あやめの里便り

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とある文章 その2

2009-01-10 21:53:48 | 潮来・茨城の歴史

※まずはこちら→ 「とある文章」

*これより 織田鉄三郎著「天狗党鹿島落ち」を参考にしています。

塙又三郎重義・立花辰之介・岡見徳三達行・斉藤左右吉本誠・同弟好次郎・根本新介義次・砂押忠次郎正則・・どうやら水戸藩士のようです。
(名前がちょっとずつ違います。特に斉藤兄弟。)


「水戸藩史料」として
『塙又三郎重義 大番組勝算の三子・・等六十余人 、鹿島地方に拠りて義旅を召集して云々』
とあり、岡見徳三達行が鹿島より、水戸の養父に宛てた書簡には『八月二十二日』の日付があったようです。

「茨城県贈位者事蹟」として
『宍戸侯松平頼徳の水戸に赴くに及び』とありましたので、参加したというよりも「そういう事があって」「時を同じくして」くらいの意味なのかもしれません。

この塙又三郎重義という方、京で奔走していたのが国元の乱れを聞いて急遽東下、藩邸(江戸)で議を呈し、岡見徳三、立花辰之助(宍戸藩の藩士のようです)等と団結し・・とあります。
これが『留りて江戸に在り。』なんでしょうね。

そして筑波山では参加出来なかったものの、田丸稲之衛門・藤田小四郎が小川館に滞陣している事を知り、小塙村のお寺で会い議論をしています。
この時に筑波勢が水戸に行く事を知り、塙又三郎重義等は横浜を襲撃する為、まず鹿島を目指す事になったらしいです。

ここには那珂湊の事は出て来ませんし、筑波勢と行動を共にしなかったのなら、その意味合いからも、大発勢にはやはり参加していないと見た方が良いのではと思った次第です。

さて、実際はどうだったのでしょうか・・。



・藩それぞれが乱れたように、ひとつの藩の中でも藩士それぞれの思想によって分かれ、行動が分かれた事。
・それを束ねられない幕府・藩主の力の衰え。
・交通手段が(ほとんどの場合)徒歩にも関わらず、京・江戸を行き来する超人的な体力・気力。
(現代人はこの時代の人間の足元にも及ばないでしょう)
・そんな幕末人にとって、江戸と水戸藩は目と鼻の先。



史料によって内容が違うのにも驚きました。

前回の文章だと、事態に乗じて騒いでいる若者みたいな印象でしたが、とんでもない!
国を憂える若き志士達だったのだと判って本当に良かった。
鹿島に集まり、そして戦いながら命散って行った志士達はなんと六百余名。
この若者達も筑波郡前野村にて自首、逗留された岩井で斬られました。
11月4日。
塙又三郎重義 19歳。 最年少の斉藤好次郎 14歳。

(ご冥福を祈りつつも・・無念さを感じずにはいられません)




今後「鹿行地方」の「天狗騒ぎ」を調べるに当たっても、今回の事を踏まえ、出来るだけ様々な方面で書籍を集めたいと思います。
(集められるか・・読み込む事が出来るか・・甚だ不安ではありますが)
まだまだ、時間は掛かりそうです。


そして文末ではありますが・・
一番初めの「とある文章」私の疑問に対して、「こうなのでは?」とメールまで下さったお方に、感謝申し上げます。
その方は「文を分けて考えてはどうだろうか」と仰って下さり、(読み物ではない)史料の読み方のヒントを教えて下さいました。
今後、史料類を読み進めて行くと、やはり良く判らない文章にぶち当たると思いますので、その事も頭に置いて見て行きたいと思います。
ご指導、本当にありがとうございました!


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