SWINGの歌手紙(318)
「男性の乳腺癌治療32日目」
今日も癌からの出血が全く有りません!
昨夜から連続で温シップをしています、
明らかに硬い部分が小さくなりました。
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今日は終戦日!子供ながら見聞きしたことを綴ってみた!
*****2015年 8月15日土曜日*****
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今日終戦70年目に成る、阿倍談話が放送されていた。
もう、その当時成人だった方は何人生存していらっしゃる
のでしょうか。
私は当時小学校6年生である程度見聞きして
日本の姿を知っている。
物心ついた時には支那事変が始っていて、
日露戦争で戦った人なども大勢生存していました。
決して勇敢だった話ばかりではなく、恐怖にさらされた
事なども聞いています。
敵と対戦したときなど塹壕から頭を出すことが出来ず
鉄砲だけを出して目くらめっぽう撃っていたことなど。
いざ突撃になったときはチャンコロ(支那兵)はすぐに
逃げだしたこと。
南京陥落では戦いは無かったことも自慢げに話して
いました。入場したときにはチャンコロは一人もいなくて
拍子抜けしたこと。
民衆を虐待していたのは日本兵ではなくチャンコロで
あったこと、
その為、住民は日本兵を大歓迎してくれたそうです!!
何故日本政府はその人たちの聞き取り調査をしないの
でしょうか?していても公開していませんね?
正当性を何故主張できないのか不思議です。
はっきり言って日本が戦ったのはアメリカです、
負けたのもアメリカです。
後の国々は勝ち戦の便乗組みでしかありません!!
そして残虐性で言えば対戦国のほうが日本の数倍も
残虐でした。でもそれは戦死した仲間の仕返しの
意味合いもありお互い様だったと思います。
私の父も海軍軍人で潜水艦のりだったのですが
召集された時点で既に乗る潜水艦は無く陸上勤務となり
フイリッピンへ行きました、そして戦死です。
でも、私は6年生で特攻志願し身体を鍛えていました。
その当時は死を恐れたことは有りませんでした。
大阪空襲でもB29は空高く飛んでいますがグラマン
は低空を自在に飛び時には飛行士の顔が見えるほど
低空の場合も有りました、そして射撃してくることも
有りました。
大阪は何回空襲があったのか知りませんが
終戦当年は毎日のような気がします。
夜昼無く空襲でした。
明らかに民家しかない場所も、
焼夷弾の投下時は凄いものでした何百機もの爆撃機から
落とされるのですから空中で塊が落ちてきたと思ったら
それが花開き1発の焼夷弾が小型の48発もの
焼夷弾となりばらばらと落ちる様を遠くから眺めて
いました。
空を覆い隠すほどのB29から落とすのですから
まるきり雨が降るようでした。
その下では逃げ惑う人たちがいるのですが
私たちには見えません。
どんな気持ちだったのでしょうか。
原爆の恐ろしさも理解できますが大阪大空襲は
何時襲ってくるかと恐怖の連続です。
私の田舎の田んぼだらけの場所にも爆弾は
落とされました。
もう無茶苦茶ですゲーム感覚のようなあり様でした。
明らかに民家を狙って作られた焼夷弾は戦時下とは
言え違法なものです、それを日本は追求したことが
有りません。
戦に負けるということはこういうことです。
二度と見たくない光景です、このような光景が
現代もこの地球上で続いているのです。
経験者語るとよく言いますが、
日本の力で何とかならないものなんでしょうか。
ですから阿倍談話を聞いていて、今までとは少し違う
談話になっていることがわかる。
遠まわしに日本の正当性も含めた
実情を含めて
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