さて、『流山』とは。
先ず地名の由来
「上州・赤城山の一部が流れて来た」というのが一説。
『赤城神社』(お祭りでは15mの階段をお神輿が駆け上がります)がそれなのだそうです。
1.江戸川
かの徳川家康は利根川の大改修工事をしましたが、その時旧太日川の流れを利用して出来たのが『江戸川』です。名前の通り利根川と江戸とを結んでいます。
つまり、流山と江戸は目と鼻の先。
米の集散地として、また舟運・酒造業も盛んだったそうです。
「江戸から着物を買う為にお客がやってきた」と説明をされましたが、日本橋を差し置いて?と思ったりして。でも、確かに個人商店とはいえ呉服屋さんがとても多い街です。
2.味醂
流山で「白みりん」をつくりはじめたのは江戸時代の後半、二代目堀切紋次郎(万上みりん)・五代目秋元三左衛門(天晴みりん)。
女性や子供の飲み物(薄めて飲む)として大ヒットをしたのだそうです。
3.小林一茶
↑の秋元三左衛門は俳句もする人で、別名を「双樹」と言いました。
小林一茶と親交があり、一茶も流山に度々訪問しました。
『一茶双樹記念館』『光明院』『赤城神社』などに、一茶・双樹の俳句の碑などがあります。
4.新選組
大河ドラマになったことがあるので、ご存知の方も多いでしょう。
もう最終回間際、近藤勇が「大久保大和」・土方歳三が「内藤隼人」と名のっていた頃です。
はじめから西軍はそれが新選組だと解っていた訳ではなく、たまたま遭遇してしまった、ようです。
抵抗せず投降し、正体を隠し通せれば釈放・・されたはずが、西軍に元御陵衛士(リーダーである伊東甲子太郎を新選組に惨殺される・元々は新選組)のメンバーがいたため発覚。「坂本竜馬殺しの犯人は新選組」と憎む(元?)土佐藩士に強く断罪され、近藤勇は板橋で処刑されました。
*「丹後の渡し」・・新選組が流山に渡って来たところ。
「矢川原(やっから)の渡し」・・近藤勇が投降するため渡ったところ。
「羽口の渡し」・・西軍が渡って来たところ。
*「鴻池」・・新選組に協力的だったのか、よほどの大商人だったのか。
江戸萱場町、そして流山にも鴻池。江戸川で繋がります。
新選組の本陣はこの鴻池の蔵。現在は流山商工会の駐車場となっています。
明治になって「永岡」という苗字になったということで、永岡屋(長岡屋)と紹介されることが多いようです。それが定着してしまったので、場合によって使い分けている、とも言っていましたが、確かにパンフレットをみても良くわかりません・・。今書いていることも、もしかしたら違うかも・・とちょっとドキドキしています。
およそ2時間の観光案内とパンフレットで解ることはこのくらいでしょうか。
隊長さんはもう、次から次と言葉があふれてくるようです。
本当にたくさんお話頂いてありがとうございました。
明治時代中期には県庁所在地であったほど繁栄を極めた地。
また『流山寺』の焼夷弾(だと思いましたが)の跡を考えると、戦争中も空襲などあったのでしょう。
市役所の近くには博物館もあるので、次回はその辺りもゆっくり見てみたいと思います。
(何しろ2時間で来られる距離でしたから、水戸に行くのと変わりません)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます