島崎城跡見学ガイド【東二の曲輪・Ⅲの曲輪・大堀】

島崎城跡東二の曲輪・Ⅲの曲輪・大堀の発掘調査報告を見ながら城跡見学を楽しみましょう。

島崎城跡見学ガイド【大堀・外曲輪】

2022-05-19 10:16:10 | 城跡見学

大堀予測図

大堀・外曲輪の発掘調査報告

Ⅲ曲輪外周の空堀〈6〉の北側が,外曲輪にあたる。標高29~30mの平坦地で,古宿の台地部である。この外曲輪には,現状で確認される堀は、三条で、西側峰つづきに掘切が残る。

図3の空堀<8>は,南側に土塁をともない。空堀〈9〉は,現在堀底が道路で,やはり土塁が,高さ2mほどで,南側および東側にめぐる。空堀〈10〉は,堀底が道路で,土塁は認められない。おそらくは空堀〈10〉が古宿集落の境目であったとみられ、その北側の堀切 <11> が,大構えとしての北限であったとみられる。空堀〈8〉は,耕作地化により,南側半分が消滅しているが、空堀〈6〉と,西側斜面でかって合わさっていたという話を古宿の古老から聞けた。古宿公民館の前を通って,空堀〈6〉と並行する道路が空堀〈8〉の穿たれていた跡にあたる。

空堀〈9〉と土塁は湾曲しカギ形となり,空堀〈8〉に合わさり,100m×80mの方形の曲輪を形づくる。古宿で,中心的な施設がこの方形曲輪内に存在したとみられる。 古宿台地の西側は権現作と呼ばれる大きな谷が入りこみ、その先(西)が御山台と呼ばれ, 寺院がかって存在した跡で,かなり削平地が残る。この御山台の西側は、上幅15m現状で深さ 1.5~2mを測る堀切 <12> がある。この堀切 <12> が古宿台地の区切りとなり,御山台から 東側は、土塁状の障壁が形成される。

なお,御山台は出城的な役割が強かったとみられ,その先端(西へ400m)に島崎城西出城が、半分カットされた情況で残る。

 


島崎城跡見学ガイド【Ⅲの曲輪】

2022-05-19 10:08:18 | 城跡見学

Ⅲの曲輪予測図

Ⅲの曲輪発掘調査報告

以上、みてきた各曲輪が,いずれも南北臨を長軸として,自然地形を利用しているのに対し,Ⅲ曲輪は、東西幅を長軸とする。これは城が立地する行方台地末端の枝峰方向(稜線)が東から西へ形成していることにより,この枝峰上台地と城郭域である中城を区画するため、東西に長く堀切り、曲輪が東西に伸びた形となったといえる。大きさは東西185m・南北35m,曲輪占地で,面積は7083㎡,標高は29.50m前後である。

昭和43年,Ⅲ曲輪東寄りに送電鉄塔が建設される折,試掘調査が実施された。この調査で, 島崎古城ともいえる今日の島崎城遺構とは結びつかない古い時代の空堀が検出されている。

Ⅲ曲輪は、南斜面の坊主屋敷・越前曲輪と共に中城域を形成、長蛇にうねる土塁と空堀〈6〉に より,外曲輪との間を遮断している。城内域で最大の面積を有する空間であるのは、三の丸と しての物資集積の蔵建築群・兵勢訓練等の場として利用されたためであろう。

土塁は、空堀〈6〉に沿って全長207mに亘って残存する。屈曲・屈折して,堀切〈6〉と外曲輪の縁にとりつく敵に対し,横矢掛り施設となっている。内輪内からは比高1.5mほどで残り,東側塁壁上部にも土塁が続いてめぐっていた痕跡を見い出せる。

空堀<6>実効幅13~18m(上幅11~16m)で、現状の深さは6~10m。斜面壁面はいずれも岩盤が露呈し,刳り抜いた大工事過程をみることができ,凡そ45~60度の勾配である。堀の全長は凡そ240mに及び,横矢掛りのための屈折が8カ所にわたってある。とりわけ,東北部4カ所のほぼ直角に連続して屈折する様子は圧巻そのものといえる。おそらく、堀底が通路となって、東側の搦手方面からの進入をここで遮断するための周到な構築であったとみられる。


島崎城跡見学ガイド【東二の曲輪】

2022-05-18 11:00:23 | 城跡見学

島崎城跡東二の曲輪予測図

八幡台から見た島崎城跡鳥瞰図

東Ⅱ曲輪 発掘調査報告

馬出曲輪につづいて,近世でいう二の丸に相当する東1曲輪が台地稜線上の平場に広がる。東西20~35m (平場17m~30m)・南北75m(平均70m),約2328㎡の面積を有する。平場の標高30.18~30.20前後で、城内の曲輪のうちで最も高レヴェルに位置し、北側土塁褶の八幡台は標高34mで、城内で最高所にあたる。平面プランは瓢箪形で中央部が縊れるが,これは自然地形による湾曲と,外周に穿っ堀切への横矢掛りによる防備上の必要性による。今日曲輪内には空堀<3>の堀底(現状埋立) 道より南西より坂があって入るコースと,前述の馬出曲輪の土橋を経由するものとがある。図1,図2をみても明らかな通り,南西からのコースは,空堀<2>を埋めたて,近世もしくは近代に内輪内に耕作地を設け、その住来のための坂道である。従って,この坂道は廃城前にはなく,土塁が空堀<2>に接していたことになる。となる と、外からの進入は、空堀の上に架橋したと考えるしかない。すなわち,①虎口(イ) から帯曲輪に入り,②虎口(ハ)を通過し,③空堀の堀底道をぐるりめぐって,④東Ⅱ曲輪東側中腹の堀の終る地点より,外周土塁上にのぼり,⑤比較的ゆるやかな坂道を物見台上にまでのぼり,⑥架橋されてきた橋をわたり,⑦八幡台に入ったものとみられる。八幡台が幅3~3.5mもあり,土塁福としては必要以上に幅広で,物見台中腹に腰曲輪があるが,腰曲輪は橋脚のため、八幡台と物見台が幅広の削平地であるのは橋梁の設置のためともみられる。しかし,このルートはあくまでも推定の域を出ない。

東Ⅱ曲輪東南部は、若干の土塁状痕跡がみられるか、土塁が崩れた跡であるのか,耕地化した折の根切りにともなう区画であるのか、判断できない。縁淵部は南側で土橋接続部分の幅1. 5mの通路となって20mを空堀<2>に並行して延び,90度折れて土橋となる。