「行方郡見学会」の回に参加して来ました。
ロマンあふれる、そしてそこに隠れた侵攻勢力と原住民の駆け引き等。当時の面影がこんなにも生き生きとして残っているのですね。
「三昧塚古墳」
築堤の為、盛り土を使い、新しく古墳の形に整えられました。建設当時の古墳の形が解ります。ここからは「金銅製馬形飾付冠」等が出土。丘ではなく平地に造られた珍しい古墳です。
「勅使塚古墳」
この地域では一番古く、紀元4世紀後半頃と言われています。古墳は古くから先祖の墳墓という認識だったので、頂上に祠が祭られることが多いのだそうです。
「大日塚古墳」
古墳は山を利用したのではなく、一度平にならされて棺室が作られ、そこに盛り土がされ造られました。豪族と言われる権力者がどれほどのものだったのかが伺えます。
以上、沖洲古墳群です。「勅旨塚古墳」「大日塚古墳」については、地元の方で古墳に詳しい方とご一緒でないとなかなか難しい場所です。
「橘郷造神社」
弟橘姫(倭武の后)を祀る神社
「若舎人部広足 万葉歌碑」
「倭武天皇の像」(霞ヶ浦ふれあいランド)
「若海の香取神社」
若海貝塚の上に建つ神社。境内や周囲には貝殻が散らばっています。
ー倭武天皇が鴨を射ろうとしたところ、弦の音に応えて鴨が落ちた。そこで地名を「鴨野」という。ー
鹿島参宮鉄道の敷設により移設。 ↑「鴨の宮」に遷宮されました。
幕末。芹澤家本家から玉造郷校に行き来する途中にあり、倭武天皇の逸話や鴨の宮が、新選組初代筆頭局長「芹澤鴨」の名前の由来ではないかとも言われています。
駅家に因んででしょうか、馬の蹄鉄が掛けられていました。
※現在は畑が上流にあり農薬の心配がある為、手を洗う程度にお使い下さい。
「夜刀神」
水田開発をしようとする侵攻者と原住民との、諍いと取り決めの様子が言い伝えとなって残ったのかもしれません。
「荒原神社」
「 提賀里(てがのさと)」に建つ家族像
「玉清井(たまのしみず)」
ー槻野の清泉(つきののしみず)。倭武天皇がこの水辺で手を洗い、玉で井を清められた。ー
水田開発に当たっては灌漑技術が重要となる為、水に関する逸話が多くあるのだそうです。この地では、ここから開発が進められたのだろうというお話でした。
「玉清井(たまのしみず)」と同じ場所にある社。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます