茨城県立歴史館にて
特別展示「志士のかたちー桜田門、天狗党、そして新選組」
こちらを皮切りに、あちらこちらを巡って来ました。
その前に歴史館のカフェコーナーで一服。
「弘道館」
今回は閉館時間となってしまったので、ぐるりと散策して来ました。
弘道館は、第九代藩主徳川斉昭公が天保12年(1841年)に開設した日本最大の藩校です。
「弘道館近辺」
こちらは工事中ですが、橋の向こうに階段が出来ていて高い所からの眺めが面白いです。
「藤田東湖誕生の地」
水戸南一丁目の交差点を千波湖方面へ曲がると道沿いにあります。
「藤田東湖」は藤田幽谷の二男、筑波山にて挙兵した天狗党・藤田小四郎は東湖の四男です。東湖は戸田 忠太夫と共に「水戸の両田」と称され、徳川斉昭公の腹心として藩政改革に活躍しました。また水戸学者として尊皇の志士達に多大な影響を与え、水戸へと足を運ばせています。安政2年10月2日の「安政の大地震」で圧死。地震前日に芳野金陵(儒学者・漢学者)に贈った書「麗澤(れいたく)」は、平成28年、芳野金陵ご子孫から水戸市 弘道館に寄贈され、現在 茨城県立歴史館特別展示「志士のかたちー桜田門、天狗党、そして新選組」にて公開されています。
「東照宮」
「権現さん」と呼ばれています。
徳川家康(東照公)を主祭神とし、徳川頼房(威公)を配祀する神社。
「備前堀・銷魂橋 (たまげばし)」
備前堀に掛けられた銷魂橋は、水戸街道の終点(水戸からは、江戸街道の起点)。
元治甲子の乱。天狗党筑波勢は、斉昭夫人が水戸城内にいることから、攻撃を通告した上で正面から公然と、つまり水戸街道を進み藤柄町口と清水町口より攻撃を開始。諸生党市川勢は大砲を備えるなど充分な態勢を取り、筑波勢を撃退しました。
「十軒町武家屋敷跡」
十軒の武家屋敷があった事から名付けられたと言われています。芹澤家分家 又衛門の屋敷があったのもこの辺り。
「赤沼牢屋敷跡」
ー山吹の 実はなきものと思えども つぼみのままに 散るぞ かなしきー
「新舟渡跡」
裏新町(蔵前)にあった本舟渡から、細谷村舟渡へ移った新舟渡は、水上交通の要地として陸前浜街道の舟渡場として重要な役割を果たしました。
「神勢館五町矢場」
水戸9代藩主斉昭が嘉永6年(1853)細谷の地に造らせた製砲所と射的場。
元治甲子の乱。水戸藩主名代松平頼徳公は平和入城を果たそうと神勢館に進軍、館長の福地政次郎はこれを迎え入れました。頼徳公は水戸城に使者を遣わしますが市川等は拒絶、逆に砲撃を仕掛けて来ました。どちらも引かない戦いでしたが、幕府や諸藩の軍が次々に水戸に到着し、市川勢につきました。頼徳公率いる大発勢は幕府に敵対する格好となり、兵士の疲労が激しい事、入城の見通しもつかない事もあり、七日後、神勢館から退却しました。
この戦いで神勢館は焼失、五町矢場も昭和25年(1950)那珂川改修の築堤により取り崩されました。
「ふるさと懐古館」
床から天井までのびる2本の柱には「元治甲子の乱」でついた刀傷がある、というので見てみたかったのですが、東日本大震災にて被災、現在はすっかり取り壊されていました。
「光明寺」
こちらも縁のお寺ですが、詳細は伏せます。
「祝町向洲台場跡」
「水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、天保11年(1840)に帰国したとき、那珂湊の砲台のみでは海防が不充分と考え、対岸の祝町へも砲台を建築することを意図した。ただちに実施されなかったが、ペリー来航後の安政2年(1855)4月に縄張りが行われた。その後藩内の事情もあって、砲台築造は文久3年(1863)7月頃から始められ、翌元治元年の天狗党の乱ではこの砲台から大砲が発射されている。明治期までは砲台の姿がよく保存されていた。」(大洗町教育委員会作成の看板より)
看板が出来た当初は整備もされていたのかもしれませんが、現在は道もなく丈の高い雑草が生い茂っています。そこを掻き分け到着。
今回はここまで。
水戸市東部については、「水戸商工会議所」HP・歴史と伝統の東部巡り よりお世話になりました。解説等もお借り致しました。感謝。
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