散歩」
③ 旧田中家住宅内説明パネル、④「上野公園内近代建築散策マップ」
埼玉県師範学校鳳翔閣(現・さいたま市立浦和博物館)
20番 

建物は、現在さいたま市立博物館として利用されている。明治11年(1878)に浦和宿に建てられた埼玉師範学校校舎(鳳翔閣)の胴部外観を復元したものです。鳳翔閣について最も注目すべきところは、優れた技術の洋風建築の木造二階建てである。中央に玄関を置いている。玄関の庇(ひさし)の上部(2階)には切妻屋根庇をかけたバルコニーがあり、その一部に古材を使用している。このような形式はルネッサンス期から19世紀末にイギリスで多く見られていた。建築家にはウォールズやコンドルが多く設計に携わっていた。またバルコニーの柱頭にはヨーロッパ原産のアカンサスの葉の彫刻も見られる。このアカンサスの葉の彫刻は・・日本銀行本店・赤坂離宮(現迎賓館)・旧英国総領事館等明治から昭和初期の洋風建築に見られます。鳳翔閣は、明治33年には埼玉県女子師範学校として使用された。また大正14年からは県立図書館として使用された。その後昭和34年老朽化のため解体された。
館内には、馬場小室山遺跡出土人面画・五榜の高札・浦和宿絵図・少年と鳩・銅製鍍金八角釣燈籠等が展示され、また享保16年(1731)井沢弥惣兵衛門為永が造った見沼通船掘の模型がある。日本最古の閘(こう)門式運河です。全長約1kmで芝川を挟んで見沼代用水東縁と西縁を結んでいる。この二本の代用水路と芝川との水位差3mあった。この3mの水位差の為に4ヶ所の閘門を設けて水位を調節しながら船を通すと云う方法をとった。この結果江戸との間に舟運が開け、この地域の流通が活発になった。吉見町周辺及び、北本、上尾地域で私の描きたいモダンでかっこいい建物がなかなか見つからなかった。そんな中偶然小冊子「埼玉モダンたてもの散歩」で見つけた建物です。師範学校卒業した姉は以前私の住んでいた市内で教鞭を執っていた。
文献資料:埼玉博物館「昭和61年発行・埼玉自治文化課」
埼玉県立松山高等学校記念館              
10番 小林清七
☆記念館の歴史・特徴
 木造の校舎が少なくなっている中で、大正12年建築であり、大正年代を代表する格調高い風格を現代に伝える貴重な遺構となっている。特徴として中央上部のシンボル塔屋と単窓の上げ下げ窓を規則的に配列し外枠に装飾を施し単調な外壁にアクセントを付けている。
☆記念館概要
  ①構造 木造塔屋付き2階建て
  ②建築 大正12年2月
  ③改修 昭和45年建物縮小
  ④用途 大正12年松山中学校として、戦後は県立高校として、現在は教育資
料館として利用されている。

















☆私の選んだ理由
 今回の課題学習の資料として「埼玉モダンたてもの散歩」に目を通してまず自分が住んでいる東松山市所在の建物である「松山高校記念館」に決めました。
早速2月28日に記念館を訪れスケッチをしたり、写真を撮りました。その際生徒さんが私のそばを通る時、必ず挨拶をされるのに感動いたしました。松山高校の教育の一端を見た思いで課題学習対象建物と決定しました。
☆絵を描くについて
4月15日再度記念館を訪れ杉田教頭先生にお会いした際も、懇切丁寧に学校の歴史等説明して下さいました。水彩画を描くについては特徴ある屋根、塔屋に気をつかいました。描いて残念でしたのは、改修工事の際、校舎の両端を切断され建築時の姿でない事です。当時種々の事情があった事と思いますが残念でなりません。
深商記念館に想いを寄せて
11番 小林菊江
*深商記念館の誕生
○大正10年 町立深谷商業学校設立認可
       (後の県立深谷商業高等学校)
○大正11年 校舎竣工







○昭和56年 創立60周年時新管理棟建設
      旧管理棟の二層楼を記念館に変更
      大正期の学校建築の特色をよく表し     
      た洋風校舎であり、地域の文化歴史 
      を知るうえでも貴重な建物                                            





















 モダンなクラブハウス誠之堂
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誠之堂は深谷市北部にある大寄公民館の敷地内に建っているレンガ造りの物で、
近代クラブハウス建築の遺構として文化的にも極めて重要と言われている国の重要文化財です。
開館時間は午前9時から午後5時まで、入場無料で申し込めば係の人が丁寧に
説明してくれます。
誠之堂の歴史と魅力
 誠之堂は大正5年、渋沢栄一氏の喜寿を記念して第一銀行の行員たちの出資により、世田谷区瀬田あった第一銀行の保養施設清和園の敷地内にクラブハウスとして建てられました。
 建築に当たって渋沢栄一氏から「西洋風の田舎家」「建築面積は30坪前後」「小宴会に適する程度の設備」との条件が付けられ、清水組(現在の清水建設)の技師長だった田辺淳吉氏(後に大正時代建築の名手と称される)が設計し、施工は清水組が行いました。
外観は全面煉瓦造りで焼きの異なる3色の煉瓦が使われ、白い煉瓦で菱形の模様を壁に描いています。屋根には煙突と風見鶏がありいかにも西洋風農家の落ち着いた雰囲気が醸し出されています。
室内は大広間の正面に暖炉があり、その上に渋沢栄一氏のレリーフがあります。窓は中国の祝宴の様子を描いたステンドグラスで飾られ、円筒型の漆喰天井には朝鮮で縁起が良いとされる雲、鶴が松葉で縁どられ、デザイン化された寿の文字も配されています。次の間の天井は、日本的な網代天井で数寄屋造りになっており、日中韓の縁起の良いデザインが取り入れられ、手の込んだ細工と落ち着いた雰囲気が魅力的です。
平成9年に取り壊しが決定しましたが、渋沢栄一生誕の地である深谷市が譲り受け、平成10年2月から2年間の解体・復元工事を経て、平成11年8月に移転復元が完成しました。
平成15年5月30日には国の重要文化財の指定を受けました。
誠之堂の名は渋沢栄一氏自身により命名されたもので、儒教の経典のひとつ「中庸」の一節「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」にちなんでいるそうです。


足袋御殿  彩 々 亭 
                16番 
 歴史的背景
彩々亭は、行田市の中央、水城公園の東側に位置しており、緑豊かな木立に囲まれています。
昭和の初期、最盛期には「足袋の行田か、行田の足袋か」とまで言われ、足袋の生産量は年間8400万足、全国生産量の約8割を占めていました。
「穂国足袋」の商標で知られた荒井八郎商店は、荒井八郎氏が創業し、一代で財を築き上げました。彼は、足袋業界の要職を歴任するとともに、戦後は参議院議員としても活躍しました。彼が贅を尽くして建てた邸宅が「足袋御殿」と呼ばれ、政財界を始め多くの人々が訪れ、迎賓館として使われていました。これを料亭として復元させたのが「彩々亭」です。
戦前の行田を代表する木造洋風建築です。館内は趣きのある廊下、アンティークなランプ、風変わりな襖や障子など随所に大正浪漫の雰囲気が漂う和洋折衷造りで、懐かしさの漂う落ちついた雰囲気で、ゆったりとした時の流れを感じます。
建 物
事務所兼住宅、大広間、洋館の3棟が雁行型に並び、3棟とも平成19年に、国登録有形文化財に登録されています。
[事務所兼住宅]  昭和元年築、木造2階建て、寄棟造り、建築面積213㎡、屋根には緑瓦を葺き、2階をモルタルで仕上げ、外観に変化を与えています。
中央のマキの木は樹齢250年、以前の茅葺屋根の建物も資料も残っていませんが、このマキの木だけが時の流れを見守っているかのようです。
[大広間]  昭和7年築、木造平屋建て、庭園を望む10畳2室、北側に控えの4畳2室、床の間はケヤキの1枚板を使用するなど贅を尽くした内装です。
昭和天皇が戦後行幸の際、ご持参のお弁当をここで召しあがったということです。
[洋 館]  西奥の洋館は昭和10年築、木造3階建ての屋根に緑釉瓦で葺き、外壁はモルタル仕上げ、欠円形の飾り庇のタイルを貼りアクセントをつけています。大正浪漫たっぷりのこれらの3棟は廊下でつながっています。
実は上の図や右の絵のように見えるポイントはありません。樹木が多く庭園から3棟の建物が視野に入らないため、構図は苦労しました。
特別な日に「足袋御殿」と呼ばれる、この空間で食事をすることが、行田市民の贅沢のひとつなのです。
モダンでかっこいい建物・嵐山幼稚園
13番 吉川義隆
[選んだ理由]
私は子供が大好きです。我が家は小学校隣にあります。毎朝子供達と元気な声で挨拶を交わすのはとても清々しく気持ちが良いものです。そこで可愛い子供達との関わりあるモダンな建物を描きたいと思い「嵐山幼稚園」を選びました。
[環境]
武蔵嵐山駅から南西に3.2km離れた緑豊かな環境の良い場所にあります。近隣には都幾川があり、夏休みには大勢の家族連れで川遊びを楽しむ姿が見られます。
[歴史]
明治38年9月県庁の敷地内の一画に日本赤十字社埼玉支部社屋として建設された物を昭和55年頃に県庁周辺の県保有地有効利用の検討が行われ、一時は取り壊しの議論もされましたが、県文化保存審議会の調査により文化的価値が高いと判断されました。
そこで候補地の中から県民保養構想があった嵐山町に譲渡が決まり、昭和58年に嵐山町鎌形小学校の敷地内に移築し、一時は小学校として使用しておりましたが、平成6年3月に埼玉県指定文化財に登録され、平成19年3月に嵐山幼稚園として開園致しました。
[設計者と建築様式]
設計者は明治・大正の建築家山下啓次郎氏であります。
木造2階建てで基礎部分は煉瓦を使用しており屋根は赤瓦、軒下は白く柱と壁は水色に塗装されコントラストよく清潔な感じが致します。
このような建物は19世紀末にアメリカで流行したコロニアルスタイルと呼ばれ、その特色はこけら茸壁の山荘風木造建築様式で建物の正面や左右の妻飾り中庭に面するベランダ(吹放しの廊下)等に見られます。又、床は全面板張りで暖かさを感じます。窓も沢山あり部屋の中が明るく健康的な造りです。建物を象徴するかのように日本赤十字社のシンボルマークの十字架が玄関上に取り付けてあります。
[油絵に初めての挑戦] 
水彩か油絵かの選択です。先生から油絵は再度塗り直しが出来ると言われましたので油絵を選びました。初めて油絵の筆を握りましたが、絵具の混ぜ方や遠近感ラインを真っ直ぐ描こうとすると手が震え戸惑いました。油絵は一気に描くものではなく塗った物を乾かしながら次の工程に入る事も学びました。1枚の絵を描くのに何時間も掛りましたが自分なりに描く事が出来ました。これからも時間が取れましたら皆様に見て戴けるような絵を描きたいと思います。
板張りのモダンな 懐かしい旧飯能市立南川小学校
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学校創立と2階建て校舎
 明治7年3月5日に第四大区+小武蔵国秩父郡南川村岡房長岡山正蔵庵を仮用し、南川学校として創立されました。
現在残っている2階建ての校舎は、昭和13年2月11日に創建された建物です。
児童の数は、多い時期203名おりましたが廃校の時は51名となってしまいました。平成5年4月から、南川、北川、吾野小学校の3校が合併になり、新しく吾野小学校として吾野小学校と吾野中学校の跡地に新校舎が建てられ開校されました。 
描いた理由
 研究課題である「モダンでかっこいい建物」を絵に描くことになり「埼玉モダンたてもの散歩」のパンフレットを見て、この校舎を描きたいと思いました。この旧南川小学校は高台にあり天目指峠を正面に見ることができます。また、廃校にあたりライトアップされ、地域の人々に大変親しまれていました。若い時期に3年間勤務した学校です。
建物について
 校舎は木造2階建てで、外壁は板張りで窓は今では懐かしい小さなガラス枠の横引きの窓です。冬には隙間風が入り、真冬になると朝の1,2時間目は氷点下になり寒い中での授業もありました。また、床は板張りで清掃も大変でした。授業中ムカデが出てきて大騒ぎになったこともありました。
これからの思い
 木造2階建ての校舎を見ていると、私が学んだ小学校を懐かしく思い出されます。これからも心の中に大切にしまっておきたいと思います。
















7.課題学習を終えて

絵を描くって本当に楽しい。                
卒業後の「いきがい」がみえてきました。         
楽しい充実した時間を過ごすことができました。        
 対象建物への愛着を感じつつ描いた事が新鮮だった。      
共同で学ぶことの面白さを知りました。            
班員との絆を深めることができました。          
136年前の時間を経た建物の表現は影を強調して描きました。
仲間意識及びお互いの信頼感を強く植え付けられたと思います
充実した時間が過ごせ、油絵にはまるくらい楽しかった。  
どの建物も丁寧な仕事と細工が素晴らしかった。     
油絵を描く再挑戦するきっかけになれば良いと思います。
描き上がった時の満足感を得ました。           
木造校舎を水彩で楽しく描けた。           


8.まとめ
私たちが想い描いた「モダンな建物」の作品をご覧いただき、いかがでしたでしょうか。
日頃、何気なく目に入ってくる風景の中の建物ですが、あらためて見つめるとそれぞれの歴史には奥深い素晴らしいものがありました。
  私たちB班は、明治、大正、昭和初期までの各地のモダンな建物を巡り、先人の知恵を活かした歴史的建物や、その背景に忘れていた懐かしい郷愁さえ思い巡らせる機会にもなりました。 
現地見学は全員が一番印象に残り、楽しかった取り組みだったと思います。
最近ではふと通りがかった街でも、今まで気づかなかったモダンでかっこいい建物が目にとまるようになりました。
  モダンな建物を描くことが最大の課題でしたが、大護先生のご指導をいただきながら、ほとんど自宅での制作でした。これほど一生懸命になり、集中したのは、もしかしたら受験勉強以来だったかもしれません。
そして何よりの収穫は、あまり会話がなかったクラスメートとも、ひとつの目標に全員で向かって行ったという達成感ではなかったでしょうか。
私たちが願って止まないことは、今回取り上げなかった建物も含めて、地域の文化がいつまでも後世に保存され、維持されていくことです。
もちろん私たちの友情もいつまでも……。
課題学習の指導をしていただいた大護先生、時々アドバイスをいただいた原田先生、小杉先生、この場をお借りしてお礼を申し上げます。
 
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