古老の話によりますと、
崇神天皇の時代に、東国に住む凶暴な賊を平定するため、建借間命(たけかしまのみこと)を派遣しました(この人は那賀の国造の始祖です)。
命は兵士を引き連れて各地で賊を平定した後、安婆の島((あばのしま・稲敷市浮島)に軍の宿をとりました。その時、海上の東の浦を遥かに望みますと煙が見えたのです。そこに人が住んでいるのではないかと思われた命は、天に向かい祈りました。
「もしあの煙が天皇の支配下にある人たちの煙ならば、こちらにたなびき、私の上を覆いたまえ。もしも凶暴な賊の煙であるならば、去って海上に行きたまえ」すると煙は海上に流れて、命はいながらにして、凶暴な賊がいることがわかりました。そこで部下の者に討伐を命じ大急ぎで朝食をとって対岸に渡りました。
そこには、夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)という二人を首領とする賊たちが穴を掘り要塞を造って住んでいました。彼らは命の軍隊が来ても降伏せず、手向かいました。建借間命が軍勢を差し向けると、賊は逃げ帰って要塞を閉ざしてかたくなに抵抗しました。
そこで建借間命は賊たちをおびき出すために、策略を思いめぐらしました。まず勇猛果敢な兵士を選び出し、これを山の隅に隠れさせ、兵器を作って備えつけました。それから海岸に船や筏を組んで、雲のような大傘を張り広げ、虹のような旗をなびかせました。そして天の鳥琴と天の鳥笛を美しく鳴らして肥前の国(現在の佐賀県・長崎県)に伝わる杵島曲を、七日七夜も奏で歌い舞ったのです。
そのうち、賊たちは賑やかな音楽にひかれて要塞から皆出てきて、浜辺いっぱいに浮かれだしました。その時建借間命は、騎兵に命じて要塞を閉ざさせて退路を断ち、後ろから襲撃して、ことごとく賊の仲間を捕らえ、同時に焼き殺してしまいました。
この時賊を「痛く殺す」といった所は今、伊多久の郷(いたくのさと・潮来市潮来付近)といい、「ふつに斬る」といった所は今、布都奈の村(ふつなのむら・潮来市古高付近)といい、「安く殺る(やすくきる)」といった所は今、安伐の里(やすぎりのさと・遺称地不明)といい、「吉く殺く(よくさく)」といった所は今、吉前邑(えさきのむら・潮来市江崎付近)といっています。
「常陸国風土記」より
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「水郷潮来あやめまつり」を間近に控え、講習会が開かれました。
今回は観光案内講習と共に、「常陸国風土記」の中の潮来について書かれた箇所についてもご教授頂きました。上記、講習会にて使われました訳文です。
舞台となったのは潮来と延方。
地名がより多く出て来るのは延方地区ですが、そこに何故「伊多久」の名が付かなかったのかが不思議に思えます。と言うのも、その当時の潮来の街なかは水際がもっと高台付近に迫っていて、現在の住宅地はほとんど無かったからです。(北浦・霞ヶ浦は内海で、流海(りゅうかい・ながれうみ)と呼ばれていました。水位も今より高かったのです)
この為もあるでしょうか、常陸国の国府である石岡から鹿島神宮へ向かう道に造られた「潮来駅家(うまや)」の場所は、潮来市では稲荷山付近として「長勝寺」本堂脇に「潮来駅家跡」の表示がありながら、昨年度の「かすみがうら市郷土資料館」の特別展「理想郷とよばれた常陸国-古代茨城の魅力と実力-」では延方小学校の裏山付近を紹介されていました。
どちらにしても遺跡などの発見は未だ無く、「そうであろう」という想像の域を出ません。また、古代の道は行方市麻生付近から痕跡を無くしていて、私の勝手な推測ながら、そこからは水路で、「潮来の駅家」は荒れた内海の寄航地だったのではないかと思っています。とはいえ、稲荷山には「行方道」という道もあったらしく、まるっきり陸路も無かったとは言えないのです。
さあ・・本当の所はどうでしょう?
まもなく「あやめまつり」を迎える潮来。今は無き、古の昔に想いを馳せてみるのも一興です。
平野貴司著 「海潮の剣(かいちょうのつるぎ)」 (2003年発行 碧天舎)
「杵島の唱曲(きしまのうたぶり)」を題材とした御本を紹介致します。
機会がありましたら是非
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