「島崎城址 登城口」
駐車場から畑の脇を通って島崎城跡へ登って行きます。駐車場の入口近くには「根古屋」の文字。
島崎城は15世紀前半、島崎成幹が築城した城。台地の先端に3つの曲輪(くるわ)が連なり、一と二の曲輪の間に馬出があり、中間に立派な土塁があるのが特徴で、中世の城郭遺構がとてもよく残っています。(「広報いたこ」より)
鹿行地方最大規模のお城です。
一の曲輪・御札神社へ。
階段もありますが、こちらは急すぎて通行禁止です
「島崎城跡」解説看板
是非、お読み下さい!
「御札神社」
鹿島神宮の御札が御神体。鹿島神宮と同じく北を向いて建てられています。お社の後ろには物見櫓(ものみやぐら)の跡ではと言われる平らな場所があります。
登城案内のパンフレットによると『御札(みふだ)神社のはじまり 島崎長国が鹿島神宮の御札を身に付けて戦ったところ無傷で勝利した事から、この御札を祭ったのが「御札神社」の始まりと言われている。島崎城跡一の曲輪に建立。』
要所要所に案内図があります。
ここは「一の曲輪(本丸)」
「虎口」
虎口とは狭い道、狭い口という意味。ここももっと狭かったのですが、車両が通れるように広くしたのだそうです。右側の盛り土は「お鐘の台」と言われ、鐘で持宝や登城合図を知らせていた伝承。
「馬出曲輪」
「土橋」
馬出曲輪の奥、土橋を通って二の曲輪(東)へ。(反対方向より写す)
「二の曲輪(東)」
「八幡台」
二の曲輪(東)の土塁上。下は空堀で最深は20m。
「空堀」と「土塁」
掘った土は積み上げられ土塁へ。島崎城跡には空堀と土塁がたくさん見られます。
「水の手曲輪」
地元のお年寄りはここが本丸だったと言うそうです。
「大井戸」
落城の折、佐竹勢に渡すことを嫌い、金の鶏の置物を投げ入れた(家来が抱えて飛び込んだとも)との伝説。
「桝形虎口」
ここから二の曲輪(西)へ。
開けた景色が広がります。
「二の曲輪(西)」
これから三の曲輪へ向かいます。
※尚、登城口より舗装道路を道なりに進むとなだらかに進めます。
突き当りの左に腰曲輪、右に行くと水の手曲輪です。
「腰曲輪」
現在は『島崎城跡を守る会』活動時の休憩場所。それ以前には畑が作られていたそうで、砂岩層の下部には貯蔵の為の穴が掘られています。これは昭和時代の痕跡。
ここからはなかなか大変です。
三の曲輪に続く道。脇に生えている真っすぐな篠竹は矢竹として使われていたものだそうです。
写真で伝わるでしょうか、20mの空堀の底です。この上には八幡台。
急な階段お気をつけ下さい。雨天、また雨天後にこの先への通行はお勧めしません。
「坊主屋敷」
「物見台」
登城案内のパンフレットによると『東Ⅱ曲輪への導入部として物見台から(八幡台まで)橋が架けられていたとも考えられる。橋の長さは30m以上となり、その架橋技術が当時あったかどうか定かでない。』
別れ道 三の曲輪へは左側に進みます。
「三の曲輪」
奥に進むと、二の曲輪(西)が見える空間。現在、この辺りが一番端になるようです。
道があちらこちらに。
別れ道に戻って来ました。こんどは右側に下ります。
「切岸(きりぎし)」
斜面を削って人工的な急傾斜の断崖とした工法。
「大堀」へ
一緒に出掛けた皆さんの後ろ姿。
「水堀」
一回りして、こちらに出て来ました。
「島崎城址」「御札神社の古面」石碑
高台の先端辺りには出城も造られていたのではというお話もお聞きしました。どの辺りまで島崎城だったのかはまた確認してみたいと思います。
今回のコースは「島崎城跡を守る会」のN様にたっぷり2時間近くご案内頂きました。本当にありがとうございました! 写真はU様にご協力頂きました。ありがとうございました!
案内等、詳しくはブログ「島崎城跡を守る会」へ。
※申し訳無いです!「Ⅲ曲輪はⅡ曲輪の北西にあったが「かすみの郷公園」建設の為湮滅した。」のは「長山城跡」の事でした! お詫びして訂正致します!
※「根小屋」→「根古屋」、お社の後ろには物見台の跡→物見櫓(ものみやぐら)の跡 に訂正致します。(21,6,15記)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます