あやめの里便り

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H19 県民大学

2007-06-24 00:23:21 | 潮来・茨城の歴史
今年も県民大学の歴史講座を受講しています。
その名もずばり「鹿行の歴史ー資料から見た天狗騒動」です。

「天狗党」=尊攘激派ということで、悪いイメージを持たれる方もあるかと思います。
「身内に天狗がいた」という事を、この時代になってからやっと明かす方があった、という事を私も聞いていたので、「何がそんなに口を重くするのだろう」という漠然とした疑問を持っていました。
今回はピンポイントで「天狗党」の講義を聴くことが出来、せっせとノートをとっています。
エピソードや裏話的なお話もあって、興味しんしんです!

ちょっと長くなりますが、お付き合い下さい。




まずはこれから話さなくては始まらない!


水戸藩は江戸屋敷に藩主が住んでいて、家老も常駐。水戸にはせいぜい一年に一度くらいしか帰って来ません。
御三家ということで、参勤交代はないのです。
自然、江戸と水戸では考え方に違いが出てしまいますよね。
次期九代藩主を決める際にも、大きな見識の違いが出てしまいました。
江戸では将軍家より養子をもらうつもりで、段取りが大部分出来ていたようです。
しかし、たまたま水戸から来ていた武士が聞きつけ驚き国元に連絡をします。
連絡をした相手は藤田東湖。
東湖も他200名余りを引きつれ江戸へ。
折悪しく八代藩主が亡くなり、東湖は「朶雲片々(だんうんへんぺん)」と呼ばれる跡継ぎについて書かれたものを見つけます。
これが決めてとなり八代藩主の弟である「斉昭」が就任するのですが★

水戸藩は35万石とは表向き、本当は28万石ほどで、他の御三家の半分ほどの石高しかありませんでした。それは将軍家も承知で、度々借金を聞き入れていたそうです。
この時には将軍家から養子を迎えることで、5万両もの持参金が見込まれていたようで、江戸の家老たちも水戸藩のために粛々と事を進めていたのでしょう。
それが、水戸から出て来た中下級武士たちが雪崩れ込んで来てパー!!
その上そのまま江戸に留まり斉昭公と藩政をとるとはなんたることか!天狗め!!

・・と、このように「天狗党」の名の由来があった訳です。


そして斉昭公ですが、講師の方いわく「スーパーマン」だそうで、まず翌年には「天保改革」をすすめます。
  ・倹約
  ・武備の充実
  ・学校建設
  ・偕楽園
  ・郷校
  ・年貢を軽くする
などが主ですが、「武備の充実」では外国に備えて海防城(助川館)をつくり、砲台を作り、そのお台場をつくりました。(ちなみに水戸藩内です)
幕府からもだいぶお褒めの言葉を頂戴したようです。

しかし、その砲台を作るにあたり「毀鍾鋳砲(きしょうちゅうほう)」といってお寺の鐘や仏像をつぶしてしまったのだそうで、それを水戸のお寺から幕府の菩提寺である寛永寺に訴えられ、斉昭は失脚・謹慎となってしまいます。
もちろん東湖らも謹慎。家屋敷も没収され、5人扶持に甘んじる生活が9年間続きます。

その後・・「ペリー来航」でまた人生上向きに!
斉昭は「防海参与」として幕閣になるのです!!

とまあ、人生いろいろなことがあるものですが・・。

ここからは裏エピソード。
まず就任の決め手となった「朶雲片々(だんうんへんぺん)」なんですが。
現在は「写し」しか残っていないそうなんです。
つまり・・「本当はなかったんじゃないの」とは講師の先生。

そして、斉昭が74門も納めた大砲ですが、これは50-80メートルしか飛ばない代物。しかも10発も打ったら割れてしまうという・・。
木骨鉄船「旭日丸」も建造しますが、江戸湾を出たら全く航行不能だったようです。
これが日本だけでの精一杯の技術。
薩摩・長州が外国と直接戦った経験から自力を悟り、外国の力(技術)を受け入れようとしたのと対照的です。



その後、「安政の大地震」で藤田東湖・戸田忠敬といった斉昭の右腕とも言うべき「水戸の両田の死」から斉昭公の迷走・水戸藩の混乱が始まります。


・・・・・まずは第1回めのお話でした・・。








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